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#196 スクールランブル考(2):八雲の世界
投稿者:LD <2007/06/26 06:23>
さて、引き続き、八雲の考察を述べてみたいと思います。今回はその「八雲の世界」の「スクラン」への関わり方を考察しようと思っています…が。ちょっと、前回の考察でいろいろ説明不足な面もあったかと思いますので(汗)もう一度本件の視点をまとめてから今回のフェーズにとりかかりたいと思います。
まず、塚本八雲は「♭の世界」の主人公である事は作中で宣言されています。同時に他のキャラクターの番外編的な意味もありますが、これは本編の「スクラン」(以下、「#の世界」)にもある事で(、両編のスクラン全体に共通するフォーマットと言えると思います。…で、先回述べたように♭シリーズで語られる「八雲の世界」ではしばしば超常的な現象が語られます。これは八雲自身が不思議な能力を持っている事に起因し、また、それに吸い寄せられるように他の不思議な現象も八雲の前に現れます。同時にこの八雲の見ている「世界」というのは♭シリーズの中に隠されている…とも言えます。…で、それについて、かなり顕著な例をピックアップします。
「スクールランブル」Vol.8
播磨が八雲に中間テスト中にマンガ新人賞の描き上げの手伝いをお願いするエピソードがありますが、これは♯92〜96[Vol.7]に渡ってその顛末が語られ、播磨が八雲に「人の心を読めるんだな?」と言い当てるという際どい回なのですが(結局のところ八雲の招待の露見はうやむやになりましたが)、この出来事の描写の一部に当たる部分が♭の世界に移動しています。♭21[Vol.8]がそれに当たるのですが、要するにそこは八雲の能力が発現するシーン、播磨の心が見えるシーンなのですね。他にも、伊織の超能力の発現や、幽霊少女なども、♭の中に収められています。
これらの分別がどういう意味を持つかというと、しかし、♭の世界の主人公としての八雲は、不思議な体験をし、また自らも不思議な能力を持つ少女として描かれているが「#の世界」の登場人物としている八雲は普通の少女として描かれている。言ってしまえば「秘密が守られている」って事を指します。
同時に八雲の正体に直接は関わらない…笠稔持とか、あばれ籠みたいなのは♯に侵入しているんですが…w(汗)あれはギャグの中に紛れているって面もありますが(伊織の能力や、幽霊少女はそれ自体がギャグにはならない)ああいった浸蝕がある事から両者の世界が分離並立しているわけではなく、あくまで「♭の世界」を下地として、その上に「♯の世界」が成り立っている事が分かると思います。それは同時に「八雲の世界」でもあります。
…で、恐らく一般的な観方だと、こういった♭(不思議世界)と♯(日常世界)の境界線上(此岸)に八雲というキャラを置いて捉えるのでしょうけど、僕自身は、それをもっと引いて、♭(不思議世界)の(彼岸の)住人として彼女を捉えようとした。なんでそうしたかというと「♭の世界」は「♯の世界」に対して非常に自由であり、八雲もまた自由な少女に僕は感じたからなんですね。大きなポイントとしてはやはり幽霊少女の言で「あなた(八雲)は恋をしない限り一人ぼっちなのだ」と言い放つ彼女に対して、僕はどうしてもそれをそのまま飲み込む事ができなかった。だってどう見ても彼女は博愛の心情を持って動物や、物の怪、人間たちと等しく暮らしているんだもの!wそういう「博愛なる者」は恋をしないと一人なのでしょうか?いや、無論恋をしたっていいんですよ?wしかし、僕としては、そこは自由だろうと。その選択権は全く彼女に委ねられるものだろうと思ったわけです。しかし、普通に読めば幽霊少女は八雲の潜在的テーマを喋っているのは明らかでwまた「♯の世界」の普通の少女と考える限りはその流れには引っ張られてしまう事も僕は感じていて、…で、まあ色々検証して行くうちに彼女を「♭の世界」そのままの住人と解釈する事で先に述べた感覚との一致が図れる事に気づいたわけです。…というのが先回の「八雲座敷童子説」になります。(まあ、その検証の思考経緯を興奮気味に書き綴っていたワケです)
「スクールランブル」Vol.13
僕自身はこの視点はけっこう気に入っていて、普段「♭の世界」で遊んでいる八雲は、その延長として「♯の世界」に介入する事になります。その世界観っていうのは僕の中ですごくしっくり来ます。まあ普通に読んでも八雲が「♭の世界」を通して「♯の世界」に接しているとは考えられると思います。(正確には♯の世界も♭の世界の一部なんですけどね)
これに合わせて…かどうかは分からないですけどw僕が気づいた事として、八雲には「♯の世界」に対して「観察者」としての特性があります。
播磨がクリスマスの夜に天満に自分がマンガを描いている事を告げて原稿を見せ、その後講談社へ向かう♯159[Vol.13]ですが、ここで八雲の心理描写として天満と播磨というキャラクターに対する説明が入ります。非常に重要なシーンのはずで、引用しますと「何の恥じらいもなく笑みを浮かべて『そーなんだ播磨君アハハ』。普通の人間ならこうだったろう。その不自然さが人と人との関係を狂わせてゆく。だが!塚本天満と播磨拳児にはそれがない!こんなにも擦れ違っていているのに何と自然な関係だろうか!!」とあります。読めば分かりますが、この言葉は八雲というキャラクターから発せられた言葉とはかなり考えにくいものです。にも関わらず、前後の文脈から考えると八雲の内心が語られている事が分かります。…それはどういう事かと言うと作者あるいは作品視座と八雲の視点がシンクロしているという事なんですね。
この作品において、ナレーション(作品視座)はしばしば利用されますが、多くは状況説明のものがほとんどでキャラクターの内面を説明する場合でも外からの解説によって成り立ち、おそらくこの回のように内面に別人格が入り込んで述懐されるパターンはないと思います。(キャラクターの内心がナレーションと同じ枠線で述懐される事もありますが、その際はやはりキャラクターの人格にそった言葉使いで記述されます)…う〜ん、やはり八雲が♭の視点を持っている事と無関係ではないと思うのですが、それが何を意味するかというと、少なくともこの天満と播磨の評価において「八雲の見解が作品視座の見解と一致している」って事を表します。八雲自身も常に全部の情報を手に入れているわけではないのですが、いち早く真相に辿り着き、この回のような作品視座を伝える役目も担ったキャラクターは今のところ八雲だけです。

近いパターンの描写がもう一つあります。#216で、新連載用の原稿を破かれて落ち込む播磨が「何故、お嬢のヤツは原稿を破りやがったのか…」とつぶやいたその後ろに立った八雲の沢近の説明。引用すると「熱く激しい赤い光を放つ宝石のような女(ヒト)――私とは全く逆の心を持つ女(ヒト)――強く鋭い瞳から、あの人はあの人の固いルールがあることが伝わってくる。彼女には譲れないものがあるのだ。私はきっと彼女の潔さ力強さがうらやましいのだ。私が持ったことのない未知の強さが…」とあります。これも「私」という一人称が使われているものの、八雲というキャラクターから発せられたとは考えにくいものです。「熱く激しい赤い光を放つ宝石のような女」という詩的な表現もそうですが、そもそも、先ほどの♯159[Vol.13]にも通じますが、こういう饒舌な思考そのものが八雲らしからぬものであるように思います。やはりここでも作品視座とのシンクロが行われて、一人称が用いられるのは、今回、八雲自身の評価も入っている事があるのだと思います。
いずれにしても、この二件は「スクールランブル」の中でも一風変わった表現で、現在、評価されているのは天満、播磨、沢近、八雲の4名、そのいずれについても八雲の視点が利用されている事になります。
「スクールランブル」Vol.5
もう一つ、八雲の特性を表す存在として、サラがいます。♭13[Vol.5]でサラはバイト先の店長不在の状況で、麻生と協力してお客を捌ききるエピソードがありますが、僕は長い事、何でこのトリガー(伏線)が掛かっていながらサラ×麻生が起きないのか?あまつさえ♯132[Vol.11]で「あのね、一緒に居たからって絶対そうってわけじゃないのよ」と全否定する必要があるのか謎でした。これは「スクラン」をある程度読み解いている人なら分かってもらえると思うのですが、この作品では♯、♭問わず細かいシーンでカップル的なトリガー(伏線)がかかると、かなりの確率で、その線が起きるんですね。少なくとも、その目がモロに否定されるたのはサラだけでしょう。
しかし、この謎というのも「八雲の世界」が見えるようになってきた時点で氷解しました。つまり、サラは「♭の世界」の登場人物と言えるんだと思います。そもそもサラの初登場は♭03[Vol.2]ですし。そして「♭の世界」の主人公は八雲で、彼女は八雲のためにいると言えるわけです。
ちょっと非常に混沌としていて、あまり一義的に言えない事なんですが、敢えていうと麻生とのつながりを避けたのは「♯の世界」の物語の流れに巻き込まれるのを避けた…と言えるかもしれません。一条さんや、結城さんのような「♯の世界」の登場人物と、「♭の世界」の登場人物であるサラは持っているテーマが少し違う……そう考えるとサラというキャラが見えてくるような気がします。(そういえば八雲の学校での居場所である茶道部のメンバーは全員「♯の世界」の流れからは一歩離れた位置にいる気もします。…高野やイトコ先生が「♭の世界」の住人か?というと違うと思いますが…)

ちなみに播磨と八雲が初めて出会うのも「♭の世界」です。………………と言おうと思ってたんだけど……特別長編[Vol.2]の中華料理屋で出会ってるなあ?(汗)………………いいいい、いや?なねえ?で、dでも、#55[Vol.4]のキャンプ場で播磨と再会したときの八雲の認識は「キリンの人…」で、「中華料理屋で会った人…」じゃないしねっ(汗)そそそそそこらへんは混沌としているのjだgはftsふじこ?
いや、何がいいたいのかというと「八雲と播磨」の物語は「♭の世界」の流れに属するものではないかという事です。それはサラを「♯の世界」の流れから外したように、「天満と播磨」「播磨と沢近」といった「♯の世界」での流れと性質を異にしているような気もしています。(具体的にどういう性質かって話はできないんですが)

さて「♯の世界」の八雲について、僕が着目したポイントを幾つか挙げさせてもらいました。そこから見える特徴は八雲の「♭の世界」からの「♯の世界」の関わり方を顕していると思います。それは例えば先に述べた「観察者」の項について「♭の世界」の主人公だから持ち得ている視点ではないかという話もできると思います。(繰り返しますが「♯の世界」は「♭の世界」の一部です)で、まあ最初の話に戻るわけですがw僕は八雲にはサラが必要だとして、僕はサラは「♭の世界」の此岸に居て、八雲は彼岸に居る……という関係がしっくりくるわけですw一般的にはサラも此岸、八雲も此岸、という事になるんでしょうけどね…orz
そして「♭の世界」を逍遥として遊ぶ八雲を見るにつけ、この娘は非常に「自由」だなあとw これから播磨とどうなるか?あるいはサラや茶道部はこのままなのか?そういったあらゆる展開を受け入れる広いポテンシャルがこのキャラクターにはあると思います。男の子を好きになってしまうのも自由だし、好きになった男の子の恋愛が上手く行くように手伝ってあげたりするのも自由。あるいは伊織や幽霊少女と劇的な展開が待っているかもしれないしwそうでないかもしれないw
それらはやはり八雲が「♭の世界」の主人公だからなんだと思います。そういった視点から塚本八雲の物語の顛末を眺めてみるのも「面白い」かな〜?と思うわけです。
  • Re:スクールランブル考(2):八雲の世界 投稿者:エスねこ <2009/12/16 11:32>