# おたく語会話(3)…“速度論” 投稿者:LD
[2002/04/16_01:19]
「漫研」ではよく“速度”という言葉を使って作品の批評をします。一言で言うと、長い長いストーリーの1回分、どこまで話をするか?という問題なんですが。
1回分に多くの展開を積めこめば、当然、結末にたどり着く回数は少なくなります。この事を“速度が出ている”と言います。速く終わるからね(笑)逆に、1回分の情報が少なければ結末にたどり着く回数は多くなります。この事を“速度が足りない”と言います。いつまでも続くからね(笑)
単純にはそういう話なんですが、この事を週刊連載作品の進み方を元に、もう少し細かく割ってみます。まず、1回分は1週間…7日間のローテーションです。1回分を読んで、次の一回を読むのに7日分待たされるという事です。これは、けっこう重要な事です。待たされると言えば、待たされるんですが……上手いコト“ヒキ”を与えられると、想像するんですね。次の展開を(笑)
これ、週刊連載の醍醐味だと思います。
作品から上手い刺激を受けて、7日間待たされるのは、苦じゃないというか、逆にすごく楽しい事です。ず〜〜〜〜っと次の展開のいろんな可能性を想像し続けているんですから。
で、先週与えられた宿題の答え合わせのように次の回を見てしまうワケです(笑)かように“ヒキ”というのは重要で、それこそ「1回で終わらない事」「7日間待たされる事」に意味を与えるファクターと言えると思います。
多くの展開を盛り込んでストーリーの“速度”を速める事と、次への期待を与える“ヒキ”は一見関係無さそうですが、“ヒキ”というのは結局、キチッと“展開”が行われている事が前提となりますし(何も起きていない状態で、さて次どうなるのか?というのでは漠然としすぎてヒキになっていない)、逆に速い“展開”が行われていれば、突然、ブツッと切れるだけでも充分“ヒキ”の役目を果たすといえます。
…ちょっといきなり話がずれてしまいましたが(汗)まあとにかく1回分7日間のローテーションです。そして用意されるページ数は18ページ前後…でしょうか?実際には、この中にどれだけの“展開”と“情報”入れられるかで、1回分の読み応えが決ってきます。“密度”といってもいいのですけどね。重要な情報、インパクトのある情報であれば1発打つだけで充分な“密度”であり、なおかつ効果的な場合もあります。
“密度”は新規読者を引き入れるという意味も持ちます。長いストーリーを、いくつかの話に割って掲載するのが連載の構造ですが、細かく割り過ぎて1回分の情報が断片的になればなるほど、読者は、その1回分に意味を見出せなくなります。
目を止め、ページを止めるという事では“見せゴマ”が重要なファクターになってきますが、目を止めた読者を引き入れるかどうかは、やはり“密度”の重要性が高いでしょう。それは、その1回で前後のストーリーを想像で補完させるという意味でも、全体を感じさせるだけの“展開”、つまり“速度”が必要という事になります。
(↑ここ、ちょっと後で戻る)
連載1回分というのは大体、こういう構造をもつのですが、これが本当に“最初っから最後まで完璧に決められたストーリー”なら、1回は“速度”という事に関して、それ程の意味は持ちません。完璧に構築されたプロットを、トップダウンに割って行くだけなら1回は途中経過の1回に過ぎず、その中でどれだけの情報を盛り込み“展開”するかは“設計”と“調節”を意味します。
しかし、多くのマンガ雑誌の購読者が感じているように、実際はそんな完璧な仕事をしているマンガ家は多くありませんよね(笑)
大抵の作家さんは、おぼろげにプロットを思い浮かべながらも、突発的なサイドキャラクターの人気や、その時の体力、精神状態、時事、編集の都合など、様々な影響を受けてストーリーを構築して行きます。当然、最初にイメージしていた作品とはまるで別物になってしまうのでしょうね。
これ、週刊連載の醍醐味だと思います。
本当に完璧なストーリーなら、書き下ろしでポンッと出版すればいい。しかし、週刊連載である以上、ストーリーが既に完成していても、後から「こっちの方が面白くなるかも」という考えは浮かぶでしょうし、そう判断するなら当然、そちらへ軌道修正するべきです。
1回分7日間のローテーションは、単に作画の作業期間という意味だけでなく、軌道修正をかける猶予期間であると思います。作品をそういうライブ感覚の生き物へと変える意味も持つのです。成立の起源はどうあれ、結果として“作品の制作過程”を観客に見せて評価を受けるというのは、けっこうものすごい状況だと思います。
「はじめは猫の絵を描いていると思っていたのに、出来上がってみたら何で猿の絵になっちゃうの?え〜?なんで〜?!」
という面白さをナマで味わっているんですね(笑)
敢えて言っちゃいますが、始めっから製図されたストーリーってのは最大で作者の100%の面白さです。上手くいけばいいですが、よほどの職人でもおそらくは想定した80〜90%の面白さが限界でしょう。(天才様だと100%の位置がものすご〜く上の位置にあるのですけどね)
推敲する時間が長ければいいというのもでもなく、迷いが迷いを生んで結局モチベーションそのものを下げたりしますし、映画や、1〜13話くらいで決着を着けるTVシリーズなら、緻密な設計もできるでしょうが、2〜3年の長期に渡ってストーリーを編むマンガ連載では、どんどんその精度は落ちて行く事でしょう。
だからもう“速度”に作品を委ねてしまう。そこには作者の200%から300%の面白さの世界が広がっているハズ…というか、僕らはもう散々そういう現象は目撃してきたじゃないですか!
それが、猿の絵にならざるを得なくして、猿の絵になったのなら、間違いなく“最高の猿の絵”なんです!たとえ題名が「猫の絵」でも!
「猿やんけ!これ、どー見ても猿の絵やんけ!」と思いっきりツッコんであげましょう!素晴らしい猿の絵なんだから恥ずかしい事は全然ない!(あ、これ、必ず違う絵にならなければならないという話ではないです。キチッと“速度”を出して、どうにかこうにか猫の絵を描き上げたのなら、やっぱり喝采を送るものです)
…そういう思想から“速度論”は出発しています。大コケして20%とか、10%とか、パーセンテージで表せないよーな支離滅裂ものになってしまう場合もありますが、それもまた面白し!(断言)みんな、完成した作品ではなくって“作品の制作過程”に金を出してるんですもん。現実そうなんですから。
先に(↑)“密度”と“速度”という二つの言葉を交互に出しましたが、“速度”というのは結局、“密度”を上げるための、一つの方法と言えます。ただ、“密度”というのはページとしての“密度”、作品としての“密度”という、作品としての完成度に発展して行きますが、“速度”の方はあくまで時間との関連性の話へと発展して行きます。
たとえば、一度単行本になってしまい、完成された作品となれば、そこに“速度”は存在しません。1回1回がどういう“速度”だったか逆算的に検証する事はありますけどね。
そこいら辺については…後半につづきます。その2へ→
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