一言でいうなら「子供の火遊び」マンガ!
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 「子供の火遊びマンガ」と言って『特攻天女』を楽しんでしまうあたり、もうぼくはかなり「おっさん」なのだろうか?しかし少なくともこの物語で彼女(彼)らの戦う“戦場”というものには、ぼくはほとんどリアリティを感じていない。身長150に満たない和泉祥がケンカにめっぽう強いという時点でリアリティもへったくれもない話ってのは周知のとおり。ただしこの作品の登場人物たちの「子供っぽさ」にはすこぶる存在感を感じてるし、強く魅かれるものがある。作者も細かいところでそれは強調しているように思う。

 ぼくは暴走族の世界のことは何も知らないが、彼らは彼らなりの仲間意識とモラルの中で(大人から見れば)バカなことをやっているのだろう。『特攻天女』はそういった暴走族の世界を“大人の立ち入らない子供だけの世界”と強調して、そこに生きる少年少女が、わざわざやらなくてもいい「危ない火遊び」に、それこそ命懸けで挑む姿を、ギャグと泣ける話をおりまぜながら楽しく描いている。
 だいたい子供ってのは「大人」のいないところで好き勝手にやることを夢見ているものだ。そして「危ないコト」が大好きである。「大人」のいない所で「危ないコト」をしてれば、これはどーやったて「死ぬほど危ない目」に会うのである(笑)現に作中で祥の親友・森茜は額に一生消えぬ火傷の傷を負ってしまった。(「まあ、そんなこともあらぁな」と笑えるところが、このマンガのいいところではあるが)そんな「火遊び」を繰り返して子供たちは様々なことを学び、自分なりのルールを身につけて行く。しかし、それは「大人」の強制力を持たぬ自分だけの“線引き”であるから人によって“線を引く場所”が違うし、感覚的で整合性を伴わないから矛盾も生じる。だが、強制力を持たぬからこそ、その人のプライドを懸けた“生きたルール”であり、矛盾があるからこそ“真実に近いルール”と言える。「大人」はもうこれができない。「子供」だからこそ、と『特攻天女』はそう思わせてくれるパワーがある。

 たとえば「大人」なら“争いはよくない・何も生み出さない”ことは誰もが知ってる事実である。しかし和泉祥は「でも、とことんまでケンカしないとお互いのことなんて分からないよ」と「大人」とは別の結論を導き出す。主人公である祥の「子供っぽい」理屈や筋の通し方はこの作品の大きな魅力の一つであり、「子供」だからこそ、すんなり正しい(本当に正しいかどうかはこの際問題ではない)答えにたどり着き、そのまま実行に移す祥の姿は痛快だ。それはやっぱり「大人のいうことを聞かない」から得られるもの、「危ないコト」をわざわざやって自分が傷を負ってまで得た“本当の結論”だからだろう。
 「大人」が近寄っちゃいけないという場所に「子供」だけで出かけて行って、そのために友達の一人が死んでしまったら、死んだその子は気の毒だが、他の「子供」たちは“真実”を一つ、心に刻むことができるという話だ。

 しかし「大人」もなんの理由もなく「火遊びはするな」などと言いはしない。その「火遊び」が過ぎれば、「子供」らは大きな代償を支払わされる事になる。時にはその身には耐え切れないほどのものを支払うハメになる事もある。
 それが今の瑞希や高村や遊佐たちと言える。『特攻天女』はその物語の最後の最後に、彼らの「過ぎた火遊び」の清算を要求しようとしている。
 実はこの物語で最も「子供」なキャラは夜桜会総長・天野瑞希であろう。天野財閥の無限の財力を背景にした、沈着冷静な戦略家として描かれてる彼女だが、その正体は愛した男を引き離された恨みを他者にぶつけてるだけの「駄々っ子」に過ぎない。(強靭な精神力と明晰な頭脳、持てる才能の全てを「駄々」に使う最強の「駄々っ子」ではあるが)彼女がいくら犯罪を犯しても捕まらないのは、天野財閥の加護によるものであことは容易に想像がつく。千里や遊佐や夜桜会のメンバー、あまりに多くの者に守られながら、全ては自分の手駒と嘯き、孤高の戦士を気取る彼女は正直片腹痛く、また悲しいほどに「子供」に思えてしまう。

 『特攻天女』の陰の主人公は瑞希であることはまず間違いない。彼女がこの先、自分の犯した罪にどんな“結論”を得るのだろうか。また、全てを捨てて“戦場にいるその男”に会いに行くとき(おそらく行くのだろうが)彼女はどのような人間に変わっているのだろうか?あるいは変わることなく行ってしまうのだろうか?この作品が単純に「子供」を「大人」に変える物語でないだけに興味は尽きない。

'98-8/2 LD津金

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