娯楽のハイエナ

議論用のツリー式掲示板です!
日頃疑問に思うこと不満に思うことの
書き込みにお使いください。



表紙 ツリー作成
#308 恋愛原子核と感情移入のあり方
投稿者:kichi [2009/02/13 01:57]
 もしかしたらいろんな意味でまったくマトハズレな話かもしれないんですけど、ルイさんのハーレムメーカーゲーム編の記事を読んでてちょっと思ったことというか、議論の下地としては多少関連を見られるかも?とは思った、前から興味のあった話を書かせてください。自分の実感としては「無い」ことを扱っているんでもしかしたら本当にてんでマトハズレというか意味無しな文かもしれませんが……;

 ルイさんの記事でもToHeartの所などで簡単に触れられていますが、私の印象ではゲーム主人公を薄くしよう透明化しようという目的は「プレイヤーの感情移入対象だから」、ここをきちんと区別したいのでもうちょっと強い言葉を使わせてもらうと「プレイヤー感情の投影先だから」という理由が大きいと思うんですよね。これは要するにあれです、DQ VS FF論争の大きなポイントの一つであるRPGの主人公は喋るべきか否か問題と同じ性質の話と捉えられると思うんです。

 ここで私の立場をハッキリさせておきたいのですが、私は完全にFF派、RPGの主人公は喋るべきだと思っています。いや、なんでもかんでも喋らなきゃ駄目と思ってるわけではないですが、物語性が高まれば高まるほど喋った方が良くなるように思います。例えばDQなら1〜3なら喋る必要はあまり感じませんが、4と5、特に5は喋った方が良かったはずと思っています(あ、6以降はプレイしてないのでわかりません)。って、この話をすると大抵すごい拒否反応をされて場合によっては哀れみの目で見られたりするんですがw、そこはさすがDQというか、私が問題視してる歪みを極力目立たないように処理し、メリットとなる味わいを上手に引き立たせている作品ではあるのですよね。なので、論点がズレそうで例に使うのは怖いので、DQよりはずっと賛同者も多い「クロノトリガー」を例に挙げますが、この作品は堀井雄二氏のわがままでw主人公が喋らないタイプの作品となったようですが、作品内容は明らかに主人公が喋るタイプを志向しているのですよね。主人公の内面を表現しないための手法なのに、物語になんとかプレイヤーを乗せるため、身振りなどで主人公の内面を表現しようとしてますし(結果、かえって喋らないことだけが強調されて歪みが酷くなっていると思います)、しまいにはどこかの会話シーンの中で返事を返さない主人公(喋らないタイプなので構造的に返せない)に対し仲間か誰かが「何か言いなさいよ」みたいなツッコミを入れるシーンがあるくらいです(あったと思う……(汗))。メタギャグ的に扱われてもいるんでしょうけど、こういった部分は私が問題視してる歪みを浮き彫りにした恰好の例と言えます。

 RPGにおいて主人公を喋らせないという選択は、主人公がその「人格を含めたプレイヤー」であると思わせるためであるはずです。主人公のキャラクター(背景ではなく人格など)を設定しないことで、プレイヤーの人格や意志そのままをゲーム内で反映させられるはずという理想の基に取られている選択なんですね。しかしこれはスタンドアローンでしかも物語重視なコンピュータRPGでは絶対実現しない理想と言っていいでしょう。何故ならプレイヤーの人格を反映させようと思ったら、場面場面でまさに十人十色、無限の行動、セリフがありうるわけで、その全てに対応できるようパッケージに収めるのはどう考えても無理な話なのです。行動は物語の必然性によりある程度制限することもできるでしょうが、セリフに関しては完全に不可能な話です。
 そこで「ただ喋らないだけ」という妥協によって表現しているのが現実なわけですが、それが本当にプレイヤーの意志や感情の投影先として成功しているとはとても思えません。物語が主人公の関わりを必要とすればするほどに、クロノトリガーの例で挙げたように「言うべきセリフを言わない」という違和が浮き彫りになってくるはずなのです。「プレイヤーが想定したセリフと違うセリフを喋る違和」と比較すれば「何も言わない違和」は小さなものだ、というのがDQ派の感覚なのでしょうが、私には同意できません。単純に私が「喋りたいから」という理由もありますが、この問題はもっと根深いものです。何故なら、この「喋らない主人公」というものは物語を真剣に見つめれば見つめるほどに、作品世界の住人としては生きていない、明らかに異質な存在と捉えるしかなくなるからです。そういうもんだと慣れているからあまり気になってはいないでしょうが、冷静に眺めれば主人公がセリフを発していないのに、プレイヤーの選択などのポイントだけを根拠に周りが手を引いて物語を進めてくれる様子は非常にシュールなものだと思いませんか? 主人公はセリフを発していないわけじゃない、描かれていないだけで、そこは自分で想像するのだ、と言うかもしれませんが、私たちが「喋りたい」というのは単に一方的に言葉を発したいということではありませんよね? いくら魅力的なセリフを想像しても、いや、魅力的なセリフを思いついてしまったら尚更、それに対してまともな反応が返ってこない虚しさを感じ、そこに主人公が生きていないことを意識させられるはずだと思います。相手の反応まで想像すればいい? わざわざ感情投影先として主人公を設定したのに、周りのキャラ全ての感情まで面倒みなきゃならないということでしょうか? 仮にそれをやろうとしたとして、物語半ばの時点でその後出てくるセリフや行動と矛盾の無いようこなすことが果たしてできるでしょうか? そもそも主人公と違い物語世界で「生きている」周りのキャラのセリフをプレイヤーが決めてしまえるものなのでしょうか?(初期DQなどで歪みが少ないのは、周りのキャラも物語的に生きているわけではないからというのもあると思います)
 こんな風に、厳密に解釈しようと思えば思うほどに作品の中心である主人公が歪みを生じさせ、ついには作品世界を壊してしまうことにさえ繋がるのです。実際私は、主人公が何か言うべきなのに何も言わないシーンを目にするたびに、主人公がプレイヤーの「コマ」に過ぎないこと、つまりそれがゲームであること、虚構に過ぎないことを意識させられ、どんなに熱中していても現実に引き戻されて冷めた気持ちになっていました。もし、主人公が何かセリフを言ってくれたなら、例えそれが自分の人格から出るものとはまったく違ったとしても、主人公の意図を汲み取り、その気持ちに合わせることで熱を保った感情移入を続けることができるのに、です。

 そうです。私たちは喋る主人公に感情移入することができます。主人公が喋るRPGに否定的な立場の人達は「自分の考えとは違う勝手なことを喋る主人公に感情移入なんかできない」というようなことを言うものなんですが、これは(少なくとも表面的な言葉だけ捉えれば)そんなはずはない、おかしな意見だと言えます。何故って、小説、マンガ、アニメ、ドラマ、映画などなど、ゲーム以外のほとんどのメディアにおける主人公は読者などの受け手とは無関係の他者ですが、私たちはそれに何の問題もなく感情移入しているからです。たぶんはじめて物語が生まれた時から人は自分とは違う作品内の登場人物への感情移入を行ってきたはずですし、別に物語に限らず他者と深く関わろうとすれば、ごく自然に相手への感情移入が行えるはずなのです。
 小説など他のメディアでも可能なことをやるのでは、プレイヤーが直接作品へ関わっていくことができるゲームというメディアを使う意味がない、と言うかもしれませんが、喋る主人公のRPGにおけるプレイヤーの立場はドラマや演劇における「役者」に近いものだと思うのですね。プレイヤーは、基本的に物語の流れはもちろん主人公のセリフも変えることができませんが、いろんな場面で「作品の完成度を上げるため」の「より良い演技」を求められています。物語中に選択肢が出てきた場合、それは基本的に「プレイヤーの好み」ではなく「主人公の気持ち」に沿って選ばれるべきであり、普通はそうすることによってスムーズな物語進行がなされるはずです。必ずしもスムーズに進んだ物語の方が良い物語というわけでは無いのは承知していますが、基本的にはノイズの少ない進行が完成度を上げるとはいえますし、「自分の感情より登場人物の感情を優先」することでより深い登場人物への感情移入が可能になるはずです。さらに言えば、英雄的主人公なら雑魚戦で負けたりしないよう頑張らねばならないとも言えますし、ボス戦では緊迫感のあるバトルを「演出するため」わざとレベルを上げすぎたりアイテムを取り過ぎたりしないよう調整し、ギリギリの勝利をものにしながら進めていくのがより「演技力の高い」プレイヤーであり、そうすることで作品自体の魅力も引き上げることができるとも言えます。FFに批判的な人の意見で「ラストダンジョン前でアイテム集めなどしてるうちクリアする気がなくなる」という話がありますが、きちんと主人公に感情移入して物語に乗った演技をしていれば脇道に逸れたりせずラストダンジョンに突入するのが当然なので、そうせずに作品を腐らせてしまうのはプレイヤーの演技力の低さが悪いと言うほかありません。orz
 そんなわけで、プレイヤーが「役者」としての役割をまっとうしようとすることは、深い感情移入を自然に行える行為でありつつ、そこにゲーム的な面白味も感じられるものであるので、ゲームというメディアを選択するメリットはそれだけでも充分過ぎるくらいにあるのです。

 ……といった感じが主人公は喋るべき派である私の立場を、ちょっと極論気味に書いたものでした。いえ、ヒイキがあることは自覚してますがw、基本的根拠を強調するためあえてですねw
 実際の所、主人公が喋らないことをプレイ中にネガティブに捉える人ってあまりいないはずなんです。何故なら大抵の人ははじめっからそれを「ゲーム」として楽しんでるので、現実を忘れるほどの深い没入なんて求めていないはずで、むしろ時々必ず現実に還れるくらいの距離感の方が安心して楽しめるんじゃないでしょうか。あるいは、あまり主人公が物語を背負っていないRPGの感覚の延長で、矛盾は飲み込んだりその場その場で修正し続けたりとかなり苦労を伴うはずですが、物語に合わせた妄想ワールドを展開できる想像力豊かな人であるか、でしょうか。どっちにしても主人公が喋らないRPGは、私には大きな歪みを抱えたものであるように思えてならないにも関わらず、非常に広く受け入れられ愛されているのが現実なんですよね……。


 さて、長くなり過ぎましたがこっからが本題です(汗)。
 いえですね、はじめにも書いたように私自身の実感ではないので壮大な勘違いだったらそう指摘していただければと思うのですが……(あと、この話の感覚は珍しいというか新しいものと思い込んでたんですが、必ずしもそうでもないのか……?という疑問が出てきてたり……(汗) でもそれ考え出すとこっから先まったく書けなくなるもので、それは無いものとして話を続けさせてもらいます(汗))、近年、この「主人公が喋らないタイプのRPGにおける感情移入方法」、イメージ的には感情投影と言った方が近いと思うんですが、これをゲームだけでなく小説やマンガ、アニメなどに適用している人達がいるように思うのですよね。

 RPGの話で大体イメージは伝わってるはずとは思いますが、まずこの「違い」をもう少し丁寧に説明させてもらいますと、主人公が喋るタイプのRPG、つまり小説などでの通常の感情移入の仕方というのは、登場人物の人格や感情を自分(プレイヤーや読者)の中に取り込み味わうことで成り立つものと言えます。それが進んでいくと、自分の内部での登場人物の割合が増していき、その分自分の人格は消えていく形で「登場人物との一体感」というものを感じることができるのですね。優れた演技中は「役者の中に登場人物の魂が乗り移ったよう」なんて表現されることが多いことからも、通常、感情移入という言葉を使った時の「向き」がこうであるのは正しいと思います。

 一方、主人公が喋らないRPGにおける感情移入(その理想の話ということではありますが)は、さっきとは逆、つまり自分の感情や人格を主人公というキャラクターへ投影する、主人公へ乗り移らせるような「向き」なのですね。これがRPGでも厳密には難しいことであるのは先ほどの話で散々述べた通りでして、主人公の人格が設定されていて喋るのが当然というか必然に近い、小説やマンガなどゲーム以外のメディアでは難易度がさらに高くなるのは明らかです。再三書いてます通り私には無い実感なので、その際発生する矛盾や歪みをどう処理しているかは想像するしかないのですが、たぶん、本当に現実の自分の人格そのままを預けているわけじゃなく、「願望」を主体として預けているからある程度の柔軟性はあるのでしょうね。元々は無かった願望でも、作品に触れてみて主人公の願望が自分の願望となるようなケースも多いのだろうと想像すれば、不可能なことではないのだろうと思えます。

(ちと流れぶったぎって追記というかフォローw 一度読み終わった作品の登場人物に関して、ごっこ遊びをしたりする感じで、あるいは自分がその状況におかれたらどうするかシミュレートするような感じで、登場人物の中に自分を置いてみるというようなことをする場合はあると思うんですが、作品触れながらリアルタイムにこういう感情投影を行うのは普通はなかった……ような気がしてたんですが、段々自信なくなってきましたw 私に関しては無いと言い切れるんですが……)

 この「感情投影」という方法でゲーム以外のメディアに触れている人達がいると思うようになった根拠ですが……、え〜と、すいません、本当は具体例となるURLでも挙げらればいいんでしょうけど、あまり端的な例っていうのはちょっと見つからず、ちとネガティブな意味合いを含む話でもあるんで挙げにくくもあり、特に印象的だった話題に触れるだけで勘弁してください。
 その話題ですが「百合好き男子は女の子になりたい」というような話でして、百合大好きだけどそんな感覚はまるでない私は、このタイトルみただけでもうただひたすらビックリしたんですけどw、内容を読んだらさらに驚いてしまったのですね。たしか「女の子を男の視線に晒すのは汚らわしいから、もう一人女の子が用意されていて、その女の子が自分」みたいな感じの話だったと思うんですが、その最後の部分、「その女の子が自分」っていうのをすごいナチュラルに言ってて驚いたんです。これって要するにごくごく当然のこととして「感情投影」してるってことですよね? 女の子の登場人物の中に男である自分を預けて物語を眺めているってこと……なんですよね?

 で、これがあるのだと仮定しますと、この「感情投影型」の読み方をする人が増えていることが、こちらで話題になっている「恋愛原子核」と呼ばれる主人公の中でも代表的な、無個性で物語を背負わない主人公が発生してきた根拠の一つなのではなかろうか?と思ったのです。物語の主人公に自分を投影したいという需要が増えているのを受けて、読者や視聴者の感情を投影しやすい主人公が創られるようになっていったのではないでしょうか? もちろんそれがすべてとまでは思いませんけど、背景のひとつとは言えそうに感じています。
 ちなみにこの話は「RPGから慣らされていったのでは?」と言いたい私の気分からも分かる通りw、こちらでの話題であるハーレムメーカーの話に限った話では無いのですけど、矛盾を超えて願望充足しやすいこのジャンルで顕著だったのではないかと思います。とりあえずは感情を預けた自分(主人公)がたくさんの女の子にモテモテっていうだけで嬉しいものでしょうし、さらなる欲求として自分が「女の子に惚れたい(そしてその女の子に惚れられたい)」というものが出てきたのでしょうが、これも女の子側の物語を深く描くだけでいいので構造の矛盾とぶつかりません。
 しかし、本気で物語の完成度を高めようとした時には当然無理が生じてくるわけで、能動的なハーレムメーカーが必要とされるようになってきたのだと思いますが、その場合も序盤は感情を投影しやすく描いておき、充分感情が投影できただろう段階から主人公の背景を描いていくことで、無理なく読者の願望が主人公の願望と合致するよう誘導しようとしているから……だったりもするのではないでしょうか?


 ……といった辺りで私の話は終わりなんですが、どうせここまで書いたんだから最後にさらなる蛇足妄言をひとつさせてもらいましょうw この先に見えるものの話……
 いえ、この感情投影って、(いちおうあまりネガティブな意味合いにならないよう気を遣ってはいたんですがw)結局のところ狭い層のわがままな読み方でしかないんじゃ?って思ってしまう人も多いとは思うんですが、未来を見据えた場合そうとも言い切れない気はしてるのですよね。はい、言葉自体はすでに古臭いくらいですがバーチャルリアリティー、仮想現実世界というヤツがより発展していった時、自分自身以外のモノへ精神を預けるということが誰にでも容易に実現していく可能性が高いわけです。初期DQやFF11のような無個性なキャラクターを自分の好きに演じるうちはまだいいですが、たぶんまったく別人の物語を文字通りその登場人物の中へ入って体感する、というようなモノも出てくるだろうとは思うんですね。だから、そういった流れがあって、この感情投影という感覚が生まれ始まっている……のかもしれません。
 さらに言えば、人類はやがて肉体を捨て精神体のみの存在へと進化?する日がくるのかもしれませんよね。だとしたら、自分の肉体以外のものへ精神を預けるというこの感覚は、その日のために人類が無意識に行っている準備である……のかもしれませんねw ……今それがはじまっているのだとしたら、その日は我々が思っているよりはずっと近い未来の話……なのかも?w
(って、これは傑作SF「預言者ピッピ」のネタ拝借な感じなんですがw)


ふぅ、無駄に長文な上書いてて本人がどんどん自信なくしてくような駄文orz、ほんとに大変失礼しましたorz