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#296 ハーレムメーカーと、並列ヒロイン構造
投稿者:ルイ [2009/02/03 04:17]
<<<親記事]
 そういった恋愛ゲーム発展の中の1つに“無根拠な恋愛原子核存在のまま、ヒロイン1人1人の重みを持った物語を全て処理していく主人公”という存在への自覚的な問い掛けがあり、それがゲームサイドからの「ハーレムメーカー」に繋がった、と考えています。

 まず段階として、無根拠な恋愛原子核という存在の違和感を解消しようとしたら、当然根拠を与えますよね(根拠型恋愛原子核)。「何故か」の「何故」に理由を与えるという事ですが、その根拠が外部から与えられたものの場合(顔、血縁、女神が応援w…エトセトラ)、恋愛原子核によるハーレム構造の言い訳、理屈付けのようなものになると思います。つまり構造補強を行うという事なんですけど、これ自体は違和感は解消されても、構造そのものへの影響はほとんど無いと言ってもいい。「コレコレこういう理由で、彼は恋愛原子核なんですよ」「…ふーん」といいますか(笑)。納得が高まるから読みやすくはなるんですけど、基本的に「核は核」である事自体に変わりがないので、主人公のサイドに物語の比重が移る事はない。相変わらず「○○ルート」にほとんどの物語%を預ける形式ではあり続ける。

 ところがそこでもう一段階問いかけを進め、根拠を主人公の内部…内面に求めた場合はどうなるか?それは“複数のヒロイン達の物語を平然とひきつけていく、化け物じみた主人公”という人格を形成する根拠、或いは動機の問題になりますよね。常時付き合う主人公である人格に、内的な問題が存在する…ここに自覚的になってしまったら、早晩その問題は物語化する。言い換えれば自らそこに向き合い、能動的に解決しようと動き出す物語が組まれる事になるのですが、その内面の物語と、対象の内面の物語の解決を結びつけた作品こそが「Fate stay/nigtt」(2004)(主人公60%、ヒロイン40%)であり、その主人公の衛宮士郎のような存在こそが「根拠型ハーレムメーカー」。つまり無根拠恋愛原子核→根拠型恋愛原子核→根拠型ハーレムメーカー、という順序でもって「問いかけ」は進んだ、と考えられます。

※ちなみに漫画原作のアニメーションながら、「エルフェンリート」(コミック2002〜2005、アニメ2004)の主人公コウタはこの「根拠型恋愛原子核」の根拠が内面に存在しているにも関わらず、外的な記憶喪失などの要因が加わってハーレムメーカー化しなかった特異ケース。物語の力学が加わる事で、ようやくこういった主人公が成立するのでしょうが、それは、内面の物語を抱えた原子核は、基本的にハーレムメーカーになるのではないか?という考えにも繋がります。

 ここで「根拠型ハーレムメーカー」が、最初に登場した「とある魔術〜」主人公・上条当麻のアニメ放映4ヶ月現在のタイプである「無根拠ハーレムメーカー」を飛ばして登場した事について、表現媒体による違いとも絡めて軽く押さえておきましょう。本当は先にそちらがあるはずなんですが、ちょっとこのあたりは難しい。連載、或いはシリーズ化を念頭に置く漫画・小説といった文化と、ゲーム(アニメもそう。続編前提はその限りではありませんが)の最大の違いは、ワンパッケージの作品は、完全に終わりを見据えて作るという事。一方連載の場合、余程「書きたいものだけを一気に書いて終わり!」という詰め方をしない限り、連載・特定シリーズ小説…いずれも「終わる」事も念頭に置きつつも、まず第一に「続く」事を見据えて作られます。運動体として半永続的に回転する構造を構築する事が目的になれば、それは基本「無根拠ハーレムメーカー」の物語になる。それはそうですよね。何故かと言うのは、序盤に書いた「物語の配分比・バランスの問題」から説明できます。

 無根拠なハーレムメーカーが能動的に、新たに現れるヒロインとその物語に踏み込んでいくという事は、%で書けば(主人公数%、ヒロイン90数%)といいますか…作品のほとんどを、毎回出てくるヒロインの物語に預ける事になる(つまり純粋な○○ルート、○○シナリオへの回帰)。物語を通して出張るのは主人公なので、主人公側の内面の物語が消費されない限り、原理的には100%中のほとんどを受け持つ「○○」を交換していくこの構造で、いくらでも連載の維持が可能になる。勿論、対象の物語をどこまで魅力的に出来るか?であったり(%の総量が減少してしまっては仕方がない)、動かない主人公に対する「飽き」も常に内包した、そんな気楽な構造でもないんですけど…そこを、ハーレムメーカー側の%を徐々に上げていく事で意欲を保ちながら、物語の終局へ向かっていく。これはまさに連載・シリーズという「続きモノ」ならではの考え方だと思いますが、無根拠ハーレムメーカーが、根拠型ハーレムメーカーへと緩やかに変わっていく。これが、連載・シリーズものの「ハーレムメーカー物語」の基本ではないかと考えています。

※つまり一番最初の「当麻には物語が不足しているね」という問いへの答えは「まだ無根拠ハーレムメーカーの側面が大きいから(そのうち根拠型になるんでね?)」といったようなものになる。とはいえ、かなり長い事無根拠のまま通してきてしまって、あんまりハーレムメーカー側の%を段階的に上げられている実感もないので、今更唐突に上げられても「ご都合」以上に乗り切れるかどうかはわからないんですが…まあ、それは作品評の領域ですね。

 これ、正確には「Fate」の衛宮士朗も辿っている道なんですよね。物語の開始時点では内面の問題に自覚的になりきれていないので、とりあえず「見捨てられない!」という根拠の乏しい行動原理でもって動いている。そしてその違和をスムーズに「欠損」と捉えドラマを紡ぐのですが…ワンパッケージの作品は、始まったその時から既に維持の為動いていなので、頭から「無根拠ハーレムメーカー→根拠型ハーレムメーカー」のドラマが起こっていると言う事ができると思います。つまり何が言いたいかというと、敢えて恋愛原子核から問い掛けて差別化させた以上、ゲーム視点で考えた時「無根拠ハーレムメーカー」というのは物語を始める為の「初期値」でしかないんですね。漫画や小説だと運動体としての価値がありますけど、完全に閉じる事を見据えた物語では、ハーレムメーカーは「根拠型」こそがゴールである。だから先ほど、無根拠恋愛原子核→根拠型恋愛原子核→根拠型ハーレムメーカーという順序を組んだ。実際は根拠型ハーレムメーカーの中に、その入り口あたりに小さく無根拠ハーレムメーカーも収まっているわけです。…これは連載形式でも、主人公であるハーレムメーカーの物語を動かそうとした時には大差ないと思うんですが、繰り返しているように「ハーレムメーカーの物語をなるべく動かさない状態での、運動体としての無根拠ハーレムメーカーの価値」というものがあるので、そのあたりちょっと考え方が異なってくると思われます。

 とりあえず、大雑把…の予定の割には何か結構長くなっちゃいましたが…に、「ゲーム側からのハーレムメーカー」について書きとめました。現状、漫画・アニメ・ライトノベルといった分野での恋愛ドラマ、ラブコメというものに関してのゲームの影響を掴む為、自分の思考を整理する意味があったんですけど、やはり恋愛ゲームの主人公が無色な状態から始まり、その前提がありながら、数値的な意味でのゲーム性から離れた完全な物語(物語濃度100%)を志向した、しかもいちヒロインいち作品濃度…という歪な構造が、今あるハーレムメーカー概念に与えた影響は大変に大きいと思います。まず普通に物語を組もうと思えば、主人公の色をここまで抜こうという発想にはならないでしょう。没個性にも限度がある。そして、その分対象=ヒロインに完全に立脚してしまう構造が、少女の抱える物語を、1人1人が運命的である程に強めていくという極端な%の偏りを産んだ。それでいて主人公は「1人」なので、群像劇ではなく、常識的なドラマ作りでは考えられないほど濃い物語全てが主人公に集まっていく構造を産み、その「濃密すぎる少女ごとの物語を1人で全て受け持つ主人公」という存在への問いかけが、ハーレムメーカーを生み出す土壌となった。…この流れが、おそらく単に「いい男が旅先なりで女の悩みを聞き、解決して一夜を共にした」とでもいうような既存の形式との、決定的に似て非なる部分を生み出したのでしょう。


 結構前からの僕やLDさんの課題である「並列ヒロイン構造の一本化」も、きっと近い所にポイントはあって…つまりおたく文化のハーレム構造自体は漫画などから始まったにせよ(はいはい源氏源氏)、一度ゲームで「全員序列一位」を完全にシステムとして確立したのが「並列ヒロイン構造」の夜明け。その各物語の濃度とエネルギーを再び漫画のような一本の物語に落としこもうとした時、どんな回答があるか?その1つの回答として「ハーレムメーカー」があるのではないかと言う事ですね。

 恋愛ゲーム(並列ヒロイン構造)のアニメ(一本)化として先述の「Kanon」と、もう1つ…「キミキス」で考えてみると、キミキスは常識的な処理をしています。本来は並列ヒロインだったヒロイン達に問答無用で序列を与え、物語を絞り(ヒロインによっては脇役Aレベル)、しかも主人公格の少年を2人用意して群像劇の形式を取った。この時点で原作「キミキス」の有していた構造・ドラマは一部除き殆ど継承されていないのですが(まあ、元から薄いドラマなんですけどね…)ムリに「一本化」を試みていない分、素材を使った恋愛青春群像劇化、というものには速やかに成功している(この辺りの継承を放棄した物語の再構築は出崎統監督の「AIR」「CLANNAD」にも通じるものがある)。逆に「Kanon」は継承を何1つ諦めず、基本的な全員の序列一位を尊重しながら一本化を試みた。…結果、とんでもないスケジューリングと脳内優先順位で動くいびつな主人公が生まれたのは先に述べた通りです。例えば、ここで祐一をもっと自覚的に、「ハーレムメーカー」に仕立てたなら、どうなったでしょうか?皆の物語を何故かわからないけれど必死で助けようという祐一、その必死さは周りから見て病的なほどであったが、実はそこには彼自身の抱えるトラウマとの関わりが…ってのは一例ですけど、きっと、今ある形とは違う物語が生まれえたと思います。つまりこの課題におけるハーレムメーカーというのは、並列ヒロイン構造という恋愛ゲームの「無茶な」構造がゲームに限らない物語世界の中で対応できるよう産み落とされた、新世代の主人公なのではないでしょうか。…とりあえずは、ゲームサイドからの考察はこんなところで。長々と失礼しました。

※最初に断った通り、横の分野とのつながりあってのものなので、ゲームだけでどうこうってのはムリがあるとは思ってるんですけどね。ゲームがそれらと違い、圧倒的に「物語になってからの歴史が浅い」事と、この新種の概念を結び付けられないか、という一つの問題提起みたいなものです・・文中に断定的な箇所があったり、基本的に決めつけ気味に流れを作っている点が気になるかもしれませんが、1つの「史観」という事でご了承ください。自分でもそんな強く「こうだろ!」とは思ってません…こういうのもあるかもね?みたいな?