投稿者:ルイ
題名:紅
一言:☆☆☆☆☆:(9話まで)口を開くとすぐ仕草と作画の話をしてしまうのですが、当然そこだけを観ているわけではないのです。ただ、最近自分の中でホットな、詰めるべき部分がそっちというだけで・・・とか言い訳こいていたら、作品としての「紅」に全然触れてない気がしたので1度書こうと。この作品は、世界の中で人はいかにして存在を実感し、充足感を得られるか・・・そういう作品だと思っています。主人公・真九郎は幼い日に、降って沸いてきたような不幸によって両親を失った。家族がいない、誰も彼を世界に定着させてくれなかった中で、真九郎を「この世に送り出してくれた」のは紅華さんだったから、彼女に認められたい、そこで生きている実感を得たいと体を鍛え、依頼を受ける事にし、己の足りない分を改造のような事をしてまで補おうとした。・・・一方の紫は、近親相姦という禁忌で血を繋いできた名家にあって、生まれながらに戸籍もなく(社会的には「死」ですね)未来に血を繋ぐ為だけに存在していた。彼女は彼女で、その「生まれた時にもっていた役目」ではない、彼女だけの、彼女自身が得たものに、生の実感を得たかったんですよね。・・・そんな欠けた、求め合う同志が、縁あって「五月雨荘」という、狭くボロいながらも暖かい屋根の下で出会ったと。・・・その1つのゴールが9話のキスシーンだったわけですが、何か、あそこまで「キス」それ自体に意識がいかなかったキスシーンは、アニメでは記憶にないかもしれない。清らかなキスシーンというか、あそこに少しでも不純な感覚を抱いた人は・・・シネばいいのに!(こらこらw)ってのは大袈裟ですけど「それはないわ・・・」と思ってしまうほど、グッとくるシーンでした。 ここから、物語はクライマックス。真九郎は「強さ」について、トラウマからか少し歪んだ感覚をもっているようで(強ければ両親の死を忘れられる、あるいは、既に得ている腕の刃も「弱さ」の象徴にしている)そこをどこまで紫の存在がほぐせるか、という所でしょうか。改造を望んだ時の気持ちに逃げがあったとしても、今あるその力を紫の為使う事は、決して恥ずかしい事ではない、弱さに向き合う強さだと僕は思うなあ・・・。
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