#364 古新聞 投稿者:Yam [2011/10/06 20:36]
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某あさりよしとおファンです。 先日この作品読みました。 主観ですが、あさりさんは神の存在を否定していませんか? それゆえ、宗教戦争や各宗教の主祖を馬鹿にしている点が多々見受けられます。 作品自体は”るくは”が初期に宣言したように、”人間を救うこと””地獄がいっぱい”に尽きるような気がします。 ここから謎の推測: ”るくは”は死にかけて天に召す寸前の”六文”(三途の川の渡し賃)の意識内に仮想世界を作り出します。”六文”の父親として惨殺されていたのは彼自信が犯した罪ですが、天に召される前に神?の力で浄化されています。それゆえ、作中の”六文”は大きな欲もなく、目立たないキャラクターとして生きていきます。浄化された人の存在が”るくは”の実験には必要な存在でした。 ”るくは”は作り出した世界の中で、使役の悪魔と共に人間の世界を少しでも罪のない世界にするよう活動しますが、”悪魔の行いはしょせんエントロピーが増大する方向にしか働かない”の言葉にあるように、人の社会を変える事ができない事がわかり活動を中止します。 一方、浄化された”六文”と禁欲?の生活を送る”るくは”ですが、人は成長と共に色欲や物欲、満たされた生活への慣れが人の性ともいうべき罪を背負う事を避ける事ができません。これが、”タン”のいう人を変える事はできない。”るくは”が思い出となる写真にこだわる意味。”潮時”というセリフや”綻び”と共に同級生達が悩みを抱えていく過程に通じます。 作品を通じて出る宗教に関しては、”宗教はいい加減な物、各宗教の掲げる神も教えもいいかげんな物””宗教が原因(自己の信じる神の押しつけ)で過去幾度となく無為な戦争が起きている”というのは魔耶峰雄_アスタロトでも主張されていた内容で同じ理屈ではないでしょうか。 天使達の不可解な行動は、自己の神を信じるあまり何をしても許されるという理屈は人が宗教を信じるのと何も変わらない。 ”ヨフィエル”は天界に行って神の不在を確認した。これは、自己の存在理由/行動理由がなくなるのと同義。或いは、現在自分の存在するこの世界が”るくは”の作りだした仮想世界に過ぎない事に気づいてしまった。 ”ミカエル”の最後の行動は、自分自身で世界を作り出す禁忌(神以外が神になる事)を許せない、信じなくないが故に、世界の存在の要である”六文”を殺害しようとしたこと。しかし、”ヨフィエル”は是としなかった。 ”るくは”は実験の潮時を迎え、意識を本来の”六文”の世界に返します。 ”借りたもの”は”六文”の意識もしくは魂 ”作られたもの”この世界と”六文”自身(キャラクター)それゆえ、本来の世界の”六文”は作中と性格が違ってドライ。 作中で出てくる”六文”の思い出は、おそらく前世の記憶ではないでしょうか。 ”生きて、死んで、また生きて”デジャブ?と言っているのが意味深。 ”るくは”は”六文”の意識から離れて、理想とする罪深くない人間社会を作る為に新たな世界を生み出す為に旅立ちます。→地獄の受け入れを少なくする為。 最後に、”天使も悪魔も人の意識の作りだした存在でそもそも神はいない”のか”実在の世界に神は存在するが、るくは自身が新しい世界を作りだそうとしているのか”(個人的には前者だと思います)詳細な想いはあさりよしとお先生の意識の中、もしくは読者が個人で考えろというメッセージがあるような気がします。 非常に感慨深い作品でした。 |
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