キャラクター主格とストーリー主格


〜「ストライクウィチーズ」と「屍姫 赫」の話〜




【フィクションの構造(改訂版)】http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/20b7e8c2e08342aa85b67711cec8c763
【物語三昧】http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090110/p5

LD >> もし、ストーリーで組まれている「路線」がテーマであり、キャラクターはそれに従わせるべきものであり、欠員を出す事が路線の完うであるなら、欠員を選択するんですよね。「ストウィ」がストーリー主格の作品なら、そういう選択になってくるという話をしたつもりです。
ペトロニウス >> なるほど、「路線」(ほっておいても出てきてしまうもの)と、テーマ(意識して主張したいこと)をわけるわけですね。

ペトロニウスさんとの話題でキャラクター主格とストーリー主格の話しが出てきたのと、「ストライクウィッチーズ」と最近放送していた「屍姫 赫」が、この話しの説明に上手く使えそうかなと思ったので、そこらへんの書評を書き綴ってみます。
「キャラクター主格」と「ストーリー主格」というのは、つまり、ある作品ないしその作中の展開について、キャラクターがストーリーを従わせる関係にある場合(=キャラクター主格)とストーリーがキャラクターを従わせる関係にある場合(=ストーリー主格)の分類を示す言葉です。
ただ、物語においてキャラクターとストーリーの繋がりは有機的であり、どこまでがキャラクターの領分で、どこまでがストーリーの領分であるというように、にわかに線引きができません。
なので、あくまで局面、局面の作品構造の読みとりに際して、便宜的な指標として見る感じのツールなんですけどね。



「ストライクウィッチーズ」と「屍姫 赫」は、作品の雰囲気はまるで違うんですけど、要素要素で、けっこう似ていると思っていたりして。…なんかその役目は女の子にしかできないんだね設定!なところとか…。スースーしているところとか…。(←スースー?)

ただ作劇の形として「ストライクウィッチーズ」と「屍姫 赫」の作品カラーの大きな違いは、その作品が「キャラクター主格」か?「ストーリー主格」か?という観方によって分かってくるものがあるんじゃないかと思うんです。

■「ストライクウィッチーズ」は「キャラクター主格」という考え方

「ストライクウィッチーズ」とは、謎の侵略者ネウロイに唯一対抗できる魔法の能力を駆使して、大空を飛び、戦う女の子たちの物語ですね。時代背景は地球によく似た星としながらも、基本的には第二次世界大戦時の世界設定で、当時の兵器、兵装が随所に反映され、また主人公グループとなるウィッチーズは、史実にある世界各国の戦闘機撃墜王が、美少女として(←ここがミソ!)一堂に会して共通の敵・ネウロイと戦う形になっています。

状況的にはネウロイは欧州の大半の国を壊滅状態に追い込み、多数の死傷者・被戦災者を生み、世界各国はこの侵略に特に反攻の手だてをもたず、かろうじて望みのウィチーズで戦線の拡大を防ぐのが精一杯という、かなり悲惨な状況です。…つか、まあ、単純にネウロイの侵攻具合はナチス・ドイツのヨーロッパ戦線と酷似しているんですけどねw

設定だけ聞くとかなり重い設定の世界なんですが、作品はそれを意図的に薄めて、かなり明るく楽しく作品を展開させています。
…ここで単純に彼女たちから戦争というものの影を完全に消してしまって、えい!やあ!とアクションするだけの作品にすればそれはそれでいいのでしょうけど。(←いいのか?)「ストウィ」の中には、非常にバランス的に、あるいは中途半端に“戦争の影”が持ち込まれます。それはやっぱり、この作品が女の子が第二次大戦の兵装をしている事に意味を持たせたいからなんですよね。

…で今、僕はバランスという言葉と中途半端という言葉を同時に使いましたが、ここらへんの施策が、バランスなのか中途半端なのかって「この作品が何をやりたいか?」を見極めないと見えてこないんですよね。コメディの中にシリアスを混ぜ込むと、作品を見切るのが少し難しくなりますよね。
それは、まあ“好みの問題”って事でもあるんですが、シリアスにやって欲しいところをコメディに躱されたり、気楽にやって欲しいところで重い話をされたり…。そういったズレが繰り返されると「この作品は性に合わない」って話にもなってきます。こういった時「この作品が何をやりたいか?」という意識を持つ事によって、ここでコメディをやりたい感覚とかを分ってきたりすると「性に合わない」といった残念な作品の接し方を、ちょっとずつ、ちょっとずつ、回避して行く事ができると思っています。ん………そこまでして物語を分らなくってもいいって?(汗)まあ、話を続けますがw(汗)

…で、たとえばウィッチのモデルが実在の撃墜王に即している話なんですが、坂本少佐が右目の視力を失ったした坂井三郎に合わせて眼帯しているところとか。音速突破したチャック・イェーガーに合わせてシャーリーも音速突破しているところとか。もっと細かいところまで、けっこう符合させているんですよね。
…で、そこまでリスペクトし、そこまでマニアックにモデルに合わせて行くなら、彼らの“未帰還”も合わせて行くべきなんじゃないの?って考え方もあるんですよね。

ちょっと軽く調べてみたところ……



ヴォルフ・ディートリッヒ・ヴィルケ … 未帰還



フランコ・ルッキーニ … 未帰還



リディア・ウラジミーロヴナ・リトヴァク … 未帰還

といった面々が還って来なかったみたいですね。



おっと武藤金義も未帰還なんだ。

(※戦士に黙祷)…ふむ。作品としては、ここらへんの“重さ”は坂本少佐が処理していると思うんだけど、この角度で合わせて行くと少佐は逆に生き残って行くのか…。物語に接し慣れた人なら、ネウロイとの戦いが続く世界設定と、彼女らのキャラクターと、それと“未帰還”ってワードで、既にビジョンが視えてくるんじゃないかと思いますけど………って自分で書いていて既に涙目なんですけどw



…ってか!サーニャは死んじゃダメだろ!ふつう!

森羅万象の理として!!(`・ω・´)(←あ)

…まあ、ここらへんに合わせて行くのは「ストーリー主格」というより、「設定主格」というべきなんでしょうけどね。いずれにせよ、いろんな「ストライクウィッチーズ」のまとめサイトとか見ると分ると思いますが、相当細かい設定まで拘って、合わせてきている作品であるにも関わらず、“この項目”を合わせはしないんですね。

それは、やっぱり「戦争をやっている“女の子”を描きたい」(=キャラクター主格)のであって、「女の子を通して“戦争”を描きたい」(=ストーリー主格)わけではないからなんでしょう。

※今、文章の対比のために“戦争”というワードを使いましたが、実際には「兵装する女の子を描きたい」あたりでしょうね。だから戦闘の相手は非人間のネウロイという設定を持ち込んでいる。つまり、この作り手は、女の子に兵装はして欲しいのだけど、人殺しはして欲しくないという……屈折してるなあw(汗)

この形が観えてくると「ストライクウィッチーズ」のストーリーの描き方が観えてきます。「キャラクター主格」というのはストーリーをキャラクターの「従格」におく事ですが、それは決してストーリーをなおざりにする事ではない。むしろ、従格のストーリーはぎりぎりのところまで、キャラクターをいじめる…というか詰めて行くのが良い物語というもので…。

そこらへん「ストライクウィッチーズ」という作品が、どの程度こなせているか?って総体的な評価はここでは避けますが、たとえば第2話なんかで、この作品の“戦争”の描き方が分ったりします。



戦う事ではなく、治癒魔法あるいは救命活動によって「私にできること」をしようとした宮藤の行動の後のシーンですね。散らばった包帯が、死んでいった海兵たちの暗喩になっています。主人公の宮藤芳佳が戦闘の中で「自分にできる事」をやろう、救える人を救おうとして、おそらくはそれらの多くが無駄に終わって、包帯が散らばっている。

…このあと宮藤は、ストライカーユニットを履いて、あれほど嫌っていた戦闘にその身を投じるのですが、ここ、実は宮藤の心象が分かりずらい事は否めないかもしれません。普通に読めるとも思うんですけどね(汗)でもその画を隠してしまっている事も事実なんですよね。(…こういったストーリーの成り立ちを分析して、そこう〜んと気にして首を捻る人なら、そこまで「読め」って話でもあるんでしょうけどw)
それでも、ここは「海兵の死に様をモロに描かない」事を意図的に選択しているんですよね。なぜって、この作品は「兵装している女の子」を愛でるアニメであって、「どうにも助からない裂傷を負った兵士を前にして、無力に震える女の子」を描くアニメではないからです。でも、設定の背後には必ずこういう部分は存在する。だから隠す。でも暗喩する。…むしろ、作り手は“完全に隠す”事は選択しなかったみたいですね。…多分、その方が萌えるからだと思っていますが!(`・ω・´)

ここらへんの機微が観えてくると、本編の坂本少佐の扱いも観えてくると思います。坂本少佐と宮藤の関係は「エースをねらえ!」→「トップをねらえ!」的な師弟関係が折り込まれているので、坂本少佐が何らかの形で“退場”しない限り、実は宮藤の“師匠越え”は明確に顕せない(分りづらい)という構造を持っています。
でも、“それ”は今回しなかったみたいですね。……少なくとも今期はw…次期があるなら分らないと思いますけどねw…といいつつ、宮藤個人が持っている“キャラクター・テーマ”は、原則的には坂本少佐の死に様を否定するものなので、ここらへんの兼ね合いがどう出るか、難しいところなのですけど。個人的には、今回のシリーズの時点で、もう少し踏み込んでも良かったのでは?って思っているんですけどね。キャラクターの完うとしてもそれは行けたと思うんだけど……まあ、ここらへんの話はまた別の機会として。

話をまとめますと、こうやって、その作品が「何を描きたいか?」を探りあてて行くと、そこで「何が描かれたか?」が分ってくるって事ですね。

■「屍姫 赫」は「ストーリー主格」という考え方

「屍姫 赫」は、この世に強い執着を残して死んだ者は“屍”という不死の化物になって人間を襲って回る、この“屍”を浄化するために、ある密教の宗派(…なのかな?)が“屍”を制御してこれに当らせる呪法を編みだした、その“屍”を殺す、“屍”を屍姫と呼ぶ……って話ですね。……「 赫」が終わった時点では、何でその“屍”を退治させる“屍”は女の子じゃないといけないんか、わかんないんですけどね(汗)僧正様教えてくれると思ったんだけどなあ…(遠い目)
これ、聞いた情報によると、本稿で上げるミナイというキャラは、チョイ役的にしか出てこないそうですし、かなり原作の「屍姫」とは違った組み立てをしているんじゃないかなあ?と思ったりもします。「屍姫 赫」は「ストーリー主格」なんて銘打ちましたが、ストーリーを描きたいというのはどういう事かというと「終わりに向かおう」とする力場がはたらく事を意味して、長期連載を目指すマンガに不向きです。対して「屍姫 赫」は限られた放映期間の中で、物語を終幕まで持ってこようという意気込みが出ていて(現在「玄」が放送中ですが)かなり、きびきびしたストーリーの組み方になっているのは確かですね。

さて、主人公の少年・オーリは事情を知らず出会った“屍姫”の真姫那に惹かれて行くとうパターンなんですが、実はマキナは主人公の兄貴と“契約”していた。……この時点で、ピンとくる人は、この構図にはある予感が働くと思います。つまり、「この構図は安定していない」→「崩れる」というヤツですけどね。
…ここらへんの時点で「変化を描きたい」→「変化するストーリーを描きたい」→「ストーリー主格」?という予想が立ってきます。とは言え、先ほどツッコンだように、屍姫って女の子だけのグループですからねえ…w「きっと、戦う女の子を描きたいんだろうなあ」って話になってきますし、そこらへんは単純に割れたものじゃないいんですけどね。(冒頭で注意書きしたように無理に「キャラクター」と「ストーリー」の主従の判別をつけようとするのは、ちょっと危うい)



ただ「屍姫 赫」の第8話「安らぎ」は「ストーリー主格」がかなり分りやすい形で顕われていたので例として上げておきます。主人公のオーリは別の屍姫・ミナイと知り合い、心通わすんですが、ミナイの契約僧伊佐木が死ぬ事によって、突然終わりの時はやってくる。制御を離れたミナイは次第に元の“屍”に戻って行き、オーリはミナイを退治させまいとして一緒に逃げるが……。って話なんですが。

このエピソードで、EDにレギュラーのごとく顔見せしているミナイは退場してしまいます。(ん〜…そのEDが、…まいっや)

このエピソード自体にはいくつかの意味があって、一つはやっぱり、この物語には「それが在る」事を見せる事を目的としているんですよね。もう一つは、契約が失われた時に、別の人間と“再契約”ができる事を“先に”示す事ですね。そしてそれによって、先に述べた「最初の構図が崩れる」予感を補強します。(あとご都合を泥縄的に見せてしまう事の緩和かな?)要するにこれは「ストーリー」に対する布石、「積み」なんです。



…でもねえ…。別にそんな事お構いなしにオーリとミナイが再契約してしまう展開も全然ありだと思うんですよね。

はっきし言ってミナイ可愛いし!(`・ω・´)

オーリとマキナが契約するのが“運命”だとしても、複数契約全然OK設定にしてねw男女パートナーで戦う話が流行っているよ〜な?流行っていないよ〜な?昨今なんですから。先に契約してる人がいました〜!って展開も、けっこう「面白い」と思うんですけどねえ〜。この物語を「キャラクター主格」にしようと思うなら、その選択は全然ありなんですよね。というか契約が切れて“屍化”して崩れたミナイなんかを見ていると、こっちの方が「畏怖と憐憫と侮蔑と嘲笑をこめて呼ばれる屍姫」という感じがするんですけどねw(作中にそういうフレーズがある)まあ、これもメイン・ヒロインであるマキナにもろにかぶせるのは避けたって事ですかね?(作品の調子からクライマックスのどこかであるような気もするんだけど)
とまれ、ミナイを殺しちゃいかん子として、作中に残留させる選択はされなかった。「ストーリー」の積み上げや緊迫感を優先させたんですね。結果、どのくらい演出効果、盛り上がりが出ているかは本編を見ていただければと思いますが、まあ、ともかくミナイは作り手が「描きたいストーリー」に沿う事を優先されて、退場していったという事です。この形は「屍姫 赫」が「ストーリー主格」に立っていると言えると思います。(ちなみに會川昇先生、一人脚本)


ちょっと長々と書きましたが「キャラクター主格」と「ストーリー主格」の話は大体こんな感じです。まあ「作品は、何を描きたいのかパッと分るようじゃなきゃダメだ!」って意見もあるんでしょうけどねw上述したようにコメディとシリアスを取り混ぜした作品ってだけで、その分かり方は“波長的”になってきますし、それを落ち着いて選り分けて行くには……って事と、あと、世の中には「あんまりそばに寄るな!分ったつもりになるな!」と言わんばかりの、超・不親切な物語も沢山あるわけでね(滝汗)そういった世界含めて、様々な物語に接して「愉楽」して行こうと思った場合、受け手のこちらも、様々なボールを受け止める準備が必要だと思うのです。



2009/01/20