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#145 おたく語会話(構造解析編)
投稿者:LD <2006/09/22 03:30>
1.構造について
LDは普段、作品を評する時の構図(設定)と構造という言葉を分けて使っている…使っているはずだよ?(オドオド)構図とはキャラクターの相関関係などを表した図面を指し、構造はキャラクターの関係性を元に実際に組み上がった作品全体(あるいは一部)の外観を指す。
…という書き方をすると何の違いがあるか解らないかもしれないが、前者は物語を走らせる前の作者の思惑→設計図を表し、後者は実際に物語を走らせた場合の結果を表すといえば解るだろうか?作者が「こうしよう」と思って設計したものも、実際には様々な瑕疵(?)や不確定要素から「そうはならない」事が多々ある。その意味ではデザインとオブジェクトと言った方が解りやすいかもしれない(返って解り難いか?)…というか、単純な画のアングルとしても構図という言葉を使用しているので、表現が煩雑だったかも。まあ、大抵は設定という言いまわして利用しているからいっかな?

ただ、この言い方だと構図は構造ができてしまえば過去の予定表になると受け取られるかもしれないが、製作者は当然、構図=構造のつもりで作業を続けているし、最後まで構図は構造自体に干渉し続けると言える。まあ大抵これを、設定と呼んでいる。最初の設定(構図)に基づいてキャラクターたちはカルネージハートのごとく動きだすわけだが、当然、カルネージハートのごとく当初の予定通りに動かない事もある。また、動かした結果、別の戦法や運用方法を見出したりできるようになる。作品の多重性、深みといはこういったところから生まれてくる。

また、敢えて省略しているが、LDの言う構図とはあくまで「構図予想」であり、構造とは「構造評価」を意味する。ここで重要なのは(ほとんど大抵の)作者は構図の正解を持っているが、必ずしも構造を正確に評価はしてはいないかもしれない、という事である。時に構造に対して観客の理解の方が正確な場合が有り得る事は「客観」という言葉の存在が、そのままそれを証明していると思う。

構造評価とはつまり面白さが紡ぎ出される仕組みの評価である。
道士郎でござるこれについて反例的ではあるが西森博之先生の作品「道士郎が行く」を上げておきたい。実はあの作品には強固な構造が見当たらないのだ。遂に連載が終わるまでLDは「アリゾナ帰りのインチキサムライが現代日本でうろついていると何故、面白いのか?」という、その構造を分解できなかった。(まあ、別の結論はあったが)さらに言えば、他の登場人物含め、西森先生が、どういう思いを込めて最初の設計が為されたか?その構図も完全には測りかねる状態だったと言っていい。
強固な構造がないという事は、その面白さは新たな展開と新たな演出に拠る事になる。「死刑!」とか「んちゃ!」と言えば笑ってもらえるといった構造を抱えている作品は強いが、そういう要素を一切持ち得ない作品で面白さを維持しようと思うと、際限なく作者のセンスとアイデアを消費しつづける事になる。
結論として漫研では西森先生に「無尽蔵の才能の持ち主」という評は出さず「西森先生は、こちらの定型にない、なんらかのキャラクターのイメージを強固に持ち、それに基いて強固な物語構造を構築している……“はず”である」という評になっている。つまり「よく分かんない」という事なんだが。一見何の変哲もない平凡な連載の「道士郎」や「天使な小生意気」が、しばしば漫研において驚嘆の声をもって評され、あまつさえ「名作劇場的だ!」という声さえ飛び出てくるのは、実はこの事に起因している。(※ 構造を形成する上での個々の作家独自の構築法をメソッドといい、たとえば西森メソッドとか赤松メソッドとか言うが、この説明は別の機会に譲る)

勿論これはLDの「道士郎が行く」に対する構造評価であり、他に「道士郎の構造解析ができた!」という人がいれば是非手を上げて欲しい。(多分、設計はこうで構造はこうなった、そしてターン・ポイントはこれという話になると思うが、懸案はターン・ポイントになるはず)

2.強さについて
キャラの強さとは、表現が省略されているが、物語構造を「構成する強度」の事である。物語構造を面白さを生み出す機械と捉えた場合に対する「構造を支える部品としての確かさ、及びその構造の依存度の高さ」と言い換えてもいいかもしれない。多くはある特定の「関係性に対する強さ」を論じるために使われるようになっている。実際、相対的なものである以上、キャラ単体では強さの機能は持ち得ず、必ず物語全体に対してか、任意のキャラとの関係性が論じられるのである。しかしながら、これらの条件を省略して、ただ「強い」とだけ表現しているので、この分析にはしばしば、個人的な感情を入れて「強い」と言ってしまう事があるのだが、これは、はっきり言って正しくない。元々は「このキャラが好き!」という表現と、峻別する為に「強い」という言葉を利用しているのだから、当然、それとは分けて考えなくてはならない。
つまり、いくらLDがギョライ先生(ボボボーボ・ボーボボ)や、ワンワン隊長(ブリーチ)、バードマン(みえるひと)が好きであっても、決して彼らの事を「キャラが強い!」と評してはいけないのである!(…ギョライ先生はちょっとだけ強いかも)

実践的には個々の設定(情報)をチェックする事によって、そのキャラクターを分析して行くのだが、この時、非常に叙情性の高い、エモーショナルな演出等を、どのような設定(情報)として捉え直すかが、構造解析の見識の問われるところである。そんな見識を積んでどうするんだ?というツッコみはしないように。これらの情報を積み重ねる事によって、作品を論じるという行為が可能になってくるのだ。
世の(大抵ネットの)おたくの評を見ていると「嫌いな絵」と「下手な絵」の区別がつかず、一緒くたに断じてしまっている人間が非常に多い事に気がつく。明らかにデッサンの基本を踏まえた画なのに「絵が下手」…声優評なんかもそうかな?明らかに平均以上の技量を持っているのに「演技が下手」…それは、お前が「嫌い」なだけだろw 仮にもおたくがそんな事ではダメなのだよ。言葉に直せるものは、とことんまで言葉に直して行くことによって、作品の面白さを骨までしゃぶり尽くす事ができる。たとえばバードマン(みえるひと)について、分析の結果「何ら物語構造に貢献していないのに、何故かバードマンが好き!」な事と「何ら物語構造に貢献していないと思われたバードマンが実は物語構造に強固に介入してた!」事を発見するのは、その意味する物が大きく違うのだ。

※ところでバードマンが何者か分からない人は「征け!バードマン!」参照だ。

3.牽引力について
涼宮ハルヒの憂鬱キャラの強さを論じるに当たって、物語を展開させる能力の高さを牽引力で表現される。牽引力には問題悪化力と問題解決力がある。というか悪化力はそのまま物語の展開力に通じてしまうから、実は牽引力とそのまま言ってしまっている。逆に問題解決力は別個に論じられる。何故かというと、全ての物語には終りがあり、つまり全ての物語は何らかの形で解決される構造を持っている事に起因する。全ての問題は解決されるが故に、逆説的に特筆されるべき解決能力を持つキャラは強力な牽引力を持つ者として論じられるのだ。というより、ヒーローもの場合、問題解決力は主人公が全て持っていってしまうもので、別個に問題解決力を持っているキャラは、大抵の場合、いわゆる“おいしいキャラ”なのだ。

たとえば「涼宮ハルヒの憂鬱(アニメ)」であるが、キョンとハルヒのどちらを主人公か?という問題に対し、構造解析的にはハルヒを主人公と捉えるのが妥当なはずである。観客視点では勿論、キョンが主役なのだが、物語自体がどのように展開されて行くかの動作を追跡して行けば、自ずから中心的存在(シャフトと呼んでいるが)はハルヒという事になる。この場合、ハルヒが主格で、キョンが従格と評価される。さらに他のキャラについて、古泉くんは「おまえはハルヒの執事か!」というくらいハルヒへの従格であり、朝比奈みくるはキョンに対して従格である(キャラを別け合っている?)。…というかキョンはそのキャラクター性を形成するにあたって、朝比奈みくるへの依存度がかなり高く、二人一組と言ってもいいかもしれない。これ、カップル成立と言っているワケではないので、誤解しないように。むしろ拝一刀と大五郎というか……………………ま、止めとこ。
で、長門有希の評価だが、構図的にはキョンの従格なのだが、実は彼女自身はかなりスタンド・アローンな存在である事が分かる。「涼宮ハルヒの憂鬱」は涼宮ハルヒが物語を悪化力で牽引して、回りが寄って集ってそれを解決するというのが、基本構造となるが、見れば分かるがその問題解決における長門有希への依存度は非常に高いと言える。
さらに彼女は問題を発生させる強い設定を持ち、これに付随して問題を悪化させる強い設定を持ち(朝倉の事なんかを言っているのだけど)、先述のように問題を解決する強い設定を持っている。物語展開においてハルヒをシャフトとしたが、ポテンシャル的には長門は間違いなくもう一方のシャフトが張れるのである。補助エンジンと言ってもいい。こういう時「この物語において長門は強い(構成体として強固だ)」と評価される事になる。

さて、ここまで述べたところで本題に入るが…。
これらの事を前提に「となグラ」の構造解析を一気に行おうと思う。(←それかい!)
となグラ「となグラ(アニメ)」において、強いキャラは初音姉さんである。これは彼女が作品の世界基盤を支えなおかつ問題展開力と問題解決力の両方を持っている事が大きい。順を追って話すと、まず香月と勇治の関係が核となる。「子供の頃、初恋の相手だった男の子が再び引越して来るが、あまりの変わり様にその心が揺らぐ」という構図(設定)は、どういう事かと言うと「細かい手続きをすっとばして、既にある程度積み上がった状態を提示する」事である事が分かる。つまり、二人が互いに出会って、最初は反発ばかりな二人だったが、次第に心惹かれて行く。そんなタイミングで恋のライバルが現れて…うんたらかんたら!……とかいう積み上げは、“一旦”バッサリ省いている。正確に言うと結局、こういったお決まりの展開は踏襲するのだが、同じ動作でも前述の設定で沸点が近くなっている事が分かると思う。つまり厨房で観客にとって一番よい「火加減」の時に料理を素早く食卓に出している状態と言える(この事は積み上げが早い、あるいは速度が出ていると言う)。ま、そこらへんはよくある配慮だし、実はどうでも良くって初音さんの話だが。この核となる二人の設定を構造の「素体」と考えるとして、初音さんは、構図的には香月の従格だが、構造的にはこの「火加減」を確保する存在として設置されている事が分かる。具体的には素体の日常を支える存在として家事全般と保護を司る設定が与えられている。両親という実質物語に邪魔な(と判断した)四名を1名に集約する事の意味は大きい。これが一点。もう一点は、おそらくこの作品は勇治の妹・まりえちゃんと、初音姉さんの両輪で「火加減」の調節をするべく、設計されていたはずだが、実働の力関係で初音さんの方が強くなってしまった。彼女たちの基本動作を見ると実に単純で、初音さんが「火付け」でまりえちゃんが「火消し」という事が分かる。しかしながら「となグラ」は「今にも消え入りそうな悲恋な展開にハラハラドキドキするメロドラマ…ではない!」という作品の性格上「火消し」が強くはなり得ない。あくまでトロ火に調節するのが目的で構造的に「火付け」が上位になる。また、主格の香月は二面性を持つキャラでその表面が既に「火消し」の属性を持っており、被ってしまっているのだよこれが。まりえちゃんの決めセリフ「排除します」がイマイチ回らないのはこの為である。話が反れてしまったが、素体の二人を鍋に入れて「火加減」をトロ火に調節するのが「となグラ」の基本構造であり、尚且つその肝の「火加減」を二人で調節する予定が、いざ実稼動においては前述したような不具合(?)によって、実はほとんど初音さん一人で主導権を握っている構造という、初音さんは非常につよ〜いキャラになっているのだ。ところで、この構造にほとんど全く反発しない形で、するりとポジションを確保している香月の従格・鈴原ちはやちゃんは、正にSGGK(スーパー・グレート・ゴール・キーパー)とも言うべき存在なのだが、すっかり話が長くなってしまったので、ここまでにしておこう。まあ、そんなワケでLDが「初音さんは強い!」と発言する裏には、これだけの意味があるのだという事を皆は覚えておいて欲しい。初音さんの胸がバインバインな事とかはLDにとっては全っく関係ない話なのだ。関係ないったら!(←ムキになっている)
  • 物語構造とキャラ強度 投稿者:GiGi <2006/09/22 13:45>