戻る
無敵ヒーローとピンチヒーロー

『無敵ヒーロー』『ピンチヒーロー』とは?
 ぼくは様々なフィクション作品に登場する“戦う”人物には大きく分けて『無敵』タイプと『ピンチ』タイプがいると思っている。とりあえず簡単に説明すると『無敵』タイプは強すぎて何者も勝てない状態の痛快さを楽しませてくれるキャラクター、『ピンチ』タイプは敵が強大で危機に陥った状態のハラハラドキドキ感を楽しませてくれるキャラクターである。
 本来、戦う主人公というのはこの『ピンチ』(フラストレーション)状態と『無敵』(カタルシス)状態を交互に織り交ぜて物語を展開して行くのだが、作品によっては『無敵』状態に極端な比重を置いているもの、『ピンチ』状態に極端な比重をおいてるものがある。こういった主人公たちを『無敵ヒーロー』と『ピンチヒーロー』と分類したい。
 何故こんな分類をわざわざするのかというと、『無敵ヒーロー』と『ピンチヒーロー』は同じバトルものでありながら、楽しみ方が両極端だからである。たとえばヒーローの『ピンチ』部分を好んで楽しむ人が『無敵ヒーロー』を観ると、『ピンチ』状態をほとんど持たないストーリー展開に、ともすれば“ストーリーの起伏がほとんどない作品”と取られがちだし、『無敵』部分を好んで楽しむ人が『ピンチヒーロー』を観ると、やたらピンチに陥ったり悩んだりする主人公にイラつき、“情けない作品”と受け取るだろう。もう少し細かくいうと『ピンチヒーロー』は一度観客を抑圧し、開放する痛快さを楽しむのが基本で、『無敵ヒーロー』は観客の抑圧部分は“現実世界”におまかせして物語の突き抜けた痛快さを楽しむのが基本である。そこで、『無敵ヒーロー』と『ピンチヒーロー』という二つの楽しみ方を作品ににあてはめて、様々な角度から作品を楽しむ事の、その一助になればと考えこの文章を書いた。(これに加えて『ピンチヒーロー』部分と『無敵ヒーロー』部分を両輪した『御都合ヒーロー』というものも考えましたが、話が圧倒的にややこしくなるので割愛します)よくわからない言葉が続くかと思いますが、ヒマでしたらお付き合いいただきたい。

(本論の『無敵ヒーロー』と『ピンチヒーロー』という考え方は、あくまで“その傾向にあるもの”ということである。『無敵』でない主人公などほとんどいないし、『ピンチ』のない主人公もまずいない。つまり、これは一人の主人公を創造した時「彼に『ピンチ』を与える事を強調するか?それともなるべく排除するか?」という作者の判断で、その作品の楽しみ方が大分違ったものになる。それを考えて行こうというものである)

『無敵ヒーロー』『ピンチヒーロー』の歴史
 時代劇などを観るとわかりやすいと思うが、ヒーロー世界の黎明期、ヒーローは全て『無敵ヒーロー』だった。常に正しく、弱い者の味方。『ピンチ』全ては“弱き者”たちにお任せして、颯爽と現われ圧倒的強さで悪者を倒し去って行く。その姿に観客は拍手喝采を送っていた。しかし時代が下ってその単純なる手法が手詰まりになったとき、製作者はヒーローもまたピンチになった方が観客が湧くことに目を向けるようになり、次第にそのピンチ度はエスカレートして行き『ピンチヒーロー』が発生しはじめた。強力な敵の登場や物語の説得力の介在はヒーロー世界に様々なバリエーションを生み出し、そしてある時期から「ヒーローが常に正しいとは限らない」という思想が入るに至って、『ピンチヒーロー』は隆盛を極め、現在活躍するほとんどのヒーローたちは『ピンチヒーロー』に分類されるに至ってる。(現在『無敵ヒーロー』と呼べるものはほとんどなく、またぼくは、どちらかといえば『無敵ヒーロー』を楽しむ傾向にあるので、ちょっと『無敵ヒーロー』主導で話を進めるかもしれません)

『無敵ヒーロー』『ピンチヒーロー』の分類
 『無敵ヒーロー』『ピンチヒーロー』の分類は、この二つの楽しみ方を理解した上で、個人々々が思いのままに分類してしまえばいいものである。(たとえ、他人が『無敵ヒーロー』に見えなくても自分がその作品の『無敵』部分が好きなら、それは『無敵ヒーロー』なのです)そこであくまで例として、僕自身の分類をいくつか紹介する。
 実はこの件に関してはアニメ界の大御所、富野由悠季さんの作品が非常に解りやすく作られているので、まずそれを述べていくことにする。しかし以下の作品群は非常に優れて評価も高い作品(つまり、解りやす過ぎ)なので、その『無敵』っぷり、『ピンチ』っぷりを楽しんだからと言って、即座に『無敵ヒーロー』『ピンチヒーロー』を理解したと答えるのは逡巡するものがある。この点注意して欲しい。

(1)無敵超人ザンボット3・・・(『ピンチヒーロー』の行きつく先)
 単刀直入に言うと『ピンチヒーロー』の究極の最終展開は[自己犠牲=特攻]である。絶対に勝てるはずのない強大な敵に、己の命を投げ打って“愛すべき者たち”を守る!観客はその悲壮感と決然たる意思に感動し涙する。「ザンボット3」はこの点エポックともいえる『ピンチ』っぷりを発揮してくれた作品でした。来襲した“宇宙の破壊する意思”ガイゾックとの誰からも支持されない戦いの中、次第に人々の信頼を勝ち取って行く感動ストーリー。特に「ヒロインを助けることができなかった」というアニメ史に残る“人間爆弾”の衝撃エピソード、ガイゾックとの最終決戦でこれでもかと言うほど家族が特攻していく中、「そんなことに本当に意味があるのか?」とガイゾックが言い放つ展開は、ある意味『ピンチ・ヒーロー』の最終形態といえると思う。

(2)無敵鋼人ダイターン3・・・(『無敵ヒーロー』はラスボスもほぼ一蹴)
 前作「ザンボット3」の後、まったく対照的に作られたのが「ダイターン3」だった。主人公の破嵐万丈は「自分の父親が全ての元凶」という暗い過去を背負いながらも、持ち前の明るさと洒落っ気で、“新人類”メガノイドとの果てしなき戦いをケレン味たっぷりに演じて行く。「世の為人の為、メガノイドの野望を打ち砕くダイターン3!この日輪の輝きを恐れるのなら、かかって来い!」なんてセリフは自分のおかれた状況を楽しんでるとしか思えない。対して敵役のメガノイド・コマンダーたちはメガノイドに自らを改造した理由を含めて、トラウマやコンプレックスを抱えてる者が多く、つまりは『弱点』や『ピンチ』を抱えてるのはむしろ敵の方であり、それを何の悩みもなく万丈が粉砕して行く痛快さは『無敵ヒーロー』の真骨頂といえる。ぼくとしては敵に“同情”し始めると、それは『無敵ヒーロー』を楽しんでるかな?という気がします。

(3)機動戦士ガンダム・・・(『ピンチヒーロー』が『無敵ヒーロー』に変貌してゆく痛快さ)
 言わずと知れたロボットアニメの金字塔ですが、主人公のアムロのみをクローズアップしてみれば、物語の前半は『無敵ロボ』ガンダムに守られた『ピンチヒーロー』と解釈することができる。「君は生き延びる事ができるか?」という有名なフレーズは「ガンダム」前半のテーマの全て、と言えた。しかし、物語の後半に入り“ニュータイプ”として覚醒し始めたアムロは次第に『無敵ロボ』カンダムを超える『無敵ヒーロー』へと変貌して行く。12機のリックドムのうち九つを墜とし、アムロがいなければ戦局と歴史を変えたであろうビグザム、エルメス(エルメスそのものは偶然ですが、ビットの大半を一瞬で、しかもビームサーベルのみで叩き落とすシーンは圧巻!)の撃破に至っては完全に『無敵ヒーロー』的痛快作品と化していた!ただ、これはあくまでアムロの視点のみの話であって、「ガンダム」という作品を『無敵ヒーロー』的(荒唐無稽、悪い意味ではない)と捕らえるか、『ピンチヒーロー』的(つまりこの場合はリアルドラマ)と捕らえるかは、その人次第。というより上記した通り、二面の視点から「ガンダム」を楽しめると楽しいだろうなあ、というのが本論なのである。

 本当はここにさらに伝説の『無敵ロボ』「伝説巨神イデオン」を加えるべきなのかも知れないが、富野由悠季さんの『無敵ヒーロー』『ピンチヒーロー』のサンプルといては、この三作品で充分ではないかと思われるので省略する。以下に富野作品以外の面白いと思えるサンプルを紹介しておきたい。

(4)北斗の拳・・・(『無敵ヒーロー』から『ピンチヒーロー』への変遷)
 特にマンガ連載などが顕著ですが当初は『無敵ヒーロー』で始めても、それが長く続けば多くのヒーロー達は時間と共に『ピンチヒーロー』へと変遷して行くことがある。少年ジャンプで連載され大ヒットをとばした「北斗の拳」は、その典型のような作品だったと思う。199X年に核戦争が起こり文明が滅んで無法地帯と化した地球で、北斗神拳の使い手「ケンシロウ」が許せぬ悪漢たちを叩きのめす!悪漢どもはケンシロウに何をやっても勝てない!という、まことに単純明快な『無敵』ストーリー。ジード、ジャッカル、キバ一族、ジャギ、アミバ、ウイグル獄長、といった、いかにも“どうにも殺しちゃっていいよキャラ”を痛めつけつつ弄りつつ退治するカタルシスに読者は当初夢中になった。しかし、そういった『無敵ヒーロー』としてのケンシロウは宿敵ラオウとの最初の決闘でクライマックスを迎えた、とぼくは考えており、その後の南斗六聖拳との戦いに入る頃には次第に『ピンチヒーロー』としての意味合いを強くして行った。ラオウと決着をつけ、第二部とも言える元斗皇拳編を始めた時は再び『無敵ヒーロー』としてのケンシロウを取り戻そうと意図したように感じられたが、あまりうまく行かなかったようで、シュラの国に入る頃にはケンシロウは苦戦に次ぐ苦戦を強いられる、完全な『ピンチヒーロー』と化していた。これに限らず、シリーズが長期化して『無敵ヒーロー』状態を維持できなくなることは、数多くその例を見つける事ができる。

(5)マジンガーZ・・・(脚本家によるヒーロー美学の違い)
 脚本家の解釈の違いによってその作品のヒーロー性がガラリッと変わってしまうことがある。初の操縦型巨大ロボットもの、として開始されたTVアニメ「マジンガーZ」には高久進さんと藤川桂介さんという二人の脚本家が交互に脚本を担当した。しかしこの二人、高久さんは『無敵ヒーロー』嗜好の人で、藤川さんは藤川さんで『ピンチヒーロー』傾向の人でしたから、その回その回によって違ったマジンガーの印象を与えてくれる。基本的にマジンガーZは超合金Zに身を固めた不朽不死身のロボットなのだが(人の♪命は、尽きるとも♪不滅の身体、マジンガーZ♪って歌いますよね)高久さんはマジンガーのその部分を強調してマジンガーZが固過ぎてまるで壊れない話をよく作り、「誘拐されたマジンガーZ」では、操縦者が搭乗してないマジンガーZを奪って一方的に攻撃したが固くて手も足もでなかったというような脚本を書いている。逆に藤川さんは「不死身の指揮官兜甲児!」でホバーパイルダーが溶解してマジンガーZが操縦不能の中、兜甲児がボスボロットとアフロダイAに指示を与えて“マジンガーなし”で機械獣を倒すというドラマチックな脚本を書いている。これは極端な例だが二人の脚本は総じて対照的で、高久さんは『無敵マジンガー』を観せてくれるのに対し、藤川さんは『ピンチマジンガー』を観せてくれる。少し話がそれましたが、こういった製作者のヒーローの解釈の分類に使ってみるのも楽しいと思う。

総まとめ
 その日ぼくは、友人に“無理やり”レンタルビデオからダビングした「超人バロム・1」のビデオを見せていた。「バロム・1」は二人の主人公のタケシ、ケンタロウが友情パワーで合体してバロム・1になり、悪の意思から生まれたドルゲ魔人をやっつけるという特撮ヒーローものだ。そこに「冷血魔人クモゲルゲ」という怪人が登場するのだが、この怪人、前半でバロム・1にコテンパンにされ、ほうほうのていに逃げ帰ってしまう。そこで魔神ドルゲは彼に新たな能力を与える。それは10万ボルトの電撃波で、固い岩盤をも粉々に砕くその破壊力に自信をつけたクモゲルゲは後半再びバロム・1に挑戦する。さしものバロム・1もあの電撃には一たまりもあるまい!そしてその電撃を受けてしまったバロム・1!一体どうなるんだ!?その時ナレーションが鳴り響いた「バロム・1に電流は効かなかった!」そ、そんな?・・・・あっけにとられる観客を尻目にすかさず必殺爆弾パンチ!クモゲルゲの新能力は結局、何の意味もないまま撃破されてしまった!「あははははははは!最高だね、バロム・1ってさ!」ぼくは大笑いして呼びかけたが、その友人のぼくを見る目は何故か冷たく、「そんなに面白い?」という表情で肩をすくめたのだった・・・・・・・・・・・・悔しい、なんとかして“あの”面白さを分からせる事ができないものか!?と頭をひねって考え出したのが、この『無敵ヒーロー』と『ピンチヒーロー』という概念です。『無敵ヒーロー』は“強さ”に対する問答無用の“痛快さ”を、『ピンチヒーロー』は“勝利”をつかむまでの“感動”を、与えてくれるものです。また、大抵のヒーローはこの中間をとって『無敵』部分と『ピンチ』部分のバランスによって成り立ってます。今観て行われてる展開が『無敵』部分か『ピンチ』部分か、考えてみても面白いかもしれません。

'98-10/27 LD津金
付録
 ぼくは『無敵ヒーロー』が好きなので最近の作品でいくつか「これは『無敵ヒーロー』かなあ」と思ったものを挙げておきます。もしかしたら『ピンチヒーロー』をやり尽くした現在、再び『無敵ヒーロー』の時代が来ているのかも(笑)

「BOY」(『ピンチ』部分は一条くんや岡本くんにまかせて、晴矢はひたすら『無敵』)
「ラッキーマン」(“ラッキー”という設定のみで『無敵』状態を維持)
「1・2の三四郎2」(最終決戦キャラ赤城欣一も敵ではなかった)
「なぎさMe公認」(『ピンチ』部分はまーくんにまかせて、なぎさはひたすら『無敵』)
「め組の大吾」(とにかく職務規定を無視し続けてるのに何故かうまくいく結果オーライさが『無敵』)


戻る