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#139 Re:宮崎吾朗のゲド戦記のテーマ
投稿者:GiGi <2006/08/17 07:00>
<<<親記事]
では、吾朗版ゲド戦記のテーマは一体なんだ?と。それは勿論。です(爆)。

鑑賞直後の感想で、思わず「父殺しでも家族の再生でもない」と口走ってしまったんですが、この直感は間違いではないんだけど、ちょっと理解が足りなかった。

ここが吾朗版ゲド戦記の業の深いところなんだけど、この映画は「父殺しを成そうとして成し遂げられなかった」「家族の再生を望むも和解に至らなかった」話なんですね。

アレンの父王殺しは、とても現実感のない形で表現されている。これはもう、吾朗監督の父王越えというテーゼに対する現実感のなさとそのままリンクしてて。煮え切らない表現にも思えますが、そもそも父駿が息子にさされたくらいで死ぬわけがない。それでも、アレンは父殺しという十字架を背負って《ゲド戦記の制作》という旅に出るわけです。

アレンを導くハイタカは、宮崎駿のアンチテーゼとしての高畑勲なのかどうかはわかりませんがw、まあ、理想の父親像なのは明らかですね。アレンはハイタカと人間がましい、親子がましい、家族がましい関係を構築することで人間性を回復するわけですが、そこで登場するのがクモです。

 当初クモは鈴木敏夫Pの化身なのかと思っていてw、城に誘い込む件なんかはまーそんな雰囲気も強いんですが、クモが体現する、肥大化する欲望というテーゼはこれはもう、還暦過ぎても自分のリビドーを解放しまくってる父駿のメタファ以外の何者でもないじゃないかとハタと気付いてw。

そうするとその演出が東映動画的なのにも意図が込められている気もするのですが、ちょっと鑑賞態度が緩くなってたせいで精査出来ません(^^;。とにかく、そこでアレン吾朗は父駿の無限大の欲望を否定して、一人の自立した人間に回帰します。

そしてラスト、アレンは自らの罪を償う為に帰路に着くわけなんですが、これもともとのプロットではこの後に王都に還って実は生きていた父王との和解のシーンがあったんじゃないか?と勘繰ってたりしますw。そのシーンがあると、全体の構造がものすごい分かり易くなるんですよね。じゃあ、何でそのシーンがないのかって言えば、そりゃあ勿論和解できなかったからですねw。んー実に業が深いw。
  • Re:宮崎吾朗のゲド戦記 投稿者:おかそん <2006/08/20 10:02>