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■[アニメ諸評][夏のあらし!] ルイ >> ★★★:(前13話)戦争中に何故か時をかける能力を得てしまった幽霊が、しかしそのタイムスリップによって個人的感情から行う歴史改変行為も大きな「歴史」に組み込まれていることから、どんな不幸から始まった出来事にも意味があり必然があるという・・・存在を肯定してもらう物語(世界を作ってきた戦争や悲劇全てに通じる価値観とも)。でもって、文字通り少年にとってのひと夏の、「青春の幻影」になるんだねって物語ですかね。主人公のはじめ以前に小夜子と「通じ」た少年が毎年のようにいたのなら、それこそメーテルですが・・・もうちょっとはじめちゃんの特別さを強調しているのが違いかな?とはいえ、そういった意図を持ってOPアバンを「夏が来れば思い出す」にしているのは明白で。・・・でも、なんかこの作品、「今」「未来」「過去」の扱いがザックリしすぎてませんか?僕はずーっと「作品世界は1980年前後で、大人になってからその時代を振り返るナレーションが今(21世紀)で、小夜子たちの時代が1940年台」だと思ってました。勿論小夜子たちの時代はそれで正解なんですが、『60年前』という単語が出たことから作品の「今」が2000年代である事は確定。・・・・じゃあ喫茶「方舟」に流れている80年前後の歌謡曲シバリは何なんだ、と思いませんか?あの歌謡曲のほとんどのオリジナル音源を持っている音オタだから思う事なのかもしれないですけど・・・「懐かしさのガジェット」として使うのは安易安直すぎません?だって、小夜子たちの懐かしさは「昭和20年代の懐かしさ」であって、歌謡曲がかもし出すムードはどこまでいっても「昭和50年の懐かしさ」でしかない。しかしこれをざっくりと「昭和」として括ってしまい、「昭和の懐かしさ」の喚起ツールにしてしまう事に、個人的には暴力的なものを感じます。その間30年だよ?大正なら終わってるよ?っていうね・・・。それは単に制作陣の主要世代にとっての「懐かしさ」でしかないんじゃないかと思うのですが、どうなんでしょう。最初に書いた通り、作品世界の現在が昭和50年前後っていうなら、演出としても通りが良かったと思うんですけどね。数年前に音楽界で小さく起こった「昭和歌謡」ブームで、メディアの一部がその真意をまるで理解せず、今懐古がカコイイ的な「トレンド」としてそれらを扱い、消費していった事を思い出しました(昭和歌謡ブームを忘れていた人がいるなら、その事自体が証拠です)。シャフトの鋭角的な演出は、そういった極端なガジェットによって支えられているんでしょうけど・・・「青春」「時間」を扱うのにそれはちょっと、作品の器を狭めた選択だと僕は思いましたね。レコードのジャケットあさって引用してる時は楽しかったでしょうけど。コンテも含め全体そういったいつもの小細工に支配されて、ナレーションが示すような「夏」そのもの・・・例えば入道雲やセミを利用した、日本人に訴えかける青春の演出ですね・・・それ自体への意識が甘くなってしまったのは残念です。こんな作品こそ、愚直に「日本の夏」を描く事に集中すればよかったんじゃないかと思います。・・・・・その点で、シャフト畑ではない中沢勇一さんが何故かコンテを切っている回があって、それはシャフト好きからすればおとなしくて物足りない回なのだろうけど、僕はその回が一番好きです(笑)。  <2009/07/20 18:50> [返] [削]


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