■[アニメ諸評][CHAOS;HEAD] ルイ >> ☆☆☆☆:(7話まで)小説なら文字、アニメや漫画なら絵。表現の世界では、それらでもって現実でないものが現実であることを主張する。だからこそ例えば小説では、事実をそのまま綴った文面と内面モノローグなり複数視点なりを(文面を揃えてしまえば)簡単に織り交ぜてしまえ、叙述トリックなんてものも生まれましたし、それが容易いがゆえに「マナー(ルール)」といったものも暗黙のうちに存在している。この作品は、それの絵バージョンという事になるのでしょう。2Dキャラ達がリアルを叫び、その中でのフィクションを扱う。古くからメタ的な手法は数多く見られましたが、例えば「機動戦艦ナデシコ」の劇中劇「ゲキガンガー3」はタッチそのものを劇画調にする事で、フィクションの中での更なるフィクション、という層の違いを視覚的にアピールしていた。じゃあカオスヘッドはどうかというと、一話の時点で既にそこらにあるフィギュアとヒロインの間に視覚的な差が存在しないんですね。それによって「表現世界の中でのリアル」と「表現世界の中でのフィクション」が意図的に混ぜ合わされ、「現実」と「ファンタジー化していく現実」と「妄想」の境が曖昧になっている。この立ち位置の不安定さ、拠り所にしたい設定の落ち着き所の脆さを視聴モチベーションに変換して見せてきた作品なんですが・・・何かここ2話くらいで、一気に「妄想力」に落としこんできましたかね?つまりイメージの具象化能力というSF設定で、オタってのは妄想にかけては世界有数ですねという・・・まあ、そこだけ言えばありふれた感覚になってきています。序盤の「不確かさ」がかなり際立っていたので、もうちょっと曖昧なまま押し切ってほしかった所なんですが・・・まあ、最後にそれら設定も全部妄想です、とオトされても何の不思議もない作品(笑)。沢山の嘘が本物の嘘を覆い隠してしまうような、序盤三話くらいがとにかく秀逸でした。気づいたら「突然存在する女友達」が「そこは疑わなくていい部分化」されていて、他の疑うべき部分を疑え!って風になっている・・・その視点のごまかし方は見事だったと思う。で、このリミとかいう女友達が妄想の産物なんですかねぇ。リミはリミックスのリミ(?)−。 <2008/11/22 16:06> [返] [削] |