# 有害とは何か? 投稿者:LD
[2002/04/01_00:15]
「青少年有害環境対策基本法案」というのが法制成立に向けて動いているようですね。
青少年有害環境対策基本法案全文
「言論・表現の自由」を脅かす恐れがあるそうで。まあ、僕はよく「『セブン』の第12話を返せ!」とか「『ジャングル黒べえ』を返せ!」とか言っていますが、これは単なるわがままに近いのですが、「言論・表現の自由」…という言葉は大いに利用させてもらいたいので(笑)ちょっと考えてみようかなと。
ただ、この法案を支持する人にとって「言論・表現の自由」を声高に叫んでも、逆効果…とは言いませんが、そんなに意味のある行為ではないので「有害とは何か」…の方向で論じてみたいと思います。
「この本・ビデオ・ゲームは有害だから今後発売してはいけません」…と法律で規制する。まあ、この法案がそこまでの法案かどうかは別として、青少年を有害な環境から守るという、その“有害”というものの考え方について、この法制を作ろうとしている人たちと、僕とでは隔絶の差があります。一致するはずがない。僕は「青少年に“有害”なものは(法律的に)青少年の目に入らないようにしよう」と考える人間が一番“有害”だと考えているんだもの。
よく“暴力表現”を見る事によって青少年が暴力に走るという話があって、これに「そんな影響は無い」という意見の人もいるけど、僕は影響があると思っています。
「北斗の拳」を観たら次の日は、きっといじめられっ子を実験台に百裂拳でしょう。
「K−1」を観たら次の日は、きっといじめられっ子を実験台にマーク・ハントごっこでしょう。
よくないねえ…叱って止めさせないと。(……………ところで、何か、この僕の世界観古いですか?(汗)……ま、いっか話を続けましょう)
しかし、“暴力表現”が暴力性を誘発するという流れを、そのままスルーして受け止めてるけど、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しい。
たとえば、ホモ映画をやったとして、もう男子はみんなホモですか?次の日はもう(ピ―――ッ)ですか?そうはならないでしょう。いや、そうなる人もいると思いますが(汗)それはその人の中に、そういう“スイッチ”があったって事でしょ?
たとえば、昔、下品な子供向けマンガで人前でウンコプリプリするような作品があって、PTAとかから随分叩かれたんじゃないかと思いますが、実際には人前でやたらウンコしたがる小学生とか増えたわけじゃないでしょ?子供はウンコは大好きだけどね(笑)それは人前でウンコしちゃいかんというモラルがちゃんと行き届いてたって事もあるけれど、基本的に人間には「人前でウンコしたい」なんていう“スイッチ”がないからだといえると思います。
受けとるその人に、その“スイッチ”がなければ何の影響も生まれない。それどころか、はじめから見ようともしないものでしょう。“暴力表現”で多くの人が暴力性を誘発させられるとして、それは多くの人間が、そういう“スイッチ”を持っていると言う事。それはどういう事なのか、もう一度よく考えてみた方がいい。もし“スイッチ”なぞなく、ただ一方的に“暴力表現”が暴力を誘発すると言うなら、それは一体どういうプロセスなのかきっちり説明してもらう必要がありますね。
この「青少年有害環境対策法案」を考えた人は、その“スイッチ”を持った青少年の、それが押されないように、情報から隔離しようと考えているの?
マンガやゲームがやり玉に挙がっているのだと想像するけど、それさえ見なければ”スイッチ”が押される事は無いと考えているの?
…それはどう考えても青少年にとって“有害”なものの考え方だと僕は思う。“スイッチを押す指”はマンガやゲームだけじゃないんだよ。あらゆる世界、あらゆる人間、あらゆる風景に、“スイッチ押す指”はついているんだよ。その全てから隔離なんてできるの?それができたとしてどんな社会になるの?しかも、そこまでやっても“スイッチ”を押される日は絶対に来ると思うよ。
僕は思うのだけど、青少年から“有害”なもの(法律を作ろうという彼らが有害と考えるもの)を遠ざけるなんて、とんでもない。逆に目に触れて、夢中になって、時に大人から無理やり取り上げられるのが一番いい。大人は教育上よくないなら何故それがいけないのか子供に話して取り上げなさい。
あらゆる感情を昂ぶらせるモノを多く見て、“スイッチ”があるなら、早いうちに多くの“スイッチ”を押しまくった方がいい。腕力も無く、お金も無く、秘密も作れないうちに。
目に触れる事がないから、考える事も無く、善悪を論じることも無く、そして、時が経てば、次第に腕力もお金も持ち、秘密も作れるようになって行く。その時ある日突然“スイッチ”だけが押されたら一体どうなるか想像できるでしょう?
青少年に“有害”な表現は必要なの。
それが時に「面白くて面白くて仕方がない」事も必要なの。
それが何故見て欲しくないのか言える大人がいる事も必要なの。ああ、これができないんだね。はあ〜…ま、いっか。
その意味で今のメディアはその責務(?)を果たしていないと思います(笑)今回の法案に対する対応も自主規制機能を強化するような方向で対応し、政治の介入を防ごうとしているようなのでどうしたものか。抗議を恐れて萎縮して“面白い”に対する挑戦心がない。防衛線を思いっきり後ろに持って行ってもね、「“有害なもの”を発見したくて仕方がない」って人はいるんだから。戦わなければどんどん領域を失って行くだけです。もっと確信犯的に、定期的に、前線を前に持って来た方がいいと思う。別に正面衝突して決着をつける必要はないと思うのだけどねえ。のらりくらりとスカしてかわす…そんな日本人が大好きさ(笑)
実は今回の法案。表現側…この場合は事業者の側に戦う意思があれば、それ程、恐るるに足りない話だとも思うのです。法案の中自体に「表現の自由その他の国民の基本的人権を不当に侵害しないように留意しなければならない。」と書かれているし。よく、「“有害”の規定があいまいでいくらでも拡大解釈ができる」という言葉を耳にするけど、という事は表現側…この場合は事業者の側に戦う意思があれば「いくらでも極小解釈に言いくるめる事ができる」という意味にもなると思います。戦う意思があればね(笑)
まあ、ただでさえ抗議団体とまともに戦えずに、先回りに自粛して、おびえたような表現を続けているのなら、国の裏付けがついたらもう何もできないのでしょう。やっぱり法制化反対!
(……………ところで、何か、この僕の世界観古いですか?(汗)……ま、いっか話を続けましょう)
「表現の自由」というのは大切なものだと思いますが、時々「“言論・表現の自由”に基づいて、おまえはオレの“表現”に“苦情”を言うな!」という考えの人がいて、それは「うちのマーくん(仮名)に悪影響を与える物は、根本的に根絶やしにしてやる!」と考えている人と大差ないと思っています。“表に現す”以上、衝突が生じるのは当然の事で“衝突のない表現”なんか目指しても言葉自体に矛盾があります。苦情をぶつけられて己が何を“表現”していたか思い知るのは必要な事です。喧々諤々行きたいものです。
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