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「おたく」のかかる病気(第二版)

 ここで言う「おたく」とはマンガ・アニメおたくを指します。「おたく」の定義はよく解りませんが「自分はマンガ・アニメが大好きである」と宣言できる人たちとしましょう。その彼らがマンガ・アニメを楽しむためにこの世界に入ったにもかかわらず、時としてマンガ・アニメを全く楽しめない状態におちいる時があります。それには様々な原因があるようで、僕はそれを「おたくのかかる病気」と総称して以下に思いつく限り書き出してみました。“病気”などと物々しく書いてありますが、それほと深く考える必要はないです。(変に意識し過ぎてこれから逃れよう逃れようとすると別の穴に落ちることも多いです)「どうも最近何を観てもつまらない」と思ってる人がちょっと視点を変える手助けになれば幸いです。

絵柄病  マンガ・アニメで自分の好みの絵柄やデザインでなければ、その作品を見向きもしない状態。実は普通の人間の普通の行為で『病気』でも何でもない。また、マンガなどは普通一生を費やしても全てのマンガに目を通せるワケでもないし、読むマンガを選ぶのに“好みの絵柄”を基準にしても何の問題もないとは思う。…思うんだけど、流行り廃りのある絵柄やデザインに振り回されて、せっかくの名作に出会えないのはもったいないので、それを恐れる気持ちを持って欲しくて書いた。また一定の絵柄は同じジャンルしか観ない「ジャンル病」につながる場合もある。元々マンガ・アニメの絵は何が起こってる分ればそれで十分で、絵で“それ以上の何か”をやってきたら改めて加点していけばいい。
<愚痴>絵が下手でも面白い作品はある!…ということを目撃しても染み付いた感性はなかなか拭えなかったりする。結構不思議ではある。

ジャンル病  SF、ラブコメ、ギャグ、バトルもの、そしてガロ…といった読むものが一つのジャンルに集中して他のジャンル、特にそのジャンルの「対」になるようなものを「ほとんど」読まない状態(全く読まないって人はかなり珍しくはあります)。あるいは「このジャンルだけは大嫌い。絶対に見ない」というもの。実はこれも『病気』ではなく普通の人間の普通の行為。しかし、やっぱりもったいない。「対」になるようなものを意識的に読めば、それだけで視野が広がるのに。これが進んで、「一つの作品かあるいは一人の作家」だけ、ということになると、だいぶ「おたくのかかる病気」の域に入ってくる。「ジャンル病」は本人が全く自覚して無いことも多い。気がつけば似たようなパターンの作品しか観ていない。ということはよくある。
<愚痴>実はジャンル病が『病気』などと判断するのは「おたく」だけ。普通は読む作品の傾向にバランスを求める方がはるかに『病気』。でもジャンルなんてアバウトな分類法で、ほぼ例外なく別のジャンルと融合してるので、全ての方面をフォローするために「おたく」的にはいずれ必要になる。まるで違うジャンルの融合を見せられ“自分の嗜好してないジャンルの部分”を「世界観が台無し」とか言って嫌ってしまうということも多い。

崇拝病  ある一つの作品に「最大級の衝撃」をうけ、その作品中心に物事を考えるようになる症状。世界に対する視点が画一的になり「その作品そのもの」か「その作品に関係したもの」か「その作品にまったく関係無いもの」の三つにしか分類しない。(これは何も「作品」に限ったことではないが、ここはあくまで作品批評HPですので…)これは別に悪いことではない。何か一つの作品を大好きになるというのは素晴らしいことで、それなしに「深い」ところに行く方法を僕はあまり思いつかない。上記の「三つの分類」も思考を整理するうえで最初に簡単に作れる「引出し」といえる。是非とも「そこ」を足がかりに他の世界も見に行って視野を広げて欲しい。ただしあくまで一つの作品に固執している状態は『病気』には違いないので早く脱した方がよい。
<愚痴>「デビルマン」に多大なる影響を受けた僕は「寄生獣」を見ても「エヴァンゲリオン」を見ても第一声が「デビルマンじゃん」だった。ちなみにどちらの作品もストーリー、ラスト、共に「デビルマン」とはまるで違う。とりあえず比べられないほど大好きな作品が三つも四つもできてしまえば「崇拝病」にはならない。時間と意欲的経験の問題。

懐古病  いつのどんな時代の世間にもある「昔は良かった」の延長にあるものだが、フィクション世界的には様々な要素がからむ。「最近面白いマンガねえなあ」と愚痴ることが主な症状。あるいは経験の積み過ぎで「あらゆる新作がそれまでの作品の焼き直しにしか(極端な場合パロディにしか)見えない」といった事も起こる。大半は受け手本人の“感受性”が固まってしまっていることが大きな要因。とにかくこれを脱するのは固まってしまった自分の視点を変えるため努力がいる。あるいはそのまま作品を観ることを止めてしまうことの方が多いか?感受性が固まっていることを無視して「自分が正しい」と思ってしまえば脱出不可能。
<愚痴>とはいえ僕も今と昔どちらが良かったかと聞かれれば「昔の方が良かったかなあ…今も捨てたもんじゃないけど」という答えになる。客観的に考えてこの答え。説得力なし。しかし要するに感受性が老朽化してしまうのがダメ。あるいは現在「懐古病」じゃなくても“現在”だけに生きている「おたく」は気をつけよう。昔の作品が楽しめない者は未来の作品を楽しめなくなる可能性も高い。

マイナー病  長く「おたく」を続けていると、ある無名の作品に対し「ぼくが最初に発見した」「ぼくだけが知っている」「ぼくだけが気に入っていた」という“錯覚”にとらわれることがある。その作品の人気が上がってくると「やれやれ、世間はやっとこの作品の面白さに気づき始めたか。ぼくなんか最初から目をつけていたもんね」と悦にいるわけである。この快感が忘れられず、勢い「誰も目をつけてない場所」というのが作品に対する価値基準となりはじめると、もはや『病気』の域に入ってくる。マイナーな情報であることそのものに価値は無く、あくまで「有効な情報」であるかどうかなのであるが、それはそれでいいと言おう。日のあたらない所から秀作、良作を発掘してきて他人に紹介するのは立派な業績である。しかし『マイナー病』の患者の最終的な難点は「人に理解されない言葉を発して喜ぶ」という症状にある。「マイナー」であることに最大の価値をおいているために起こる弊害であるが、相手の方がうんざりしてしまうと実のある会話が難しくなる。
<愚痴>歴史者や登場人物がやたら多い物語の話題で、誰も知らないような人物のファンだとか言い出すと、だいぶこの「気」がある。結局、マイナー志向にはそれ程の問題はないのだが、何故か「おたく」でコミュニケーションが恐ろしく下手な人が、まるで自己肯定するかのようにこの病気にかかってることが多い。あるいは逆なのだろうか?

潔癖病  (多くの場合映像作品で)テーマ、ストーリー、コンテ、結末、(そして予算)その他あらゆる面で、作品に「完璧」さを求め、そうでない作品は一切認めない状態。『マイナー病』はB級・C級映画をやたら喜んだりするが、『潔癖病』はA級か上質なB級しか見ない。この『病気』(実はやっぱりこれも『病気』とは言い難い)の一番の問題点は「自分はただ『質の良い』作品が好きで、そうでない作品は何にせよ批判を受けるべきだ」という理屈が何ら間違っていないところにある。その自分が何故『病気』などと指摘されなければならないのか、心外もいいところだろう。ただ、もったいないと思うのだ、世の中にある作品の九割以上を淡白に切り捨ててしまうのは!完璧な作品は完璧ゆえに同じようなラインを描くことが多い。逆に不出来な作品はバランスが崩れてるゆえにある一つの面が突出してることが少なくない。またクソな作品のクソな面を思い知ってこそ、名作の名作たる所以をかみ締めることもできる。
<愚痴>実に当たり前の話かもしれないが本質的に真面目な人が「潔癖病」にかかりやすい。また上に挙げた「懐古病」の変形のようなもの。言葉通りの内はそれほど問題はないのだが世界の広がりを閉ざしてしまう可能性が高い。

設定病  SF考証、時代考証といった作品世界のリアリティを補強するための「設定」を一番の価値に置いている症状。物語の端々に現れるギミックや小道具が、存在か可能か考察し満足が得られなかった場合、「もっと勉強しろ」の一言で切り捨てる。「巧いウソ」が好きで「力技のウソ」が嫌いとも言える。結局専門家や素人、人によって満足の得られるボーダーは全然違ったりするのであるがそれを理解していない場合が多い。変にマニアックな設定の作品や、説明過多、ひどい場合は別冊から得る情報で構築された作品の「ジャンル病」にもなりやすい。
<愚痴>『面白い』『つまらない』といった漠然とした感性よりも、白黒ハッキリつけれるので「SF考証」「時代考証」のチェックに走る「おたく」はとにかく多い。しかし「SF考証」「時代考証」の整備などというものは『面白さ』の外堀以上のものでは断じてないことを胆に命じるべき。

テーマ病  人を革新させるに足る『テーマ』を持たない作品は「低俗な」作品と判断する。あるいは設定された『テーマ』が自分の「哲学」にそぐわない場合、やはり同じように「人間の真実をついていない」作品と判断する症状。真実を探求するならそれもいいので特に言うことは無いのだが、ただ、フィクションにとっては「真実」も数ある『面白い』ジャンルの一つに過ぎず、絶対不可欠なものではない。むしろ『面白ろ』がってもらうためなら「ウソ」も平気でつこうというものなのだ。「人は死ぬ」という「真実」よりも「もしかしたら生き返るかもね」という「ウソ」の方が観客に楽しんでもらえると判断したなら迷わず「ウソ」をとるのがフィクションなのである。
<愚痴>よく「風の谷のナウシカ」は一般に自然破壊の警鐘映画ととらえられてるが、よくよく観れば「人間ごときに地球がどうにかできるものか」と言ってる事が分かる。さらによく観ると、自然環境などどうでもよく「いかにナウシカをかわいく美しく活躍させるか」というところに全神経を集中してることが解ってくる。何かテーマっぽいけど真のテーマじゃない部分。これを僕は『仮面テーマ』と読んでいる。「ナウシカが可愛かったから自然の大切さを学んだ」と考えることはできないだろうか?とにかく娯楽にとっては「真実真理」なんて二の次三の次なのだ。「真理」ばかりを追いかけていると『面白さ』を逃す。

ダーク・サイド・フォース  まず「その作品を貶めたい」という感情を根拠に、積み上げられる『理論武装』の事。あるいはこれまで挙げた様々な『おたくのかかる病気』を守り、正当化するための『理論武装』の事。作品を正しく分析、批評しようとする段階で“転んで”しまう事が多い。つまり自分の視野を広げて思考を柔軟にするための行為が、かえって思考を硬直させる逆の結果を生むことがある。「そんな理屈を積み上げて現在の正当化だけに固執しても、それは結局自分のためになってないのではないか?」と思える時、それを『ダーク・サイド・フォース』と呼ぶことにした。プライドの為に間違ってると分ってる自分の意見を言葉を弄して正当化しつづける行為などはその最たるもの。自分の気に入らない作品の存在を否定したくて、細かい欠点を拡大してあげつらったり、客観的理論を求めるあまり自分の思考を理屈ばかり先行させた『マニュアル脳』に自ら望んで改造したり、結局人間の頭脳は柔軟さを失うと、理論のために理論を積み上げてるのと変らない状態となる。だって“結論が先に出てて”意識的にしろ潜在的にしろ“違う結論”を出す気がなくなってしまったら人間の思考はそこまでなのだから。
<注意>そもそも、この論文自体が『ダーク・サイド・フォース』になるのではないか?という疑念を持つ人は多いと思う。現象を分類するだけで『マニュアル脳』となる危険は常に付きまとし、この「おたくのかかる病気」を他者の“攻撃”に使えば、それだけで『ダーク・サイド・フォース』となり得る。あくまで内省的に用いるべきだし、ここに書かれた理屈の反論はいつでもお待ちしています、としか言いようがない。

(つづく・・・?)

1999/06/17 LD津金

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