怪獣とは何だ?(WHAT IS A "KAIJU"?)





"怪獣映画"と聞いて、皆さんは何を連想されるだろう?日本人ならば、まずほとんどの人間は「ゴジラ・シリーズ」「ガメラ・シリーズ」を思い浮かべられるのではないだろうか?僕はそうだった。何かゴジラとかガメラとかモスラとか、多くは末尾に"ラ"がつくような、体長何十メートルにも及ぶ怪物が、街を破壊し軍隊を蹴散らし、人間社会に大混乱をもたらす。その近代兵器のまるで歯の立たない様を呆然と見守る映画(結末はその作品それぞれだが)そんな感じのものを"怪獣映画"と呼んできただろうか?
あるいは、それが東宝のものであれ、大映のものであれ、円谷英二を盟主とする日本特撮独特の色合いのものを"怪獣映画"と呼んできたかもしれない。『海底軍艦('63)』や『妖星ゴラス('62)』など[注1]怪獣主体性がかなり低い映画も"怪獣映画"かのように無意識に認識してきたような気がするからだ。
なんでこんな話をし始めるのかと言うと、実は僕はUSゴジラ(1998年『GODZILLA/ゴジラ』)を観たとき「これは"怪獣映画"じゃないだろう?」と言いたくなったのである。僕の中の"怪獣"(この場合はゴジラという事かも知れないが)というものは近代兵器が通じる存在ではなく、戦闘機のナパーム弾で簡単に焼かれてしまうものを"怪獣/ゴジラ"とは呼びたくなかった。
変にネガティブで情けない話だが、とにかくその時、否応なく直面したのが「一体、"怪獣"とは"怪獣映画"とは何なのか?」という命題である。 勿論、"怪獣"とは怪物の事、そして少しでも怪物と思しき存在が登場するならばそれを"怪獣映画"としてしまえば、答えはシンプルで手っ取り早いかもしれない。しかし、僕はどうしても"怪獣"を"monster"と英訳する気にならない。また、それに共感を持ってくれる人がこの先の文章を読んでくれる事を望む。"monster"というのは"怪物"の事で、"怪獣"の事ではない。じゃあ"怪獣"とは一体何だろう?という事がこの先の話の前提になる。

では本題に入ろう。
ます"怪獣映画"とは"モンスター・パニック映画"から派生して生まれたものだと思う。人類(観客)にとって未知の、そして驚異の生物(存在)と対峙した顛末を描くという、基本的な構造において"怪獣映画"はモンスター・パニック映画の幹を元にしている事は間違いない。
しかし、それ故にモンスター・パニック映画と"怪獣映画"の境界線はハッキリさせづらい。ともすればモンスター・パニック映画全てを"怪獣映画"にカテゴライズしてしまい本末を逆にしてしまいかねないという問題がある。
これを押しなべて論じ演繹するのは、恐ろしく長い話になるので、先に僕の直感による"怪獣映画"の定義を述べたい。


【定義1/"怪獣"とは原則的に"人間と対峙する世界に棲む存在"であり共通項はない】
従ってある特殊な通訳(シャーマン?)の存在を除いては意思の疎通が成らない。ごく端的に言えば「私はこれこれこの目的で街を破壊します」という宣言はなされず、何故それが起きたのかは人間側の解釈に過ぎない。ただ、それだけでは半獣半人のような怪人と怪物を割る事はできても怪物と"怪獣"を割る定義にはならない。従って次の「定義2」を用意する。

【定義2/"怪獣映画"とは、その本来は解り合えない怪物を"スター"として扱った映画である】
ただし、この"スター"の解釈のあり方が、怪獣映画の定義にも影響を及ぼしてくる。僕はこれを観客の託願の対象となっているかを以って量りたい。

【定義3/託願と共鳴、その要素が認められる、要素を必要とするものが"怪獣"である】
定義1で"怪獣"とは原則的に人間と解り合えないものと述べたが、それでもなお制作者と観客は"怪獣"との"共鳴"を求め、テーマを託す"託願"の対象とする。この"共鳴"(共生?)と"託願"が確認されて、はじめて"怪獣"と呼べるものになる。長い説明は別の機会に回すが、この"共生"と"託願"は極めて日本人的感性に基づくものが多いと思われる。海外でも比較的近い事例を確認する事は出来ないことはないが、その多くは人間、半人間、元人間といった素性を持つことが多く、全くの獣に対して制作者、そして観客共に"自然の感情"としてこの事例を見るのは非常に希である。


が本稿における定義、主要なチェックポイントになってくる。
この上で「USゴジラが"怪獣映画"でないなら、ハリウッドに"怪獣映画"と呼べるものはあるのか?」という観点からサンプルとなるシリーズを挙げ、僕の直感で"怪獣映画"とそうでないものをガンガン割り振る事で、結論を急ぎたい。それは僕なりの"怪獣"論にも繋がるはずである。

検証例1◆ジョーズ・シリーズ(現行4作品)

『JAWS/ジョーズ』(1975年) 監督:スティーブン・スピルバーグ
『JAWS/ジョーズ2』(1978年) 監督:ヤノット・シュワルツ
『ジョーズ3』(1983年) 監督:ジョー・アルベス
『ジョーズ4復讐編』(1987年) 監督:ジョセフ・サージェント

※さらにジョーズのシリーズはあるが未見[注2]

言わずと知れた(…というかサンプルにはそういう作品ばかりを挙げるつもりだが)平和な海水浴場に大パニックを巻き起こし、そして現場の人間の必死の活躍により、退治される"巨大鮫"。
さて、彼は monster には違いないが、果たして"怪獣"と呼べるだろうか?僕の所見では"怪獣"ではない。確かに彼と人間の間には意思の疎通は全くない怪物と言っていい。わずかに、ほんのわずかに『JAWS/ジョーズ2』などで子の鮫を殺された母鮫という解釈が用意されたりするが必要最低限の設定の説明付けに過ぎず、積極的に鮫に人間感性を求めるものではなく、あくまで絶対に分かり合えない人間の敵として描いている。

しかし、その人間への敵性の強さこそが、僕がジョーズ・シリーズを"怪獣映画"と思えない第一の理由である。

少し説明不足になったかも知れない。僕は先に"怪獣"と人間の意志の疎通はできないと言った。しかし、同時に人間側から必死の"歩み寄り"が行われてしまうのも"怪獣映画"の特徴と言えるのだ。「ゴジラ」なら『ゴジラ('54)』で放射能に変質させられた古代恐竜の意思が述べられ、核実験の警鐘まで鳴らす。それは人間の意志の通じぬものへの仮託である。
それは次に述べた"怪獣"がスターとして扱われる事にも通ずるものとも言えるかも知れない。

そしてもう一つの理由は巨大鮫がスターとして扱われていない事である。[注3]

ジョーズという看板、その象徴たる巨大鮫がスターとして扱われていないという解釈には異論のある人も多いと思う。しかし「ジョーズ」というシリーズは、ディティールに多少の変更こそあれ、そのプロットはほとんど同じものである。人間の危機管理の怠慢により巨大鮫が侵入する。そして退治する。
この一つのプロットに縛られた様はおよそスターの扱いとは言い難いように僕は考える。たとえば、あるヒーローもののTVドラマがあったとして、その作品を主演した役者がその後もそのタイトルに影響を受け事あるごとにその作品名が引き合いに出されるよう情況に似ている。それはタイトル(=プロット)に縛られて、役者(キャラクター)に"星"が宿ってないような情況である。分かるだろうか?プロットに縛られそこからはずれると「ジョーズ」でなくなるなら、ジョーズは"スター"ではないのである。
高倉健がどの映画に出演しても役名なんて関係なく"高倉健"であるように、勝新太郎がどの映画に出ても役名なんか関係なく"勝新"であるように、"怪獣"とはそこまでの"星"を宿してはじめて monster から脱皮するのだと思う。
ではジョーズのキャラクター性に"星"が宿った情況とはどういう事か?たとえば、このジョーズと何としても退治したいと、ある研究者があらゆる能力がジョーズを上回るメカジョーズなるもの[注4]を開発しこれと対決させたらどうか?まあ、これは冗談と言うか、僕の拙い脳ではこんな想像が関の山だが、けっこう"怪獣映画"らしいバラエティ性が感じられるプロットになってないだろうか?
どこのどんなシチューエーションに登場してもジョーズはジョーズである、という確証を得られて初めて巨大鮫はジョーズというスターとなるはずである。

いずれにせよジョーズ・シリーズは、パニック映画としてあれほどの金字塔を得ながらも"怪獣映画"としての要素をほとんど持ち合わせないという作品である。元々はモンスター・パニック映画と"怪獣映画"の区別はかなりつけづらいもので、これは逆に珍しい作品とも言える。


検証例2◆エイリアン・シリーズ(現行4作品)

『エイリアン』(1979年) 監督:リドリー・スコット
『エイリアン2』(1986年) 監督:ジェームズ・キャメロン
『エイリアン3』(1992年) 監督:デビッド・フィンチャー
『エイリアン4』(1997年) 監督:ジャン・ピエール・ジュネ

ギーガーのデザインによる大傑作 monster である。一見すればエイリアンは、それこそジョーズ以上の"スター性"を持っていると考えてもいいように思う。ほとんど全身像を拝める機会がないにもかかわらず、一度見たら忘れられないあの「捕食舌」。そのキャラクター、一点のみをもって彼を"怪獣"と解釈してもいいのかもしれない。
しかし、先の「ジョーズ」と同じように、あまりに人類の敵過ぎる。何の託願の対象ともならない容赦ない殺戮者である事は、ハリウッドのモンスター映画ではありがちなことだが、僕の"怪獣映画"のイメージからは遠ざかってしまうのである。
また、宿敵リプリーの存在も大きい。『エイリアン』を出世作にしているとはいえ、ビッグスター、シガニー・ウィーバーの存在は、エイリアンから"スター"としての託願の可能性を引っぺがしている状態である。(もともと託願を拒否したキャラクターであるのだが)凡そ、共感、同情の念は全て彼女に集中する。多少、シチューエーションを変えながらも、今一つプロットの縛りから逃れられていない印象を受けるのも、このリプリーとの対決に終始するためだろう。[注5]

しかしそれは現時点での最終作『エイリアン4』でわずかな変化を見せる。DNA操作により復活したリプリーは人間にしてエイリアンの性質を引き継ぐミュータントとなる。まあミュータント・リプリーは"怪人"なんだけれども、問題はその時リプリーから分化したクイーン・エイリアンが産んだ人間とエイリアンのキメラ(混合種)である。
シルエットはエイリアンだが、体色と頭部のフォルムに人間を残し瞳を持っており、母(祖母?)であるリプリーには手を出さない。しかし他の人間は襲う彼女をリプリーは無情にも殺してしまう。託願とは言わないまでも、少なくともその瞬間は「キングコング」「ゴジラ」に近づくものだったと僕は思う。"スター"ではない。が、"スター"の片鱗を見せた瞬間でエイリアン・シリーズは終了した。
おそらく『エイリアン5』が創られる事があるなら、かなり"怪獣映画"と呼べるものになっているのではないかと僕は確信する。

"怪獣映画"シリーズも、始めはモンスター映画か"怪獣映画"か判然としない中から誕生する。たとえば第一作『ゴジラ』はモンスター・パニック映画として創られた事は間違いない[注6]。何故なら"怪獣映画"などというカテゴリー自体「後にゴジラ自身が構築して行った」ものだからだ。それが長い時間とシリーズをかけ、ゴジラ映画は怪獣映画シリーズとして確立され、その時はじめて第一作『ゴジラ』も怪獣映画として認知される事になるのだ。[注7]その意味においてエイリアン・シリーズはやがて怪獣映画になるものだった。だが怪獣映画になる前に終ってしまった。そういう事になると思う。


検証例3◆13日の金曜日・シリーズ(現行9作品)

『13日の金曜日』(1980年) 監督:ショーン・S・カニンガム
『13日の金曜日PART2』(1981年) 監督:スティーブ・マイナー
『13日の金曜日PART3』(1982年) 監督:スティーブ・マイナー
『13日の金曜日完結編』(1984年) 監督:ジョゼフ・ジトー
『新13日の金曜日』(1985年) 監督:ダニー・スタインマン
『13日の金曜日PART6ジェイソンは生きていた』(1986年) 監督:トム・マクローリン
『13日の金曜日PART7新しい恐怖』(1988年) 監督:ジョン・ブックラー
『13日の金曜日PART8ジェイソンNYへ』(1989年) 監督:ロブ・ヘッデン
『13日の金曜日ジェイソンの命日』(1989年) 監督:アダム・マーカス

僕は今回のレポートについて、その考察のサンプルとして主にシリーズものの映画に拠っており、その比較対象は当然、日本の怪獣シリーズとなる。
しかし、これは別に「シリーズものとならなければ"怪獣映画"ではない」と規定しているワケではない。だが、単発ものの映画だと大変分かり辛く、議論の余地を多く残してしまうという問題はあるのだ。先に述べたように"怪獣映画"とは、モンスター・パニック映画から派生したもので、僕はその差を測るのに1〜3のチェックを提案したが、対峙性、スター性、共鳴性、託願性といったものを一作のみで割り振るのは、チェックが非常に内向的な部分も手伝い、かなり難しい作業と言わねばならない。その点で"シリーズもの"は製作企画側、そして「観客が何を求めていたのか、どこを向いていたのか?」、そういった重要な要素を比較的分析し易い対象と言えるのだ。
本来ならばシリーズものでなくとも、そのように対象に上げられた作品の内面を「"怪獣性"があるか?ないか?」といった事を議論するのは愉しい作業のはずである。本文がその一助になってくれればと思うのだ、そのことは明記しておきたい。

さて「13日の金曜日シリーズ」である。先に述べておくと僕はシリーズの看板、ホッケーマスクの殺人鬼・ジェイソンを"怪獣"と捉えていない。その最大の要因は、彼が人間の形状をしており、なおかつ"元人間"であることであるが、人間との対峙性、またそのスター性が観客に愛されたというところまで達している点をみてもかなり"怪獣に近いキャラクター"である事は疑いなく、映画作品自体も長い連作を得て、かなり"怪獣映画"に近い形質、系譜となっている。
まず、ショッキングなシーンを連発し観客に衝撃を与えるスプラッタ・ムービーの先駆けとなった[注8]第一作を引き継ぐ第二の犯人としてジェイソンが登場し、その惰性として3D映画である第三作目が作られている。[注9]
この三作公開の過程で近・怪獣としてのジェイソンが醸成されていったとしてよい。ストーリーとしては生息地であるクリスタル・レイクを荒らすバカップルを惨殺するという変り映えのないもので「ジョーズ」と同じくそれに縛られていると言えなくもない。しかし第六作目『〜ジェイソンは生きていた』で"雷でジェイソンが甦り不死身の肉体を得る(というかゾンビーになる)"という復活が与えられるのは、本来的には呪われた環境で育ったものの、あくまで人間だったジェイソンに対し「より怪物としてパワーアップして欲しい」という観客の"託願"の跡と見ることができるし、第7作『〜新しい恐怖』では"ジェイソンのパワーを凌駕する超能力少女"が現れジェイソンと対決する。これも「怪獣対怪獣」の企画へ移行していった怪獣映画シリーズの流れと近く、「何とかあのジェイソンをコテンパンにやっつける方法はないか」と制作者(そして観客)が考え始める状況が発生。それがジェイソンに対してある種の感情移入、「共鳴性」が現れたと見てとる事ができるのだ。
僕は未見だが、番外編に当たる宇宙編。ジェイソンが殺戮を繰り返す『ジェイソンX13日の金曜日(2002年)』や、最近公開されたもう一方のスプラッターホラーの雄フレディ[注10]と対決する『ジェイソンVSフレディ(2003年)』については、もはや説明の必要はないだろう。ここでジェイソンは設定やストーリーから完全に離れ、一個の"スター"として存在しているのである。

ちなみに、第二作『13日の金曜日PART2』で、被害者の女性が殺される直前に読んでいた雑誌には「ゴジラ」の記事が載っている。怪獣の要素が制作者に何らかの影響を与えた事は想像してもいいように思う。

検証例4◆ターミネーター・シリーズ(現行3作品)

『ターミネーター』(1984年) 監督:ジェームズ・キャメロン
『ターミネーター2』(1991年) 監督:ジェームズ・キャメロン
『ターミネーター3』(2003年) 監督:ジョナサン・モストウ

"怪獣映画"を比較検証する作業を始めたとき、最も目についたというか"僕のイメージする怪獣映画"に最も近いラインを描いた作品が、このターミネーター・シリーズだった。ターゲットはただ一人とはいえ、人類存亡にかかわるキーマンを抹殺するという、いわば全人類の敵だった第一作目のターミネーター・T−800が、第二作目では一転して人類の味方として最新ターミネーターのT−1000と、そして第三作目では最終形T−Xと闘うというシリーズ展開は、始め人類の敵として日本上陸したゴジラが、いつの間にか人類の存亡を脅かす別の怪獣を退治するというよく知られた"怪獣映画"シリーズの系譜にかなり近いと言える。
ターミネーター・シリーズは3作目で一応完結という事になっているが、次の作品、その次の作品が制作されてもアーノルド・シュワルツェネッガー演じる主役・ターミネーターが交代しない限りはT−800が人類の守護神として活躍することには疑いの余地は無い。それはターミネーターに対して観客が「人間の味方になって欲しい」という託願があった事になる。[注11]

しかし、これには一つ注釈が付く。第一作の『ターミネーター('84)』で悪役として登場し、これを出世作としたA・シュワルツェネッガーが、第二作目('91)が公開される7年の間に、不動のスーパースターとしての成長を遂げていた事だ。
もし、シュワルツェネッガーの成長がなかったら、ターミネーターにスター性(あるいは託願性)が宿ったか?という仮定の答えをだすのは難しい。しかし、ここから僕が割り出した見解は、人型をして、"俳優のスター性に仮託して"はじめて怪獣映画シリーズに最も近い奇跡が得られているという事だ。
これに対して"人型でなく愛玩性もない異形のキャラクター[注12]"がここまでスター性と託願性を帯びることができるか?という問題は一般論から言えば答えるまでもなく「NO」のはずなのだ。だが、実際には"怪獣映画"でこれは起こってしまっている。だからこそ、この特異性は"怪獣"と"怪獣映画"の最も重要な要素だと僕は思っている。

何故、こういった事が起きているのか?という事に関しては、まず近い答えとして『キングコング対ゴジラ('62)』が公開され本格的なゴジラ・シリーズが開始されるまで日本では『ゴジラ』と『ゴジラの逆襲('55)』が繰り返し上映・放映されていたであろう事だ[注13]。観客が繰り返し鑑賞するうちに、モンスター・パニック映画だった『ゴジラ』は、次第に、恐ろしい存在から、共鳴し得る存在に(簡単に言えば"情が移る"という事だが)変化し、スター性や託願性を帯びるに到ったのではなかろうか。
ただ、これだけでは他国でもあるモンスター・パニック映画が"怪獣映画"に進化しなかった事への十分な解答にはならないように思う。やはり、怪獣映画成立の要因の一つには「日本人の感性そのものに動物・獣と人間の同一視性が極めて高く、外国人と比べてその拒否反応が少ない面がある」からなのではないかと思われるのである。
日本人が暮らす、この国の文化的な背景が"怪獣"を育むのではないか(生み出すのではなく)。僕はそう考えるのである。



以上、洋画シリーズを元に僕の内に在る"怪獣映画"というものを分析してみた。結論としては「"怪獣"というのはただの monster の事ではなく"スター"の事なんだ。スターというのは脚本や設定を超えて存在するものなんだ」と言ったところだろうか?
もう一ついえば本文を書くに当たってネットなどで"他者の意見"を調べてみて気付くのは、まだまだ"怪獣対決もの"的な、中・後期ゴジラ・シリーズなどに対する「怪獣プロレス」への否定的な意見が根強いことだ。それらに付記される論評としては「人間(架空の防衛軍や自衛隊)対怪獣という構図」へのこだわりが多く、それは非常に"外国的な"モンスター観に近く感じられる。もちろん僕が検証例として挙げた作品は条件として「文句無しにヒットしている」という点が大きいわけで、それがつまらないと意味ではそもそも在りようがない。その点で誤解の無いようにお願いしたい。だが、そこで僕は思うのだが、しかしそれでは"怪獣"と monster の区別はつけられないのではなかろうか?
人間そっちのけで"怪獣"対"怪獣"にドキドキする。そういった映画、本稿で探ったようなような"怪獣映画"を外国にあまり例をみないのは(海外作品の場合、怪物同士が闘う事はあっても人間はそっちのけという第三者・観戦者的な扱いはまず無い)、正に姿形で"怪獣"と monster を区別できなくとも、それはそれらが違う傾向・ジャンルの映画作品・映画的存在であると言う事を表す印であると思える。
試験の答案に書くように無味乾燥に「怪獣とmonsterは同義語だよ」と言ってしまう事ももちろん可能である。それでもなお"怪獣"という素晴らしい造語、豊かな"存在"に対してちゃんと納まるべき場所を与えてやりたいと僕は思う、そしてまたそれは既に在るとも思うのだ。[注14]

2003/11/24
LDつがね

【注釈】
  1. 『海底軍艦('63)』や『妖星ゴラス('62)』など … 『海底〜』には守護竜マンダ、『〜ゴラス』には古代爬虫類マグマが登場するが必然性は低い。なお海外で編集された『〜ゴラス』からはマグマ自体がオミットされ、「マグマを攻撃するVTOL機のみが描写される」という珍事を招いた。
  2. さらにジョーズのシリーズはあるが … 公式なシリーズと興行上のシリーズ、その区別自体が無意味なほど沢山ある。この"フリー素材"的在り方は映像キャラクターでは珍しい。
  3. その象徴たる巨大鮫がスターとして扱われていない … 劇中には使われないが、シリーズ初作の鮫には「ブルース」という名が与えられた。B・リーにあやかったかどうかは不明。
  4. メカジョーズ … R・ハーリンの映画『ディープ・ブルー('99)』にはバイオ・ジョーズが登場する。一方、原作者P・ベンチリー自身は小説『海棲獣』で「ロボ鮫?、実はナチの水棲サイボ−グ」という物語を書いた。
  5. このリプリーとの対決に終始するためだろう … 聖ジョージに代表される「ドラゴン・スレイヤー」の構造に収斂しているのかもしれない。
  6. 第一作『ゴジラ』はモンスター・パニック映画として創られた事は間違いない … 香山滋による原作は企画が決まってから発注された。プロデューサの田中友幸は「とにかく凄い恐竜の暴れる映画」、円谷英二はインドシナ政府との合作用に「大タコが暴れる海洋冒険モノ」をそれぞれ企画、後に統合した経緯がある。
  7. その時はじめて第一作『ゴジラ』も"怪獣映画"として認知される事になるのだ … 翌年の『ゴジラの逆襲』の公開終了後、『キングコング対ゴジラ』でゴジラが再登板するまでに7年のブランクがある。その間、東宝製作陣は正攻法のSF『地球防衛軍('57)』、幻想スペクタクル『モスラ('61)』、SFホラードラマ『ガス人間第1号('60)』、ファンタジー『日本誕生('59)』、政治SF『世界大戦争('61)』、あるいは戦記物で特撮映画の可能性を探る自由を享受していた。
  8. スプラッタ・ムービーの先駆けとなった第一作 … ここでの「先駆け」は"充分な商業的成功を収めた"という意味。スプラッタ・ムービーという血飛沫映画のジャンル自体は'60年代から存在するが、それらは予算も収益も小規模なものだったのである。
  9. その惰性として3D映画である第三作目が作られている … 先号のロヒキア氏の記事にあるように、当時の監督S・マイナーはとにかく3D企画をやりたかった。3が付くならやらない手はないのだ(同じ事を考えた奴が今年にもいた)。
  10. フレディ … フレディ・クリューガー。エルム街の悪夢・シリーズで活躍する超現実の殺人鬼、悪夢の世界から犠牲者を狙う。そのヴィジュアル優先の世界観が多大な好評を得、TVシリーズも製作された。ちなみに13日の金曜日にもTVシリーズは存在する。
  11. それはターミネーターに対して観客が「人間の味方になって欲しい」という託願があった事になる … 疑うのならカルフォルニア住民に訊いてみて下さい。
  12. "人型でなく愛玩性もない異形のキャラクター" … 例えばスター・ウォーズのクリーチュアやR2−D2、ETには明確な愛玩性が与えられている。
  13. 繰り返し上映・放映されていたであろう事だ … 加えて海外編集版を加工した『怪獣王ゴジラ('57)』。それらは二番館(ロードショウ公開後の上映を主とした映画館)や名画座などで集客力を発揮した。
  14. ちゃんと納まるべき場所を与えてやりたいと僕は思う、そしてまたそれは既に在るとも思うのだ … それは祀るということかもしれないし、あるいはプロテスタント的な行為なのかもしれない。それを選ぶのはそれぞれだ。しかし怪獣映画を愛するのなら「それは自分で考えるべきだ」と思う。
校正/注釈:modstoon

※「GLOOMY FABULOUS MONSTERS OVER THE OCEAN #2」に寄稿