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#276 作品チェック 第2話「私…何がしたいの」
投稿者:ルイ [2008/10/30 06:04]
<<<親記事]

湯浅比呂美の迷走が牽引する物語
 2話が1話のサブタイトルである石動乃絵「私…涙、あげちゃったから」を受けて進む中、この回ピリリと効いているのは湯浅比呂美の行動・発言。その事を強調する為、またヒロインとしての「格」のバランス問題から、2話のサブタイトルは比呂美の自問から。また、脚本は1話の岡田麿里さんから監督・西村純二さんへとバトンリレー(脚本時は「西村ジュンジ」名義)。西村監督が元来演出畑の人である事も影響して、ただでさえ脚本以外の情報が多い作品であるのに、西村脚本回は他の回にも増して脚本が絞り込まれており、映像や音響…あらゆるものを総動員して「空気を嗅ぎ取る」必要のある映像作品になっています。岡田さんと西村さん、更には3話で参加する森田眞由美さん。この脚本家3人のローテーションの中でも、西村脚本回を「読みこめるかどうか」を、自らのとるてあ読みの、中間テストのように捉えてみると面白いのではないでしょうか。

 別の項で「肉体と精神」という湯浅比呂美と石動乃絵の対照的な関係に触れました。それは言葉を変えると具体と抽象。仲上眞一郎と石動乃絵の関係は、言葉にするのも困難な、大袈裟に言えば魂の関係。その為、物語の駆動をそこだけに任せるのは少々難しさが伴います。背景美術レベルから、ある程度の「リアリティ」を基盤に描こうとしている物語なのに(1話で「ファンタジー」を強く観た人は、感情の綺麗な流れや背景美術といった部分の見落としが多かったのでしょう)、リアルとファンタジーの配分比で、ファンタジーが強くなりすぎてしまうんですね。その点において、「肉体の比呂美」の貢献度は本当に高い。特に、キャラクター達の言動が積みあがり足場が固まるまでは、湯浅比呂美、もっと言えば彼女の「生々しさ」こそがこの物語を牽引していた最大の要素、と言っても過言ではありません。

 湯浅比呂美の行動が与えてくれるのは、視聴者への程よい「?」。そのままただ観るには引っかかる部分として、違和感を覚えずにはいられません。これは1話にしてある一定のキャラクターを成立させたからこそ可能な手法で、キャラクターが仮初の型も持っていない段階で「?」を乱発されても、そこに視聴者の視点が追いつく事は望めません。作りが荒い、キャラが練りこまれていない、或いはシンプルに「変な人(芯のない人)」といった感想に直結しがち。しかしこの作品は、ティッシュ箱のニワトリをはじめとして、1話で既にしっかりと意図に満ちた感情の演出を組み上げ、その実績でもってなお「裏切り」を行い続ける。そんな時、受け手はどう考えるか?実績や信頼が伴った相手の裏切りには、人間は「理由」を求めるもの。そして、そこに実際に意味・理由を感じた瞬間の、「?」という感情の溜めが「!」という感情の解放・納得に変わる瞬間。この瞬間の快感こそが、本作の魅力です。

 今回は、湯浅比呂美がその最大の対象。それは今回だけに限った事ではなく、実際の所、全編通して比呂美こそが「?」→「!」の代表格です。安藤愛子は(それでも十分深いが)かなりわかりやすくて、わかった瞬間の快感には少し欠ける。石動乃絵は逆に相当踏み込まないと難しい。難しい分快感はドカンとやってくるものの、結局言語で収めきれないゾーンでもある為に、確認しきれない上に、人に伝達しきれない面があるんですね。それらと比べて比呂美は絶妙です。感情の揺らぎを言葉に変換する愉しさにおいて、比呂美ほどのキャラクターはそういない。湯浅比呂美を味わう事ができれば、一定以上の愉しみには確実に到達できると思います。…では、そのあたりを中心に2話のポイントを。


・演出の仕事〜確認・ズレ・情報提供
 第2話は脚本だけでなく絵コンテも西村純二監督という事で、シーンのセレクトからその中でのカメラの映す対象まで、監督の演出意図がほぼそのまま出ていると考えて良いでしょう。そう考えた上でこの回の比呂美を見ていくと、地味に効いているのがある意味何でもない序盤のシーンだという事に気付きます。

 まず、先週ラスト「私…涙、あげちゃったから」を繰り返す所から始まる2話にあって、その前にコンテは敢えて仲上家と、そしてPCで帳簿を打つ比呂美、という既視感のあるカットを挟む。このカットに何の意味があるのでしょうか?これらのカットは、仲上家という変わらない建築物と、1話冒頭と同じ作業をしている比呂美をともに映す事で、今まさに眞一郎と乃絵の物語が動き出すという瞬間に、まるで比呂美は感知できる立場にない、そして昨日と同じ日常を繰り返している、という事を演出しています。それはつまり、比呂美というキャラクターは1話から変化はない、という事の宣言なんですね。

 眞一郎帰宅後の夕食時も同様。このシーン自体、会話だけを取ってみれば眞一郎にとっての親、というものが描かれていて、その為のシーンの筈なのに、カメラは一言たりとも会話に参加しない比呂美を映します。眞一郎の様子を気にしながらも、何も言わない比呂美。そしてその表情は、1話と同じ線上にある憂いを含んだ暗い顔。ここまでの比呂美は1話で見せたままに「眞一郎の前(仲上家)では暗く、静かで、控えめな少女」という像を崩していない。その事を視聴者全員に確認させ、強調する為に、これらのカットを挟んでいたというわけです。

 ところが、そんな受け手の「仮の比呂美像」は、翌日の放課後いっきに破壊されてしまいます。

比呂美「路眞一郎くん、知り合いなんだ…石動乃絵。
あの子、変な噂がいっぱいあるの知ってる?」
眞一郎「あ、ああ…野伏から聞いたよ。あれだろ、地底人とメル友だとか…ったく、バカだよな…」
比呂美「授業が終わると、木に登って通りかかる男子生徒を逆ナンしてるんだって」
眞一郎「え…あ、あの」


 まず、予想外の口撃。この言動について、耳だけでなく目も使って観賞した上で「比呂美が眞一郎の事を心配して教えてあげた」というニュアンスを嗅ぎ取る人はほとんどいないでしょう。そう読むには、あまりに表情・声色ともに作った冷淡さに満ちている。これは一種の陰口とも受け取れてしまうもので、そもそも比呂美の言う「木の上で逆ナン」という噂自体があるかどうか疑わしいものです。確かに、乃絵にナンパ意図はないながらも、毎回木から降りる際、下を通り過ぎる生徒に声をかけていたかもしれませんから、ここは断言できる所でもありませんが。どちらにせよはっきりしている事は、そんな事を眞一郎に言う比呂美が、親切心から言っているわけがない、という事です。そしてその暗い感情は、1話の比呂美からは全く窺えないものでした。

 帰宅後も比呂美のイメージにない行動は続きます。夕食時、醤油の瓶を取ろうとして手が触れ合う2人。ここまでの比呂美の積み上げに従って考えるなら、比呂美は「ごめんなさい」と言って俯くはず。そう思わせる為にこそ、1話の演出はあった。ところが、比呂美は笑顔といかないまでも表情を柔らかくしながら、眞一郎をじっと見つめてくる。眞一郎はその反応にただ喜びますが、この反応も明らかな「ズレ」です。特に学校での(女生徒たちといる時の)比呂美との対比として、仲上家での比呂美というものをどれだけ念入りに積んだのかは、既に1話で述べた通り。その仲上家でのこの行動。意図的に積み上げた(更には2話冒頭で再確認した)比呂美像を、一気に崩してきたわけです。

 以降も、後述しますが乃絵との「お墓争い」、更にはその乃絵を紹介して欲しいと眞一郎に頼むなど、比呂美の一見不思議な行動は続いていきます。その視聴者の感情を肯定してくれるのが、比呂美本人の「私…何がしたいの」。比呂美が自問する事によって、視聴者は確信をもって「ああ、やっぱり“変”と感じていいんだ」と安心して、この回の読み込みを始める事ができる。このあたりの、カードを提示し、それを崩して、(作劇のミスではなく、意図的に)その上で崩しましたよ、理由もありますよと宣言するテクニックが「とるてあ」の基本的な演出の間、溜めと解放のリズムです。

・比呂美の根


眞一郎くん、どこ…?
置いてかないで!


 これが彼女の「理由」にあたる、幼き日の回想シーン。終盤のバスケ試合シーン中「私…」に続いて流れます。回想時のBGM(SeLecT)がバスケの試合中から鳴り出す事、そして試合中の比呂美の「走り」と幼き日の比呂美の「走り」をカットとして繋げる事で、比呂美自身の感情の繋がりを強調しています。

 その直後、試合に映像が戻った時、比呂美は「私…何がしたいの」と頭の中で自問する。その映像順序によって「何がしたいの」の答えが直接的に「ここ」にあるということを演出できるんですよね。(更に言えば、回想の呼び水として高岡キャプテンの「比呂美、何やってるの!」を入れてくるのが技。高岡キャプテンのバスケのプレーに対する叱責を、近い言葉での自責へと繋げています)この回想を挟む位置がまさに西村コンテで…まず、比呂美の「違和」を全部出し切って、その後で答えをチラッと見せてくる。この映像が本編の序盤にあるだけで、この回をはじめて観る時の喉ごしの良さはまるで違ってくるはずなのに、敢えてそれをしない。余り大袈裟にではなくとも、物語を越えない程度に思考の刺激を与える為に、西村監督はこの、時系列から、あるいは感情の順序から、ほんの少し外れた順序で物語を組む事が多いです。

 このシーンによって比呂美の根には「置いていかないで」という、一種の「執着」があるという事が理解できると思います。「置いてかないで」をリフレイン(反響)させそこから試合シーンに引き戻す演出をする事によって、「置いてかないで」の支配力を強めている。この「置いてかないで」によって、1話と、更に2話冒頭で強調された「物語開始時点での比呂美」からのズレが生まれた、という「違和」への「納得」がここで与えられ、そしてその比呂美の変化のスイッチはどこだったか、と考える事で、遡って


 比呂美が放課後に乃絵の噂を告げる日の、朝から昼にかけて。この2つのシーンだった、という事がよくわかると思います。コンテはきっちり、比呂美の視点を押さえてある。乃絵と眞一郎が比呂美の目に見える所で接近しているのを観て生まれた行動だった、そしてそれは彼女の中にある「置いてかないで」が刺激されての事だ、というのが、極めて綺麗な一つの流れとして見えてくる。このあたり、台詞を追うだけでは届かない、映像作品としての味わいがあります。

 ただし、素直に「置いてかないで」に従うならば、そもそも1話の比呂美の反応自体がありえない話で、それならもっと積極的に眞一郎に近づいていけば良いのです。何故、それをしないのか?…その理由に繋がる部分はこの時点では提示されていません。ここが小出し演出のポイントで、比呂美の「2話の行動」には理由を全て提示しているものの、その2話に繋がる、開始時点=1話の比呂美については、まだカードは伏せられている。だからこそ視聴者は毎回、一つ一つのシーンを念入りに追っていくしかないんですね。いつ、次の開示があるかわからないのですから。

・「雷轟丸の墓」にみる、比呂美と乃絵の視点の違い

 そんな比呂美の揺れる行動の中の一つに、1話で非業の死を遂げた黒いニワトリ、雷轟丸の墓を巡るシーンがあります。ここを先ほどの流れに加えず独立させたのには理由があって、他の比呂美の行動がシンプルに「眞一郎の関心を引きたい」であったり「乃絵を追い落としたい」という一つの欲求からであるのに対して、このシーンの比呂美にはそれだけとは言えない複雑なものが感じられるからです。更に、比呂美と乃絵のそれぞれの個性や、2人の相性を追う上でも面白いシーンなので、単に「乃絵への嫌がらせ」では終わらせたくない部分です。

比呂美「この間、ここのニワトリがタヌキに襲われたって…」
乃絵「…」
比呂美「…このお墓って、ニワトリの…」
乃絵「雷轟丸。」
比呂美「…あ、でも、このお墓って、中にまだもう一羽…」

乃絵「じゃ。」


 この短い会話にも湯浅比呂美と石動乃絵の生来の相性の悪さ、或いはスタンスの違いが見えて興味深いものがあります。比呂美が2枚目のカットで「この間、ここのニワトリがタヌキに襲われたって」と口にした事に対し、それに対して乃絵を3枚目のカットで捉えながら、無言。「ええ」とすら言いません。この脚本・コンテが組み合わさると…敢えて映像として無言の乃絵を捉える事で、「そんなことは聞いてないわ(言いたい事はそんな事じゃないでしょう)」と言わんばかりの乃絵の感情が見えてくる。比呂美が変化球ピッチャーなら、乃絵は剛速球ピッチャー。第三者が行動だけを見れば乃絵も立派な変化球使いに見えますが、彼女は彼女自身のポリシー以外に全く興味のない、ド直球人間です。ここでも、比呂美自身が「言おうとして言っていない」(と、乃絵が判断した)前置きにまるで興味を示さない。それでいて自分が気になる「ニワトリ」呼ばわりには「雷轟丸」(ただのニワトリじゃないわ、雷轟丸よ、の意)の一言で一閃。言葉を繕う比呂美とコアだけを求める乃絵の噛み合わせの悪さは、既に初対面時に現れています。

 さて、この後比呂美は、乃絵がニワトリ小屋に打ち立てた雷轟丸のお墓を地面に移します。確かに、比呂美も「乃絵が大事にしていたであろう鳥」という事はわかっているはずなのに、乃絵に何の断わりもなく墓の場所を変える行為それ自体は、ある面で攻撃的な行いと捉えられうるものです。比呂美自身、乃絵が放課後会いにきた時も、その行為に潜みうる攻撃性を自覚していたからこそ、「勝手にやってまずかったかなと思ったんだけど」と口にした(まぁ、そう口にしながら「じゃあやらない」選択肢がないあたりが比呂美です)。だから、行為それ自体だけを取れば、確かにここも「眞一郎と乃絵の接近に焦った比呂美の行動」という流れに沿っています。ただしこの行動には、それだけには留まらない比呂美の内に向かう心情と、ある種の「正当性」が存在していて面白い。そこを描いているのが、ニワトリ小屋での乃絵との会話直後の親友・黒部朋与とのシーンです。

朋与「雷…」
比呂美「雷轟丸。」
朋与「…の墓…って、これニワトリ小屋まんまじゃんか…だって、まだ中にいるし」


 比呂美と朋与が口にした内容自体には大差ないものの、口にするのが誰か、という点で差が出る部分です。つまり、比呂美が乃絵に口にしただけなら、それこそ「乃絵の考えを否定したい」(と言うと強すぎるとは思いますが)、彼女の認識に物申したい、そんな比呂美の反発心といったような私情がどれほど関わっているか、判断がしきれない部分になってしまう。そこに朋与という「第三者」が素直な感想としてほぼ同じ内容を口にする事で、視聴者の認識としても「(この作品世界でも)小屋に墓を打ち付ける行為は、やっぱり私情無関係で、大多数の人間にとってはおかしい行為なんだ」という同意が取れるんですね。それに加えて、2枚目の比呂美の表情。朋与の表情に特別な意味を持たせていないだけに、この比呂美の表情は強い。朋与が前カットと同じで「なんだこれ」という表情を変えていない事によって、尚のことカメラの中心でもある比呂美の表情に情報が一本化され、目が釘付けになるという作りです。そこで仕上げに3枚目のカットが続く事で、比呂美の表情・視線は全て小屋の中のニワトリ=地べたに向けられている事が念押しされる。

 このシーンでの比呂美の表情を言葉にするなら「慈しみ」が最も適しているでしょうか。憐憫と言う言葉で表わそうにも、その口元にあるのは微笑。そしてその対象は「地べた」。ここで、比呂美の持つ感情に、乃絵と眞一郎に関係する嫉妬心とも、朋与が示してみせたような一般常識とも違う、彼女だけの心が見えてきます。それは乃絵に話しかけた、彼女の本音(乃絵に沈黙で返された後、そこからが彼女の「本題」と取れると思います)である「…あ、でも、このお墓って、中にまだもう一羽…」に現れています。

 ここは乃絵との対比として捉えたい部分で、乃絵は「亡くなった雷轟丸」への想いのみでもって、小屋に墓を打ち付けています。勿論朋与が言ったように一般常識から見ても「まだ生きているニワトリもいるのに、小屋ごと墓にして、網に打ち付けてしまう」のはおかしな事なのだけれど、乃絵がそんな常識で生きているわけもない。そもそも「雷轟丸」と「地べた」という両ニワトリの命名、そこから窺い知れる思い入れのギャップにも出ている事ですが、石動乃絵という少女は、自分の興味の及ばない所にはほとんど無関心な少女なんですね。乃絵としては本当に、心の底から雷轟丸の事しか考えていないわけです。何故小屋そのものを墓に?→雷轟丸が、小屋の中で(おそらく)亡くなったから。また、網に打ち付けているのは、雷轟丸が「飛ぶもの」だから、地面に触れさせたくなかったのかもしれません…こんな、言葉にすれば単純な感覚でもってのみ動いている。残った地べたに対しては、悪意の欠片すらないのでしょう。墓を打ち付ける際まったく認識していない、と言っていいかもしれません。それは、乃絵が「空を飛びたい」としていた黒いニワトリ、雷轟丸にこそ自分を投影もしていたし、思い入れを持っていたという事でもあります。

 では比呂美は?その答えは、比呂美の目にある。乃絵とは対照的に、比呂美はここで「地べたに自分を投影している」事が見えてきます。自分の環境に照らし合わせてみれば、ニワトリ小屋は仲上家を示し、雷轟丸は亡くなった両親を示している。そう捉えた場合、この閉じ込められたニワトリは、比呂美自身に立場が似ていた(と、比呂美は思った)。だからこそ彼女は、死んだ存在に支配されて、墓で住まわされる地べたを、墓を移す事で救った…つまり比呂美は乃絵とは正反対に、地べたの事(自分の事)を考えてこの墓移しを行ったという事です。勿論、比呂美と雷轟丸は作中顔を合わせてもいないので、それは責められるような事ではありませんし、何度も引き合いに出しますが、朋与が示してみせたように、その行為自体は「結果的に」一般常識にも合致するものだった。…敢えて「結果的に」と書きました。比呂美は乃絵とは違い、全く周りの事を考えず動くような少女でもないのですが、ここにある程度の「結果的に」は見ておきたいと思います。全く乃絵を意識しなかったわけではない。全く常識を考えなかったわけでもない。但し、彼女を直接的な行動に走らせたのは、亡くなった雷轟丸が不憫だからでも、乃絵の身勝手なルールに文句があったからでもない。それらは複合的な要素のうち一つに過ぎず、あくまでポイントは、地べたに自分を見たから。ここは押さえておきたい所です。

・比呂美への言葉にみる、石動乃絵

比呂美「あの…」
乃絵「お墓。あなたでしょ。」
比呂美「あ…うん。やっぱりお墓はちゃんと作ってあげた方がいいと思って。
 勝手にやっちゃって、まずかったかなって思ってたんだけど…」
乃絵「その通りよね。私が間違ってた。」
比呂美「あ、間違ってたとかそんな事じゃなくて…」
乃絵「あなたが私と友達になりたいって、仲上眞一郎が。」
比呂美「…そう…あの!」
乃絵「嘘でしょ。」
比呂美「…え」
乃絵「あなた、仲上眞一郎に嘘ついたでしょ。」
比呂美「…嘘って…どうして、そんな…」
乃絵「だって、あなた私の事好きじゃない。」
比呂美「あ…」
乃絵「大丈夫。私、怒ってないわ。」


 このシーンは石動乃絵という人物の確認シーンです。比呂美が迂遠な会話を行おうとした矢先からズバズバ切り込む、鋭いながらも多分に自己完結的な洞察力、と石動乃絵らしさに溢れたこの会話、主導権は完全に乃絵のもの。このシーンの会話と表情を照らし合わせながら、乃絵はどこまで気付いて・考えて言っているか?と念入りに読んでいくと彼女の人格、思考がよく見えてきます。
 
 つまり「嘘ついたでしょ」という発言を深く取ると、視聴者の持つ情報としては嘘をついた理由=眞一郎への執着というものを知っているだけに、乃絵も比呂美の眞一郎への感情に勘付いたのか?とも捉えたくなるのですが、それは続く乃絵のセリフ自体が否定しています。それなら「仲上眞一郎が気になるから私に近づきたかったんでしょ」…そこまで直接的でないにしろ、眞一郎という存在を意識しない発言は考えにくい。乃絵のセリフは「あなた私の事好きじゃない」。乃絵の場合は、比呂美と違って言葉の裏を意識する必要はほぼありません。言葉通り、眞一郎は関係なく、比呂美の乃絵に対する好感情の無さ、それ一点でもって「好きじゃないのに友達になりたいわけない」とシンプルな論法でもって嘘と看破してみせているわけです。そう断じさせたのは何か?それは勿論、雷轟丸の墓の移動。…但し、墓の移動それ自体は、やはりここで乃絵自体が正当性を認めています。ここも言うまでもない事ながら、乃絵は皮肉や何かでそんな事は言わない。心から「比呂美の方が正しかった」と思っている。でなければ、乃絵は墓をまた元に戻すだけの事でしょう。

 では、何をもって比呂美の正しさを認め、何をもって比呂美が自分の事を好きではない、と考えたのか。普段自分の行動を貫いている事からわかる通り、ただ一般常識にそちらがより近いから、という理由で「私が間違ってた(あなたが正しい)」という判定をする少女ではないわけです。眞一郎は比呂美によって移しかえられた後の墓を見て、乃絵がそれを最初から行ったと思い「お前もちゃんと、人並みの事するんだ」と言うのですが、しかしそう言われて「ああ、これが人並みなんだ」と気付いた…とは考えにくい。やっぱり眞一郎がそう言った時、乃絵は無言、視線や意識を彼に向ける事もなく、小屋を真っ直ぐ見ているからです。眞一郎がどう言ったかではなく、地面に立てられた墓と、小屋の中の地べたをじっと見て自分で考えている。

 つまり乃絵の「私間違ってた」は、常識云々よりも比呂美の真意そのものを指しての発言であると考えた方が自然でしょう。地べたもいるものね、と気づかされた…とでも言った所でしょうか。その事自体は確かに気付いてみれば正しいし、認める。もちろん眞一郎の反応にもある通り、常識という見地からも正しいようだ。けれど、何も言わないで移し変えるその行い自体には、自分への好意が感じられない。…そういう乃絵の思考が見えてきます。加えて、行動だけでなく初対面時の会話、あの時の比呂美をじっくり見つめて、その時の比呂美の言葉や視線の遠慮具合でもって判断した可能性もあるでしょう。比呂美は意識していないでしょうが、会話中に後ろを振り向くのは視点としては「逃げ」ですしね。

 但し、比呂美が自分の事が好きではないからといって、乃絵は不快でもなんでもない。ポイントとしては3枚目の表情に支えられた「怒ってないわ」。乃絵はウソの表情を作るような子でも、思っていないような事を言う子でもない、という人格描写に従って考えれば、乃絵の表情は本物以外ありえない=晴れやかな表情でもって、嫌味でもなんでもなく、本当に怒っていないという事になります。そして、それは何故か?寛容だから?…多分、違います、ここも先ほどの「雷轟丸の墓」を照らし合わせてみれば良いと思います。墓を打ち立てた時、地べたの事などまるで考えていない…そう、「無関心」です。

 この時点で、石動乃絵にとって湯浅比呂美は関心の対象たりえていない。でなければ、「仲上眞一郎に嘘をついてまで、好きでもない自分と友達になりたい」という比呂美の行動自体、不思議の塊です。ただし視聴者がたどり着けたように、比呂美の心情を理解していれば、それは不思議ではなくなるので…だからこそ視聴者としては、乃絵も勘付いているのではないか?と思いたくなる所なのですが、それは乃絵という少女を実像よりも大きく捉えてしまっているように思います。乃絵は、比呂美の感情など知らない。知らないままでは、比呂美の行動は謎に満ち満ちているのに、乃絵は理由を求めるでもなくただ「大丈夫。私怒ってない」。謎を謎と意識しない…つまり、興味がないのです。比呂美自身が自らを照らし合わせた通り、乃絵にとっても比呂美は地べたのようなもの。嘘をつこうが、知った事ではない。それぞれが地べたに見ているものはまるで違うものの、ここでの地べた=比呂美の認識の一致は面白い所です。


 この作品は、シナリオなどで極端な対比や反復を明示はしてこないものの(例えば「コードギアス」のように)、映像としての佇まい、会話の余白といったところを丹念に読み解く事で、控えめな、あまりシステマティックに見えない、潜在的な対比や反復が数多く観られます。そのあたりも、本作を味わう上では意識したい所ですね。
  • 石動乃絵と仲上眞一郎 投稿者:ルイ <2008/11/23 06:18>