#178 漫画力と曽田正人 投稿者:いずみの <2007/01/14 17:56>
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ちなみに「漫画力」というターム自体は、島本和彦が自分の同人誌で言い出したモノで、「BSマンガ夜話」でも良く使われています。 「スケール」もマンガ夜話で頻出する言葉なので、これらが「通じなかった」のは意外といえば意外でした(笑)。 どちらも柔軟に意味が変わる言葉ではありますが、大体において「漫画力のスケールがデカい」と言えば「難しいことを描ききる力がある」くらいのニュアンスで構わないと思います。 例えば、竹熊健太郎は『ガラスの仮面』をちょっと読んだ瞬間に、「この作者はなんて難しいことをやろうとしてるんだ、と思って鳥肌が立った」「人間業ではない」と思ったそうですが、これが要するに「漫画力」のハナシだと思います。 「画力」と同じことで、難しい絵が描ける絵描きがいい絵描きか? というと全く別問題なのですが、どう見ても画力が高いとしか言いようがない絵ってのはあります。「ラクガキみたいなのに感動できる絵」を描く力だって「画力」の内でしょう。 (そういえば仲間内では「漫画力の無駄使い」という言い方を時々しますね。漫画力が高いからといって面白くなるわけでもないわけです。) ■ 曽田作品に話を戻しますね。 『昴』は「パーソナルの核から遠い」から描くのが難しい、というのはあると思いますが、一側面であってそれだけではないと思います。 それを言うなら、昴はまず「異性」ですし、曽田先生にとって「他者」として描いている様子も色濃いですから、男の主人公達と違って、手探りが難しいのは当然だと思います。 (「自分は天才じゃない」と公言する曽田先生ですから、男の主人公でも「他者」に近いのでしょうが、男同士ということで昴に比べれば格段に共感しやすい「自分の分身」なのは確かでしょう。) でもそれは、女形の役者や宝塚のスターを演じてる人に向かって「その演技はあなたの核から遠いよ」と言うようなものであって、筋違いなんじゃないかなと。彼らはそれこそ、何から何まで承知の上で「自分に合った仕事」「自分にしかできない仕事」をしているわけですから。 で、「女形は演技力のスケールが大きい」なんて言い方はしませんから、「核からの遠さ」はあまり問題にならない、という見方をします。 問題なのは、感覚的なことなので言葉にしにくいですが(そもそも「言葉にしにくい漫画家の技量の凄さ」を表す言葉が「漫画力」なので)、やはり「未到達の世界」「手掴みできない世界」を描こうとしている、という点が挙げられると思います。 (このベクトルの「難しさ」を、「核が遠い」という理由の「難しさ」のベクトルと混同されると議論が進まない、と思います。) だからLDさんの言う「当初、イメージしていたものはあったのだろうけど、それとは微妙に違ったものになってしまった」という見方(=潜在情報)とは、食い違うんですね。 「最初からすんなり描けるつもりで描いていた」とは、とても感じられないわけです(これには同意してもらえると思います)。「(完成を)イメージしたもの」はあったとしても、そこに至るまでに様々な障害が待ち受けていることは(読者の目にも)明確であって、決して「途中から描けなくなった」わけではないと思います。そういう逃げ腰には見えないんですね。 (あと、ロビーが読者の代弁者であるというなら解るのですが、作者という潜在情報は全く感じ取れませんでした。顕在情報だと「昴を見切りを付けられたシステロン」の象徴であって、潜在情報では「我らが昴ちゃんと一緒に居たくて仕方ない読者」の代弁者って所です。作者はどう見ても「システロンを捨てて先に進ませたがって」いると思います。ロビーの誘いに現実味が無いのは、「システロンに居たまま昴が成長する」ことに現実感が無い、というだけのことでしょう。) 未到達の世界を描こうとしている以上、その手の困難、先が明確にイメージできなくなったり、場合によっては休載、といった「立ち止まり」は重々承知の上で連載を始めていたと思います(そのくらいの気迫が、連載時の『昴』にはあります)。 (余談ですが、休載が告知され、カペタが始まった時のぼくの感想は「曽田先生、完璧主義だなぁ」でした。個人的には、『昴』は「今の漫画力のままでも描こうと思えば描ける」と感じていたので、「わざわざ練習する」必要を感じなかったのです。結果論としては「やっぱりカペタを挟んで良かった」という結論になるのだと思いますが。) 更に、週刊だった昴と違ってカペタは月刊連載なので、そういう諸々を合わせて「漫画力的にスケールが小さい」と表現しています。また、これは「手を抜く」とイコールじゃないのがミソです。 失敗率の低い料理(卵焼きとか)であろうが、完成させること自体が難しい料理だろうが、全力で作ることはできるわけですしね。 ■ 最後に実例を挙げると、『うしおととら』クライマックス時の藤田和日郎に勝る漫画力の持ち主はそうは居ないでしょう。 でもぼくは、うしとらよりもスケールの小さい『あやかし堂のホウライ』の方が好きだったりするわけです。漫画力ではなく、作者のセンスが好き、ということですね。 だから結論を言えば、『昴』も「スケールがデカイから好き」なのではなく、その作風とセンスが好きなのだと言えます。 ただ、「描ききれるかどうか」という話をするならスケールの問題は切り離せませんし、そのスケールの問題を、「作者のパーソナルやイメージの問題」などにすり替えて語られてしまうと、それはメインではなくサブの問題だから、と思います。 そういう所に、潜在思考の違いを感じました。 |
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