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#255 続・ダメエンド対決覚え書き・キミキス pure rouge 対いちご100%
投稿者:井汲 景太 Ml Hp [2008/08/13 01:54]
<<<親記事]
「キミキス pure rouge」(以下、キミキス)も見ましたので、今度はそちらとの比較を…。これで一応ルイさんへの義理は果たせたと思います(笑)。

チャットのログを読み返してみるともうさんざん出てる話なんですが、ここで整理しておくと、重要なのは次の二点です。まず第一に、「キミキス」が視聴者から非難されている事情というのは、「光一の、結美からの心変わりが余りに急(話数ベースでのカウントで)すぎる」「初めの方で、光一が結美一筋で、摩央に心が傾いてる気配が非常に乏しかった」ということですね。摩央の側はもう完全に光一しか見えなくなってるんですが、翻って光一の方は、熱出して朦朧としてたときの「キス…?」イベントがちょっと楔になってるくらいで、それを除けば結美一筋の気持ちが揺らいでる様子は全然感じられなかった。

そしてもう一点は、「光一にとってのナンバーワンは結局摩央だった、ということに、光一が気がついてしまう」ことについては、実は十分な演出が積まれているということ。細かく挙げれば色々あると思いますが、決定的なのは22話ラストですね。「フランダースの犬」の本を抱えて嗚咽する光一の姿からは、この時点で彼の本当の心はもう摩央に向かっている、ということがよく解る

あと補足すると、摩央と結美を比較した場合、「物語に起伏があるのは」どちらか、と言ったらそれはやっぱり圧倒的に摩央の方なんですね。光一と結美は「順調に=淡々と」交際が始まって経過していっただけですが、摩央の方はインパクトのある登場から始まって山あり谷ありですから。そういう意味でも、摩央と結ばれる展開にしたことにも、制作者の誠意はちゃんと感じられます。

こう整理した上で考えると、キミキスは、「物語として」酷かったかと言うと、瑕疵があるのは間違いないが、しかし「酷い」一辺倒ではなくて、弁護に値するだけの手続きも踏んでいることもまた間違いないですね。キミキスで何が酷かったかと言えば、それは「光一の取った行動が」「(同じ世界に住む登場人物の立場から見て)倫理的に」酷かったんですね。転校して別れ別れになってしまうことを告げ悲しむ結美に「バイトして毎週会いにいく」とまで言った挙句に、最後は摩央に乗り替えたわけですから!これは非常に酷い、「鬼畜」と呼ぶにふさわしい行為です。しかしその一方、「物語が」「(視聴者にとって)手続き的に」酷かったかと言えば、それはそれほどでもない。

さて、翻っていちごはどうだったか、と言うとこれはまったく逆です。「登場人物の取った行動が」「倫理的に」酷かったか、と言うと別に酷くはなくて、たまたま誤解している間に他の娘と付き合うことになって、その娘に情が移って離れられなくなってしまい、誤解だと解った後で、以前好きだった娘が告白してきても振った…というのは、同じ世界に住む登場人物の立場からすれば「そういう心変わりは仕方のないこと」でしかありませんね。一方「物語が」「手続き的に」酷かったか、と言うと、これは底抜けに酷かった

キミキスの方には、「光一が摩央への想いに目覚めた理由」が、「幼い頃、自分を泣き止ませるために摩央が絵本を預かってくれた」という思い出が「今に至るまでずっと、その絵本を大切に保管してくれていた」ことと「自分が絵本作家を目指すきっかけになった」という2つの事実とがっちり噛み合ってしっかり描かれています。いちごにそれに相当するものが欠けていて、「なぜ西野に心が傾いたのか?なぜ・どう東城への想いを清算したのか?」に何の理由も説明も与えられていないことは、前回(http://www.websphinx.net/manken/hyen/hyen0243.html )書いた通りです。
さらにもう一つ、いちごのラスト近くの「雪の日の、東城からの真中への別れを告げる場面」から引用しておきます。この場面で、去って行く東城の姿を目にして嗚咽しながらの真中のモノローグは映画の中だけじゃない。東城となら何だってできる気がしてた。一緒にいてそんな気分になれた女の子は多分東城だけだ…なんですね。これは、キミキスで言えば、上述の光一嗚咽エピソードに匹敵し、「真中/光一にとって、『本当に特別』な唯一の女の子は東城/摩央でしかなくて、他の誰もその間には入って来られない」という強い想いの篭った描写です。キミキスでは、これがあるからこそ「選ぶ対象が摩央であること」それ自体には、言い訳が立つようになっているのですね。
一方、西野の側に、これほどまでに強く印象を残す、力の入ったシーンは残されていません。「西野はかわいくてやさしくて、それでいて俺の気持ち誰よりもわかってくれて」とか、「今は東城の涙より、西野が見せたさびしい表情の方が俺を辛くさせるんだ」などという表面的で重みのないセリフやモノローグがあるだけです。それどころか真中の西野への評価は結局「ずっと肝心な部分には触れない関係だった」ということに留まるのですね。キミキス・いちごともに、主人公が最終ヒロインを選んだことは「泣かせたくない(寂しい表情をさせたくない)」を理由にしていたんですが、その内実・裏付けのレベルが全然違う。

「登場人物が倫理的に酷いが、物語が手続き的にはそう酷くないキミキス」と「登場人物は別に倫理的に酷いわけではないが、物語が手続き的に急所の要石を外しているいちご」を比べたら、その酷さにかけてはやっぱりキミキスはいちごの足元にも及びません。これを「いちごは路線変更の労力をかけているからOKだけど、キミキスはかけてないからダメ」などと評するのは、物語の神様に対する冒涜だと思います(笑)。いちごのそれは「労力」と呼ぶに値しない。もちろん D.C.II みたいな底抜け脱線ストーリーと比べてもキミキスの方がまだ遥かにまともな作りで、物語というものに対する誠実さが全然違います。




あと、これまで D.C.II やキミキスとの対比という形では言及する機会を逸していたんですが、いちごにはまだひとつ、「物語的に極めつけに酷い所」がありますので、それに触れておきます。

いちごの終盤が非常に理不尽に感じる理由のひとつは、最後、東城が真中・西野カップルに利用されるだけされ尽くした挙げ句、何の見返りもなしに切り捨てられてしまったことです。

角倉に声をかけられて調子に乗る真中と、その角倉に否定されて落ち込む真中、どちらも真中の心の中に真っ先に思い浮かぶ相手は東城です。これまでずっと真中を支え続けた東城の一番の願いを無情・薄情にも粉々に打ち砕いておきながら、自分の夢のためにいけしゃあしゃあと東城に頼る真中は厚かましいことこの上ない最低野郎になってしまっています。一方西野は、この件については真中の心の中にチラとも思い浮かばない程度の小さな存在感しか持っておらず、「正式な彼女」のはずなのに全然真中を支えることができていません。

こうなってしまうのも、これまでずっと東城とくっつけることを前提に話を進めて来たもんだから、真中の映画にかける夢を具体的に支えられるスキルを持ってるキャラが東城と美鈴だけになってしまっているからですね。お話としてはこの期に及んで美鈴に焦点を当てるわけにも行きませんから、東城がそれを一手に引き受けざるを得ないのは物語上の必然で、この辺は急激な路線変更のおかげでどうしようもなく話がちぐはぐになってしまってる部分です。

この間西野が何をしていたかと言えば、諍いをしたりキスして翻弄したり、「来年になってもずっと大好き」と具体性に乏しいくせに執着心だけは丸出しにしたセリフで真中を縛ったり、留学・別離が迫っているのに具体的な話は全然しなかったりで、しまいには東城の影・姿に怯え、真中とちゃんと向かい合うことすらできないままあのカラオケボックスのシーンを迎えてしまいます。

その最後の場では、真中を「映画製作者への夢」に真剣に目覚めさせる原動力までもが東城(が贈ったノート)が担っていて、西野はその成果だけまんまと只取りするばかりで何の寄与もしていないんですね。これが「西野がメインヒロインの話」なら、主人公の覚醒を導き、認識の水準を引き上げる役は、当然西野が担わなければいけないのに…!そういう、「作り話における主人公のパートナーが果たすべき役割」に関しては、西野には落第点をつけざるを得ません。

結局、この終盤では、特に学園祭後に顕著ですが、真中も西野も「主人公の成長」という極めて重要な要素は全面的に東城にお膳立てしてもらいながら、たまたま東城が自滅して身を引いてくれたおかげで、結果として自分たちの幸せのために必要なものさえ手に入ればこっちのもの、とばかりに東城のことをまったく顧みず一方的に踏み台にした、という恩知らずで怠慢極まりない極悪カップルにさせられてしまった、という形になってしまっているわけで、この上なくやり切れない身も蓋もない話です。(※ 真中・西野が「主体的に」行ったことではないので「させられてしまった」「という形になった」という表現を用いています。物語的に、「結果として、そういう形になった」ということを述べています)




さて、これまでいくつかの記事を通して、いちごの酷い所を挙げてきました。「西野がなぜそんなにも真中のことが好きなのかわからない」「西野が(終盤に入ってからは)自分では何もしないくせに、タナボタ的にオチだけはまんまと手にしている」「オチてくれず、スカされるばかりの長いフリ」「途中で一旦西野と別れたことの意味がなくなっている」「西野側の障害が小さすぎる」「結末を決定した要素が、キャラの決断や行動とはほとんど無縁な単なるタイミングだけに還元されてしまっている」「唯一人の特別な女の子は東城のまま」「真中と西野が東城を利用するだけ利用してポイ、という形になってしまっている」(細かく挙げればまだいくらか拾えることはありますが、それは私のサイト http://ikumi.que.jp/ichigo/ で詳述していますのでそちらをご覧ください)
で、これらはそれぞれ単独でも「いちご」に物語的正当性が欠けていたことの大きな材料になっていますが、相乗効果によって一層酷い様相を呈します。「なぜそんなにも好きなのかわからない上に結末が単なるタイミングに還元されてる」とか、「西野側の障害が小さすぎるにもかかわらずタナボタ的にオチだけは手にしている」とか「途中で一旦別れた意味がないにもかかわらず結末が単なるタイミングに還元されてる」とか「オチてくれず、スカされるばかりのフリにもかかわらず特別な女の子は東城のまま」とか「利用するだけ利用してポイにもかかわらずタナボタ的にオチだけは手にしている。真中・西野カップルは、何重にも渡る東城への搾取の上にしかなりたちえない」とかいった具合に。「西野勝ち」という出来レースの結論に合わせるためだけに、物語の結構がありとあらゆる面で歪められているのですね。

これを「崩壊」と呼ばずして、他に一体何を「崩壊」と呼ぶのか?D.C.II と比べても、「なぜ製作者側が美夏で締める必要があると思ったのか、そしてその締めでなぜあんなに清々しそうなのか、その理由が全然わからない」という不可解さにかけては1歩譲るとしても、「物語的な裏切り」についてはやっぱりいちごの方が遥かに上なのではないでしょーか(笑)。

ま、あれですね。「いちご」「D.C.II」「キミキス」すべてに共通して送るべき言葉は、炎尾燃先生のこの名言でしょうか(笑)。

“かいたものが何百万部とすられて世に出されるマンガ家がだ、男が女を安易にうらぎって幸せになるなんてストーリーをハッピーにかいて…そんな…そんな情けないフィクションを堂々とかくなーっ”“きさまの世界では女をボロボロにしてすてる男が幸せになるのかっ”