#282 {作品チェック} P.A.WORKSの青春 投稿者:ルイ Hp [2008/12/02 02:38]
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今回は、一度制作会社「P.A.WORKS」(以後PA)の仕事について触れておこうと思います。この作品の作画演出レベルは相当高い所で安定しており、3話だけが特段優れた出来を誇っている、ということはありません。ただ、高校での描写が多いこの回でもって、PAの目指したものが…特に作画演出面で目指したものが、よりハッキリと見えてきます。それがよく現れているのが、いわゆる背景キャラ、モブの描き様です。 まず本作の視点を支える俯瞰カット。このような遠景では、モブシーンはCGで描かれています。CGと言っても一概に楽な仕事とも言えないし、また楽になるような取り組み方もしていない。上のようなシーンでも静止画ではなく全ての生徒がそれぞれの「動き」を行っていて、走っている生徒も、喋りながら歩いている生徒も、黙々と歩いている生徒も、自転車に乗っている生徒もいる。各々のパターンを数多く作っていく、それはそれで大変な仕事です。こういった小さな部分を積み重ねていくことで、学校という場に血肉が通っていくんですよね。そうすることで、やはり背景や俯瞰に通じる、物語への距離を持った眼差しが浮かび上がってくる。…の、ですが。CGだけに頼ってしまうと、どうしても手描きに親しんだ人は、そこに温かみというものを感じきれない事がある。そこは一長一短で、上画面のような豆粒サイズだと、全ての存在が等価に生命を主張するCGの強みが出る。けれどそれが顔の表情も見えるような距離になってくると、途端にCGの冷たさが先に出てきてしまう。手書きのモブならそのあたりは回避できるけれど、それだと逆に学校という場の大多数の生徒を描くのは大変に辛く、非効率的…そこでPAは、どちらか寄りで妥協するのではなく「手描きモブもCGモブも精一杯取り組む」という力技に出ました。 3つのシーンを選びましたが、全編に渡りこのモブ頑張りは継続されています。沢山の人がワラワラ動くCGモブに甘えるわけでもなく、手描きのモブも動く動く。一枚目の画面最寄の女の子は自転車通学らしく(丁度通り過ぎざまに、タイヤの音が小さく聞こえる)、このままサッと通り過ぎていきます。携帯を見ている子も、友達と喋りあっている男子生徒もいる。2枚目はロッカーを開けた眞一郎を映すカットですが、そんな中でも走って通り過ぎる生徒がいたり、右側にいる女生徒は靴を脱ぐ動きまでキッチリ描き込まれている。バスケットの試合も、引き気味の撮り方で「バスケットボールらしさ」を描くことがどれほど大変かは、例えばアニメ「スラムダンク」などを思い出してみればわかるのではないでしょうか。ほとんど、足元のカットでドリブルを表現し、局地戦の一対一バトルに特化する事で「全体としてのバスケの試合」は避けていましたよね。勿論毎週描かなくてはいけないバスケアニメと、時たま現れるバスケシーンを単純比較するのはフェアではありませんが…とりあえず、手を抜こうとするカットは何一つないし、作画もそれに応え続けている。 この体育館のシーンで言えば、乃絵をおぶった眞一郎が体育館に入ってきた時、バスケの試合を見るために二階部分に陣取った生徒たちがいち早くそれに気づき、眞一郎と乃絵の方を覗き込んでいる(左上)。…誰がそこまで見るんでしょう(笑)。本当に、とことん細部にまで力を抜かない作品です。それはもう「元請一作目にしては」という前句を伴う必要もなく、現代のTVシリーズではなかなか見られないレベルの仕事で…この点については、PAワークスの社長堀川さんと総作画監督の関口可奈味さんがインタビューで面白い事を語っています。まず関口さんが語るのは、作画のプロとして非常に真っ当な事。 「流してやるというような所は一切なくて、1カット1カットをすごく真面目に取り組んで、逆にやり過ぎというか、要らないものが多いくらいでした。そういうところって、ある意味、最近の作画さんには珍しくて、貴重な存在だと思います。あのまま経験値を積んでいけば、すごい制作集団に成長すると思います。ただ、流しでやるのは問題ですけど、数と技も身につけないといけないでしょう。」 「(12話で)本当に手抜きなしで動かすものですから、踊りの陰に隠れて見えなくなるキャラクターまでも動かしたりしていました。見える部分だけ動かせばいいという計算が、まだできていないんですね。そういう手抜きの無さというか、不器用なところがよいところであり、逆に、これから精進していかなければならない所でもあると思います」(総作画監督・関口可奈味) まさにプロダクションIGからフリーアニメーターとなり、攻殻機動隊や鋼の錬金術士など海千山千を生き抜いてきた方ならでは。相手を称えながらも非常に的確な指摘だと思います。彼女の指摘はフィルムから感じられる印象そのままと言っていい。…つまり、不器用な熱意は素晴らしいし、貴重な事だけど、やり過ぎもあるし、それでは数をこなしていけないぞ、と。これは現代アニメーターがまず数をこなしてナンボ、という事実を踏まえても非常に正しい指摘だと思います。PAの作画陣は、この関口さんが指摘された方向に成長していくことでしょう。…ただ。この作品にとっては、その過渡期であった事は決してマイナスでもないんですね。次にPA社長、堀川氏の発言から。 「CGスタッフもアニメーターも、モブ表現にとどまらず、スタッフひとりひとりがやっていることはたとえ目立たないパートだったとしても、自分に与えられたシーンを、監督の意図を理解して誠実にやってくれる集団を作り上げたいと思っています。全員が女の子の入浴シーンなら描く、格闘シーンなら描く、というアニメーターばかりだと、作画の力配分がいびつな作品になっちゃうでしょう?」(P.A.WORKS社長・堀川憲司) 過去の自分を省みても、アニメーションを観ていても作画にまで思いが至らない人が非常に多い。次に作画に注目したらしたで、今度は目立つパートにばかり目がいってしまう。それは現場のプロも同様の事らしく、堀川氏が仰ったような入浴や格闘をはじめとする「面白いパート」を渡り歩いていくようなアニメーターさんは何人もいますし、僕らとしても名前を覚える人というのはそういう人なんですね。…でも、堀川氏はそれを目指さない、という事を元請一作目にして高らかに宣言しているし、作画もその方向に全力で取り組んでいる。その姿勢がフィルムから、社長の発言を待つまでもなく溢れ出ています。 確かにそれは、プロ中のプロから見れば「不器用」なものですし、今後に色々な課題を控えた、過渡期の状態であるかもしれません。でも、この作品にはその不器用さこそが相応しかった。志を高く掲げ、その方向へは迷いなく邁進するものの、技巧が足りずに無駄が多い…そのもの本作と同じ「青春」じゃないですか。関口さんが言うように、PAの作画は「成長」していく必要があるでしょう。その成長がどんな風に結びついていくかは、今後元請2作目3作目、と追っていかないとわからない面がある。…けれど、今回はこれで良かった。いや言い方を変えるなら「これだからこそ良かった」。我々視聴者にとっても、そして送り手であるスタッフにとっても。true tearsがPA第一作だったという事実は、非常に幸運だったのだと思います。制作会社というプロの仕事に対してこんな言い方をするのは失礼かもしれないのですが…やはりここには彼らの初志が詰まっていると思えるから、僕は「とるてあは、PAの青春」と呼びたくなってしまう。今後も、全ての地味なカットにまで目を凝らしてあげてください。PAが目指す三つ子の魂は、この作品に全て込められています。 眞一郎の近くの少女は手描き、坂の下を歩く生徒たちはCGというモブ融合シーン。こここそが今回「PAの仕事を象徴する一枚」だと思います。なんでもないカットです。誰の顔も映っていないようなカット。でも…このカットを見るたびに、PAの仕事に感謝を捧げたくなるのです。 ・オマケ〜クラスメイト達〜 ※予め断っておきますが、これは「とるてあ」を愉しむ上でのメインではなく、あくまでオマケ、脇の楽しみ方です。 眞一郎が突っ込んできて、三代吉が驚くカット。こんなカットでも後ろにいる女生徒にまでしっかりとした「何か来ると思ってビックリしたらそのまま突っ込んできたので、慌てて立ち上がった」という動きが与えられています。手描きのモブもCGに負けずよく動く、というのは先ほど書いた通り。…しかし、実はここでの画像の少女は、作品に何度も登場してきます。正確には「モブ」とはちょっと違うんですね。 3話のさまざまなシーンから。髪の色が違ってみえるのは光の加減によるもので、同じ、窓際の一番後ろに座っている女生徒です。ちょっと神経質な、委員長気質の女の子なのでしょうか。眞一郎や三代吉が騒いでる時の「げっ」といった表情や、掃除の時率先して眞一郎に落ちている「赤い実」についての不満を言うあたり、彼女の性格が見えてくるようです。そういった脇の生徒の演出を意図的に積み上げていった場合、それは漫画「スクールランブル」にも似た「脇にいるキャラクター達も注目させよう」という意図が出てくるのですが、本作の場合はそれはずっと控えめ、物語としての分を弁えたものです。あくまで、彼女たちのキャラクターを立てるような事はない。だから、気にならないなら全く気にならないまま観終えてしまう部分です。…でも、モブを気にして観ていたら、気になっちゃったぞと(笑)。 実は「とるてあ」には、クラスメイトに4人名前を持つキャラクターがいて、クラスメイト以外にも「スペシャルモブ」といいますか、多少特徴をもった女生徒が5人います。僕はそれを「女生徒ABCDE子」と呼んでいます…気付かれたでしょうか?或いはその正確な人数は把握していなくとも、物語を観ていくうちに、その生徒の顔に見覚えがある、と感じる事があるかもしれません。彼女達を追っていくと、物語がより深く…なることはありません(笑)。繰り返しますが、「とるてあ」は「スクールランブル」ではない。物語を動かす主要人物たちをキッチリと定めてあり、それ以外に遊びの芽を残そうとしない、真面目な物語です。…でも、そんな彼女たちを意識して見つめる事で、「とるてあ」の世界観がより明確に感じられるという面はあると思います。名や特徴のある彼女たちが物語にまるで絡まず、しかし日々を過ごしていく様を垣間見る事で、やはり主要人物たちに限らず、学校という場で人は生きている、という実感が沸いて来る。 学校と言うと狭い範囲に思えますが、一つの場をそうやってしっかりと描くというのは、世界を描くにも似た行為だと思います。この麦端高校が「そうであるように」、富山も、日本も、世界も、そうやって人々がそれぞれの人生とそれぞれの物語を生きているのでしょう。単純に世界スケールの物語を語る事、それだけが「世界」なのか。そうは思わない。一歩間違うとセカイ系論者のようですが…それも込みで、やはり足場をキッチリ固める事には、大きな意味があると思うのです。…まあ、それはそれとして、上の強気そうな少女は「あさみ」ちゃんと言います。声優さんが下田麻美さん(アイドルマスターの「とかちつくちて」の人)なので、安直につけた名前かもしれませんけどね。折角なので、他のクラスメイトも軽く紹介しておきましょう。 比呂美の後ろの席にいる、読書好きで小さめな、後ろに2つに束ねた髪が可愛い女の子は「真由」ちゃん。繰り返しますけど、覚えても意味ないです(笑)。 実は!彼女、1話で朋与と一緒に比呂美を心配しています。走る時少し遅れ気味なのも彼女です。運動が苦手なのでしょうか…繰り返しますけど覚えても(略)。また、真由ちゃんのとなりで走っているちょっと今風の少女が「美紀子」ちゃん。あとは 眞一郎が登校してくるまで、眞一郎の席で三代吉と仲良さそうに話していたショート且つアシメな少年が「新川」くん。結構さわやかで格好いいですね〜。…覚えても(略)。まあホントーにオマケな部分ではあるんですが、そんな名のあるクラスメイト達を覚えておく事もまた、一つの愉しさではあります。 最後のトドメ、オマケオブオマケ。左から、デコ出しB子とA子、ロングで真ん中に髪ハラリのC子とそろえた前髪と赤縁メガネのD子、最後に髪を後ろに編んであるE子(笑)。彼女達が他クラスの生徒を代表する、レギュラーモブというのは本当の事だったりします。だから何だと言われたら、やっぱり何もないんですけど…まあ、PAの作り込みはそんな所まで到達しちゃってるんですよ、と。とりあえず酒の席で「true tears、誰が好き?」「やっぱ乃絵だろ」「わかってないな、比呂美だよ」「愛ちゃんカワイソス」…などという話題が行き交う中、「俺は真由ちゃんが好きだな」などと言い出せば、とるてあ通っぷりがアピールできるかもしれません。…まず間違いなくただのニッチ気分なヘンタイとして処理される、何のメリットもないトライですけどね。でも、僕はメインキャラはメインキャラなりに、脇のキャラは脇のキャラなりに…あくまでその位置を混同しない上で、全員大好きです。 ※EDにはあさみ、美紀子、新川、B子、C子、D子が登場。なお最終回後更新された公式サイトのトップページhttp://www.truetears.jp/には、EDに出さなかったお詫びとばかりに名のある最後の生徒、真由も登場) 補足〜名前に見る、truetearsの送り手としての姿勢〜 あさみ達に触れる事になったので、ついでに書き残しておきましょう。truetearsには「名前という順位付け」が存在します。正確には「フルネーム」「名字(名前)のみ」「名無し」の三段階がある、という事です。石動乃絵や仲上眞一郎といった主要人物は当然フルネーム、今回紹介したような生徒達や、眞一郎と共に踊るメンバー達は名字或いは名前のみが付けられています(女性は名前、男性は名字)。それらにも当てはまらない人物達は、名字も名前も存在しない。…こう言っただけだと、それはどんな物語でも不思議な事ではないように思えます。主要キャラには詳細な情報、そうでないキャラには少しだけの情報、それにも当てはまらないなら「○○A」といった扱い。それのどこがおかしいのか。…それらとの大きな違いは「眞一郎の父」「眞一郎の母」。 この両親、岡田磨里さんの初稿時点では名前が存在しています。眞一郎の父の名前は「宗弘」。母の名前は「しをり」。比呂美の両親にも「篤」「涼子」という名前が存在していました。比呂美の両親は登場すらしないので設定だけの存在とはいえ、眞一郎の両親に関しては、作中でも重要人物としておおいに物語に関わっています。眞一郎の母はその行い自体が物語の展開に影響を与えていくし、眞一郎の父は登場・発言数自体は少ないものの、その一言一言に作品を支配する楔のような重みがある。単純に「重要度」という点で主人公・仲上眞一郎を中心に円を描いていくなら、間違いなく眞一郎の父と母は中心に近い、重要な所にいるはずです。それこそ黒部朋与などよりも重要でしょうし、あさみ、真由といった名のあるクラスメイト相手では、比較にならないほど。…なのに、彼らは「意識的に名前を削られている」んですね。それはきっと「乃絵のおばあちゃん」「酒蔵の少年」にも言える事なのでしょう。以前、「とるてあ」のネットラジオで、ナガッチョP(永谷敬之プロデューサー)が「酒蔵の少年にも名前はある」という話をされていました。 何故すでにあった名前を、わざわざ?その理由は、どこにあるのか?その答えは「作中の全てのシーンにある」と僕は思います。全てのシーンに存在しているもの…それは美術です。美術監督、竹田悠介さんの発言を抜き出しましょう。 「柔らかい水彩画調の絵で、画面の見せたい所はしっかり描いて、あとは色の変化だけで見せる。時にはわざと色を塗らない所を作ったり…」(美術監督・竹田悠介) このインタビューを読んだとき、「これは名前にも通じている考え方だな」と感じました。本作はしっかりしたロケハンを伴い、緻密な背景美術によって成り立っている…というのは以前書いた通りですが、それなのに映像は、以前書いた表現を再び使うと『かすかに靄がかかったような優しい色彩』でもって、ディティール勝負に徹さないようにしている。インタビューの「見せたい」という発言が肝で、画面の端の端のような部分まで拾い上げ、視点が脱線しないように、その画のポイントに誘導させようという効果があるんですね。…それはまさに、名前にも共通して言える事だと思うのです。背景美術の「緻密」同様、ちゃんと作りこまれた眞一郎の両親という人物。彼らには元々存在していたのに、敢えてその名前を与えない。何故?その意味は、やはり「見せたい所をしっかり」見せる為にあるのでしょう。しっかり見せたいもの…勿論眞一郎や乃絵、比呂美、愛子といった少年少女たちの青春群像劇であり、成長の物語です。青春を生きる少年少女達、もっと言うなら「これからtrue tearsを流す人たち」。だからこそ、乃絵の祖母や眞一郎の父母には名前がないし、既に己の人生をこれと定めた「酒蔵の少年」にも名前がない。彼の場合、仲上酒造に来ると決意したその瞬間が成長の瞬間であり、その時流したのならば、その涙こそが「真実の涙」だったでしょう。 作りこんでいない事の言い訳ではなく、充分すぎるほどの存在感があるのに、名前を与えない。あるいは名字・名前の片方しか与えない。本作の物語としての有り様がよく見えてくる、大変興味深い点だと思います。最初に僕は「名前という順位付け」と書きましたが、正しくは視聴者の視点を誘導する為の、わき道に逸れない為の配慮といったものですね(だから今回の「オマケ」は、本当に意識しすぎない方がいいのです)。ちなみにそう考えていった場合、女子バスケ部の「高岡ルミ」キャプテンこそが、まさに境界線上の存在なのでしょう。彼女が「高岡」でも「高岡ルミ」でも、物語には差はありません。比呂美や朋与を、少し離れた所から厳しく、そして優しく見守る高岡キャプテン。彼女は作り手の一種の恩恵によってフルネームが与えられた、ぎりぎりの人物だったのでしょう。…おそらく、女性は名前、男性は名字という徹底ありきで考えたものの、年長のキャプテンを名前で呼ぶわけにはいかない、という所から生まれた、イレギュラー存在だと思うんですけどね。 ちなみにこの作り手が定めた物語のマナーは、あくまで視聴者の視点を誘導するためのもので、作り自体は「この人物には名前がないから」といった差は設けず、しっかりと、万遍なく作りこまれていきました。だからこそ物語が終わった時、そこには酒蔵の少年にまで至る、優しいまなざしが感じられたのでしょう。ちゃんとした理由があって名前の段階を設けたのに、自らの充実した作り込みによって、意図を超えた範囲にまで物語がきっちりと広がっている。truetearsが優れた作品だからこそ生まれた、楽しい「誤算」。誤算に従うなら、最終回だけ「酒蔵の少年」や「眞一郎の母」に名前を与える演出というのも、ありえたと思いますね。最終話のフィルムは、当初存在したであろう意図すら超えて、彼らの成長記録にまでなっているのですから。 …しっかし可愛いなあ、丁稚くんわ(´Д`;)… |
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