娯楽のハイエナ

議論用のツリー式掲示板です!
日頃疑問に思うこと不満に思うことの
書き込みにお使いください。



表紙 ツリー作成
#294 ハーレムメーカーと恋愛原子核(ゲーム視点編)
投稿者:ルイ [2009/02/03 04:05]
長すぎて推敲とか出来てません!スイマセン!orz

 最近ここで語られる事の多い「ハーレムメーカー」(と、それに呼応して登場させた「恋愛原子核」)についての考察を、実例を交えて少々。まだ思考段階なので、そんなに纏まっていない…でもとりあえず、叩き台としたいところです。予め断っておく事としては、僕は「ハーレムメーカー」と「ハーレム構造」をさほど繋げて考えていません。ハーレム構造それ自体は、恋愛原子核状態に生まれる事も多いでしょうし…直接の因果関係は認めていないんですね。じゃあ呼称を変える、というのもアリなんですが…ハートゲッター?ハートシーカー?(笑)自分のネーミングセンスの無さに絶望しそうだぜェ…いずれにしても、ハーレム構造をメイクしようとするからハーレムメーカーなのではなく、ハートをゲットもしくはシークしようとするからハート〜なのでもない。それら全ては結果的にそういった構造を産みうる、という話に過ぎず、肝心なのはこの言葉が「er」、つまり能動的行為者をこそ見つめて使われている、という点です。…さてはて、とりあえず今は、僕の「ハーレムメーカー」を追求しておきましょうか。

 まず、ここでこの言葉が生まれた経緯を書き留めておきますと、「とある魔術の禁書目録」における主人公・上条当麻を眺めた時の感覚、加えて「Fate」における主人公・衛宮士郎のような人物と比較した場合に生まれた時の、違和感の話からだったように記憶しています。衛宮士郎は、自らがが生きる理由が、大きな状況を動かす事と、そしてミもフタもない言い方をすれば「可愛い女の子達の物語を進めていく事」とがリンクしていた。相手の物語を解き進める事が、自らの物語を進める事とイコールになっていた。それは、ここでは本論ではないので乱暴に言ってしまうと、衛宮士郎の「正義の味方コンプレックス」が内面のトラウマとして存在していたからですが…上条当麻には、少なくとも現時点では「それ」に相当するものが感じられないね、という感覚がありました。

 つまり単純比較として、衛宮士郎に比べて上条当麻という人物には「語るべき物語」が不足しているね、でもどちらも「ハーレムメーカー」ではあるよね、というのが本来的な(あくまでここでの)話の、そして用語の始まりでもあったように思います。

※士郎はちょっと構造的に行き着いた感があって、本当はハーレムメーカーの上位種みたいなものかもしれないんですが(笑)言葉を増やしすぎるのもなんだし、取り敢えず話に出てきたのは彼なので、彼にその他大勢の「自らの物語を抱えるハーレムメーカー」を代表してもらいます。

 共に、能動的な意思でもって相手のフィールドに踏み込み、その物語を解き放っていく点では共通しているのに、その解放者である主人公を眺めた時に、抱える物語量に差がある。ともにハーレム、というか女性達が認め惚れていく状態をその意志力でもって「結果生み出せている」点でもってはハーレムメーカーと呼んで差し支えないのに、この違いはどこからくるのか?

 それはおそらく、意志力の根拠の問題かと考えていて…。つまり強い意志をもって他者の物語に踏み込んでいく主人公は、基本的にその踏み込む力が強いほどに、そしてその対象が多いほどに、その根拠についても言及せざるを得なくなってくる構造を持っている。少なくとも、受け手の多くはそこが気になりだす。A・依頼解決型の職種・使命といった外的要因であったり、B・雄の根源的な欲求(個人の物語とは無関係な、いい女と懇ろになりたいといったレベル)で普遍性を持たせない場合、、自然、主人公の一見「過剰な英雄ぶり」に対して、何らかの個人的な根拠を見出せないと、それは実感の欠如へと繋がり、物語全体への違和感が生まれてしまいがちで…現時点での当麻と士郎の差は、まさにそこだったのではないでしょうか。まあ完全に「化け物」として処理する手もあるとは思いますが(笑)こいつはこういう奴だから、という実践による納得は最後にとっておきたいもので、とりあえずは他の手段で読み込めるなら、読み込みたいですよね。

 このあたりで、便宜上「恋愛原子核」の概念を、緩やかな繋がりを持ちつつ「ハーレムメーカー」とは別種のものとして提示しました。理由としては、ハーレムメーカーの由来を考える上で、必要な段階と思えたからです。この「恋愛原子核」なる言葉自体は「マブラヴ」一作目のExtra編で、主人公タケルを夕呼先生が評したもの。つまり周りに何故か可愛い女の子たちが沢山いて、何故か(ラクロス大会で音頭取ったことくらいしか理由が見出せないし、その立場自体が「元から皆が彼に惹かれている」から成立するもの)彼女たちが主人公に惹かれていくという「ベタなハーレムラブコメ」に対する、自己言及的な造語です。作品自体が、続編「オルタ」(或いは無印unlimited編)で仕掛ける前は「超王道学園ラブコメ」というジャンルを売りにしていたので、このあたり自覚的に、狙ったものでしょうね。少なくとも「無印Extra」時点では、タケルは「無根拠にヒロインたちを惹き付ける」という受動的な描かれ方をされており(弁当勝負を見よ!)、その根拠の無さをコミカルに転化させる狙いも含めて、まさに恋愛原子核と呼べるものだった。一方上条当麻は、それとは違い、自分の意思でもって相手の事情や状況にガンガンと踏み込んでいく立場だったわけです。

 これらの言葉、個人的にどう捉えているかというと…言葉をまだブラッシュアップしていないので、変な言葉ですが…「物語の担当バランス」、その比率の問題だと考えています。つまり恋愛に代表される「男と女の物語」…別に男と男でも、女と女でもいいかな?主人公と対象の物語ですね…で、互いに物語をどこまで受け持つか、という配分比変動の歴史が「ハーレムメーカー」「恋愛原子核」のポイントだと思っている。このあたりの感覚は、僕が美少女恋愛ゲーム、「エロゲー(と、一部のギャルゲー)」からの視点で並列ヒロイン構造などを考えている事から生まれたものだと思いますので、大雑把にそこを紹介しておきます。おそらくこの辺、漫画主体で考えるかゲーム主体で考えるかで違いが出そうですし、実際の所文化というものは、同じ時代に緩やかに横の文化とも繋がりを持っていくものだと思っているので、「ゲームだけ」で捉える事にいくらかの無理がある事も重々承知しています。(漫画ハーレム→ゲーム並列→漫画ハーレム改みたいな順序を辿ってるんじゃないかなあ…)ただ、今回はまず敢えてソレ、ゲーム側に特化した考察を行う事で「ゲームサイド」の線、流れを仮にでも形にしておいて、今後の踏み台にしておこうと思います。
  • 主人公に観る恋愛ゲーム20年史と、問い掛けること 投稿者:ルイ <2009/02/03 04:09>
  • #295 主人公に観る恋愛ゲーム20年史と、問い掛けること
    投稿者:ルイ [2009/02/03 04:09]
    <<<親記事]
     まず前提として押さえておきたいのは、エロゲーは「物語ありき」ではなかった、という点。関係性動く所物語あり、などと美しい事を言われてしまったら困りますが(笑)当時容量も少なく、かつHなCGを大量に収めなくてはいけなかった以上、エロゲーが「過程」よりも「結果」(つまりH)ありきの作られ方をしていたのは事実です。この前提は、ゲームサイドから並列ヒロイン構造、ハーレムメーカーといった概念を読み解く上で(そして現行のラブコメの多くが、恋愛ゲームからの影響を受けている事を考慮に入れても)相当に重要なものだと思います。ここを蔑ろにすると、所謂モテ男と何が違うの?というような感覚になるのではないかと思っていて…まず、このスタート地点を強く認識してもらって、その変遷を辿る事で、今の話題の意味が見えてくる・・・・・・・・・・かも?ある程度の共通性を持つ「並列ヒロイン構造の一本化」にも通じる所なので、手を抜かずそれなりに形にしておきましょうか。

    ※タイトルの後に書かれる%は、感覚的に設置した「物語担当バランス」。わかりやすくする為、多少極端にしてあります
    ・同級生(主人公0%、ヒロイン20%)1992年
     「ときめきメモリアル」の元とも言える、elfの重要作。主人公がひと夏の思い出作りに少女達を徹底したスケジュール管理の中ストーキング(笑)、ナンパ業に励む。「ナンパゲーム」から「恋愛ゲーム」への移行を象徴する作品として、そのどちらとも言い切れない中途半端な構造も含め、この手の話題では外せない作品。

     女の子達のスケジュールに合わせて移動し、それを複数回繰り返す事でHに至る、というその構造のポイントは「複数回」。「一度会って」→「口説いて」→「Hする」という従来エロゲーのナンパフォーマット、いわば一発勝負の風俗シュミレータのような側面から脱したこの作品は、「女の子を追い続ける事で個別の事情を知る事になり、それに同情し解決する事で関係が発展・成就する」という形を採用。街に美少女達が等価に存在する様はまさに原初並列ヒロイン構造であり、同時に主人公は原初ハーレムメーカーといえる能動的な快楽主義者でもありました。

     但し、あくまで「原初」としたのは上述した所の「雄の根源的な欲求」で主人公が動いているからですね。ヤりたいから!、という強大な理由の前には、主人公個別の動機などちっぽけなもので(笑)主人公自身に踏み込む必要性なんて皆無。その点では、未だ「ナンパ」、物語視点で言えば「物語の一方的つまみぐい構造」からは脱していない。それは「エルフ・フォーマット」とも言える主人公の言動にもよく現れており、90年代前半までの恋愛ゲームをリードした主人公フォーマットは、この『軟派でケンカに強い、下ネタ大好き』といったものだったりします。語り手の主人公への無関心、プレイヤーの感情移入対象でしかないですよ、という宣言でもって与えられた「目が髪で隠れている主人公」という特徴も大きかったでしょう。極端に言ってしまえば、目が隠れているというのは物語という名の舞台における「黒子」のようなものではないでそうか。こちらには物語は無いからね、透いて見ようとしないでね、という共通認識を強いるものでもあったように考えています。

     動機の「ちっぽけさ」はヒロインの同時攻略可という部分にも端的に現れています。夏休みというナンパ期間をどれだけ充実したものに出来るか、直接的には何人落とせるか(何枚HCGを見られるか)。あくまで、美麗なHCGを回収する為の溜め、お預けとしてヒロイン個々の事情なりが存在している。主人公の性質に限らず、対象の抱える物語もまた、ナンパな主人公でつまみぐい出来る程度の小さなものなんですね。

     これはゲーム世界における快楽の基本「抑圧と解放」の関係を恋愛にも持ち込んだと言えますし(人生の1つの真理ですから応用は何にでも効く)、実際苦労した方が達成感がある、それに女の子の事情を深く知っていた方が、Hも風俗嬢とただヤるのとは違う、こみ上げてくるものがある…という、極めて快楽原則に忠実に則った思考によるものです。但し、あくまで萌芽。どんなスケジュールで行動する事が、より効率的な同時攻略に繋がるか?というゲーム性は、個別の物語を味わうという快楽にはあまり立脚しておらず、その点でもって、最初に書いた「%」は、互いを足しても100%に遠く及ばない。つまり、純粋な意味での「物語表現」足りえてはいなかった、という事です。とはいえ、この時生まれた「より気持ちよく(愉しく)なる事は、より相手に踏み込む事だ」という発想は、後に恋愛ゲームが物語と不可分な関係を築いていく事を思うに、大変重要だったと考えています。

    ※ちなみに、同社の続編「同級生2」或いは派生作「下級生」ではここで生まれた構造を自覚して、ヒロインサイドの%を高めよう、個別の描写を深めようという意識が見られます。但し主人公は0%のままであるし、同時攻略は可能なままなんですけどね(主人公0%、ヒロイン30%と言った所か)。

    ・番外編、ときめきメモリアル(主人公0%、ヒロイン40%? ※ここのヒロイン%は非常に難しい…)1994年
     育成SLGと恋愛ADVを結びつけた、歴史的傑作。高校3年間の生活を通じて、卒業式の日の告白成就を目指す。現在の恋愛ゲーム構造に影響を与えている面は少ないものの、単純に恋愛モノの裾野を広げたり、表現の場所を増やしたり…といった貢献度は極めて高い。

     エロゲーではなく家庭用の恋愛ゲーム・・・ギャルゲーである本作ながら、「ハーレムメーカー」「恋愛原子核」を考える時、同級生からときメモへの移行は興味深いものがあります。原初ハーレムメーカーから、原初恋愛原子核への緩やかな移行とでも呼べるでしょうか。同級生がおぼろげながら形にした「複数回会う事による蓄積と、対象の物語への踏み込み」。この形式を数字が支配するシミュレーションゲームとして完成させたのが、偉大なる青春シミュレータ、ときメモ。目的が「ナンパ」から「青春」へと変わった事で、に主人公は能動的なハーレムメーカー的な素養を失い、また育成SLGシステムともあいまって「学業や部活に打ち込めば、何でか自然と女の子達が寄ってくる」という、やればできる幻想とも結びついた、心地よい原初恋愛原子核の誕生となりました。

     ここでもやはり、同級生ほどではなくとも同時攻略要素が残っていたり、ヒロイン達の語る内容は個人の物語というより個人のパーソナリティ(趣味や好み)が主であったり、と…SLGゲームとしての面白さが充分存在する為に物語への立脚度は低いものがあるのですが、同級生が雄の欲求に任せる事で顕在化を防ぎつつも、その構造上強く潜ませていた「ハーレムメーカー」としての素養を一旦一気に奪い取った事は、過渡期の現象として眺めると面白いものがあります。デート時の選択肢判定(デートで選んだ場所についての評価を、先に三段階で下す。ヒロインと同感だと好印象)で示されているように、極力己の意見を殺して受けに回る構造は、恋愛の1つの真理である聞き上手を強調したものではあるのでしょうが、結果として「対象の物語に深く、受動的なまま関わる」という恋愛原子核物語への繋がりも持っていた事になります。こうやって一度、能動的な「攻略意識」をプレイヤーキャラから剥ぎ取る事で、次の時代=相手の物語が主導する時代への礎となった、と考えると味わいがある。ヒロインの%が難しいと言ったのは、40%の器を用意したけれど、中身の濃度はあまり高くない、とでも言った所で…純粋に%だけ追うとおそらく同級生と大差ないんですけどね。その変化の意味を追う上で、意図的に上げておきました。

    ※同級生同様、続編は時代の流れに影響を受けていきます。「ときめきメモリアル2」(主人公5%、ヒロイン60%)は連鎖イベントや過去編の導入によって物語性を強調し始めていますし、一方で「ときメモドラマシリーズ」(主人公50%、ヒロイン50%)は、物語に特化しようという試みを始めている。この時点でハーレム構造からも離れているので、観測対象からは外れてしまうんですけど・・・この辺、自覚的に生き残る為の変化と考えると、やはり面白いし、その時その時の受け手のマジョリティを象徴しているようにも思います。現在では、この葛藤を引きずっているのは「トゥルーラブストーリー→キミキス」の流れでしょうか。元々が限定シチュエーション(下校会話→ところかまわずキス)の追体験ゲーなのに、物語も背負わなきゃいけなくなってますから…と、脱線。

    ・ToHeart(主人公10%、ヒロイン90%)1997年
     Leafのビジュアルノベル第三作にして、美少女恋愛アドベンチャーの記念碑的作品。高校生活の日常を描きながら、ヒロイン達との個別の交流を描く。ビジュアルノベル形式が主流ではなくなった現在にあっても、その影響力は大きい。

     おそらく現在の恋愛アドベンチャー、或いはその構造を有した漫画・アニメ・小説と言った類の震源地は、「ときメモ」ではなくここ。伝奇ホラーなどの形式を纏っていたビジュアルノベル第一作「雫」・二作「痕」も「アダルトゲームでそんな事を表現できた」という事実でもって当然重要ですけど、そこで「動けた」のは余程物語を表現する事に飢えていた一部の人のみでしょうね。「恋愛」というフォーマットの上でこれを為し得た、成功したという事の意味と、その事実による業界全体を巻き込む力を重視して、今回はこちらを取り上げます。なんといっても、こちらからでないと並列ヒロイン構造やハーレムメーカーに繋がっていかないので…w

     今までの作品が「原初」、プレ的な位置付けだったのに対して、ここからは明確に言葉が当てはめられます。ここにきて、主人公と対象の%が合計で100になった。たまに出てくる選択肢を選ぶだけ、というビジュアルノベルのゲーム性(元がノベル=読むもの)と重なって、完全に恋愛ゲームが「物語」としての命を得たわけです。ここでの選択肢は変化を楽しむゲームとしての快楽ではなく、物語を読む「視点」の選択、その宣言に過ぎない。ノベルゲームを選んだ、つまり数字で遊ぶゲームではなくなった以上、物語に特化しなくては作品として持たない。そして物語に特化する以上、これまで「つまみぐい」対象に過ぎなかったヒロイン達1人1人に、個別のしっかりした物語を与えなくてはならない。・・・発想の順番を逆にするなら、こうなるでしょうか…『恋愛を楽しくするには、つまみぐいで単にSEXをする程度ではなく、対象の内面にどっぷりのめり込む事こそが面白さを産む。ならばSLG要素などで茶を濁すのではなく、描写・・・物語に特化しよう。そしてノベル形式こそが、もっともそれに相応しい』と。この時から表向きには「同時攻略」は姿を消し、1つの物語に真摯に向き合う形式が確立したと言っていいと思います。

     「同級生」の能動的ナンパ野郎、「ときメモ」の受動的聞き上手を経て、ToHeartの主人公、藤田浩之はまさしく「恋愛原子核」。強い動機や理由があるわけではないが(主に寝てばかりいる、面倒臭がりという面でもって後のフォーマットに)、やる気を出してスイッチをONにすればなかなかのもの。何でか様々なヒロインの物語に分け隔てなく緩やかに入り込み、理解者となって恋愛関係となる。恋愛原子核は根拠の無い「優しさ(理解力)」でもって好感を持たれる事が多いのですが(無根拠恋愛原子核)、そのあたりも既に完備。おそらく、これは「同級生」から連綿と続く「感情移入対象としてのゲーム主人公」の名残であり、「優しさ」(同級生は「積極性」)という漠然としたキーワードなら、誰しも自分の中にソレを見出す事が可能だったのでしょう。このあたりは、ラブコメ漫画の主人公などよりも徹底されています。なんたって、目のなかった種族(笑)ですからね。主人公の描写を突き詰めるほどに、それはプレイヤーとは関係のない、一個の人格を強調する事になってしまいますから…しかし、こうやって数値ゲームから離れ、物語に全てを預ける形式を選択した以上、元の「攻略ゲーム」構造に気を遣った、万人の感情移入対象者としての無色な主人公に固執する理由とメリットが薄れていった事は確かでしょう。実際、浩之はゲーム第一世代の恋愛原子核でありながら、それなりに「浩之」としての人格、浩之としての良さが感じ取れる面があり、それ故もあってか数年後、彼には髪に隠れない「目」が設定される事になります。

    ※余談ですが、アニメ「ToHeart」の一作目では、勿論浩之にも目は存在し、また「一本道のストーリーの中での恋愛原子核」をかなり的確に描写しています。生来の怠け者気質を溶け込ませる事で過剰すぎない「優しさ」を示しながら各ヒロインの物語に柔らかに立ち入り、それでいてそんな主人公を行き過ぎた超人にしたてないよう、恋愛意識の乏しさと、並列を抜け出す序列一位=幼馴染・神岸あかりとの物語を縦に一本通す事で、バランスを取ってある。ヒロイン並列構造の一本化(簡単に言えば、ヒロイン毎に存在する恋愛を軸にした物語を一本の物語に収斂する事)というテーマを考える上でも、この作品は原作ゲーム、アニメ版ともにかなり重要な作品です。

     この「ToHeart」が果たした功績は、第一に「○○シナリオ(ルート)」というものを確立した事と、それにによる表現者の呼び込みと考えています。ヒロインごとの物語を完全に独立化させる事で、各シナリオごとに全く別のテーマを語る事ができるという事を示してみせた。マルチは人工生命に人間が感じる「生命の実感」の問題、琴音は異能者がそうではない人間達の中で生きていくという事、あかりは幼馴染と恋愛関係の間にある、近いが故に深い溝…ToHeart自体は「ほのぼのとした学園青春もの」の形式を取っている為、そんな極端な振れ幅は持っていません。しかしここで「ヒロインシナリオの形式を取る事で、どんな物語も書く事ができる」という発想と理解が生まれた事で、これまでの恋愛ゲームの「よりHに、より快感を感じるにはどうすればいいか?」という発想とは全く違う、「物語ありき」の世代・才能が流れ込んできて、Hが申し訳程度に収まっているような作品も現れだした(簡単に家庭用移植できるのが、何よりの証拠ですね)。ToHeartが細かい意味での「第1号」かは検証してませんが、少なくともビジネスを伴った「食っていけるもの」として恋愛ゲームの物語表現が認知されたのは、ここからでしょう。「○○ルート」は一方で特有の欠点というか病理も孕んでいるんですけど(一対一の物語以外を物語と認識できなくなる、○○ルートorEND希望!の層を産んだ?w)、まずヒロインごとに1つの物語を植え付けたという点でもって、ToHeartはまぎれもなく、この分野における「母」でした。この「○○ルート」というのもかなり大事だと考えていまして、この特徴を見つめる事が、ゲーム側からの「ハーレムメーカー」を考える上でポイントになっていると思っています。

    ・Kanon(主人公15%、ヒロイン90%)1999年
     KEYによる「泣きゲー」の名作。形式自体は「ToHeart」の影響下にある作品ながら、日常と非日常の振れ幅の大きさや、そこで描かれるファンタジーに寓話性まで見えてくるという点など、追随する作品群に表現の枠を示した点においてもう1つの「母」とも呼べる、重要な作品。

     KEY作品と呼べる質感を持った作品は、前身Tactics段階で発表された「ONE」、或いはその前作「MOON」まで遡る事ができます(一応全作クリア済)。但しここでもやはり影響力などを考慮して、そして今回は主人公に注目するという目的からも、代表的な「Kanon」に登場してもらいましょう。Kanonのフォーマット自体は、ToHeartで築かれたものをそのまま流用しています。眠そうで退屈そうな主人公、相沢祐一が学園生活の中、どんどんと特徴的な少女達に出会い、それらと接しているうちに知らず知らず彼女達の物語の奥深くに踏み入っていく。つまり、彼もまた受動的な恋愛原子核であった事に疑いはありません。相変わらず目の隠れた存在ですしね。しかし、Kanonが重要なのは、物語の幅を極端に広げた事で、それらを受け持つ祐一という人格の「無理(異常さ)」が如実に現れた格好のサンプルだという点。

     これは、ToHeartでは超能力・ロボと言った要素も「学生という日常生活」の中に収めている為、表に出てこなかった部分でもあります。とはいえ、敏感な人はToHeart時点で感じていたのかもしれませんが。Kanonは、ToHeartが切り開いた恋愛原子核による並列ヒロイン構造…「恋愛ゲームで表現しうる、各シナリオの独立と自由」を純粋に拡大しただけ。しかし、その激しすぎる各エピソードの幅によって、それら全てを受け持つ主人公・祐一という人格が意図せず化け物じみた、半ば超人的な存在になっています。この作品には深夜徘徊する「魔物」との剣をもった戦い、狐の嫁入り、不治の病、精神体と出会う事で過去と向き合う事、奇跡…などなど、極端なファンタジー要素を持った濃密エピソードがギュウギュウに詰め込まれているんですよね。

     このあたりがゲームサイドから考えた時の重要ポイントだと考えますが、ゲームにおける並列ヒロイン構造とはつまり、ヒロイン全員が序列一位と言えるまで各シナリオを独立、充実させる事。例えば、たかだか20年程度の恋愛ゲーム世界に答えを求めるのでなければ、物語史上ハーレムメーカー「的な存在」は沢山いると思うのです。いい男が博愛的に、来るもの拒まずで土地土地の揉め事を解決、その土地のご当地ヒロインを惚れさせる…というようなパターンは枚挙に暇がない。ただ、並列ヒロイン構造は構造上「その1シナリオが主人公にとっての運命であり、必然である」という唯一無二レベルの納得を目指して組み上げていく。システムによって複数回クリアを前提にしていない作品は、「一シナリオ必勝」。プレイヤーがどのシナリオから遊びだすかは全くわからないのですから「シリーズにおける短編1話が充実する程度に"回れば”いい」などという発想とは根本的に違うのです。ここを押さえる事が、ハーレムメーカーの背骨だと考えています。

     そのあたりも祐一が象徴的で、彼はシナリオの途中から、ヒロインの約半数に対し過去からの運命を持っているような描写がなされていく。その相手こそが自分の運命の相手だ、という根拠を与えにかかるのですが、しかし実際の所、その「運命の相手」は過去の因縁を持つ持たないに関わらず、全員がそう。プレイ周回によって意識をまっさらに出来ればいいですけど、プレイヤーは「祐一」というキャラクターを通じて物語に触れていく為、どうしても祐一という人格は、全シナリオを通じて「全てのシナリオに対応できる人格」として積みあがっていくんですよね。…その結果、全てのヒロインに対し、その相手こそ、というクラスの運命を有した主人公、というものが誕生する。また、浩之や祐一がそうであるように恋愛ゲームが主に学生の物語…というのもポイントでしょうか。主人公にはマクロレベルでの外的な動機や根拠があるわけではないケースがほとんど。では。ではそれなのに全ての序列一位との物語に入り込み、運命的な繋がりを結びつけていくこの「主人公」とは一体何者なのか?

     …今回はわかりやすさでkanonを挙げましたけど、前述の通りToHeartで感じていてもおかしくないし、また後続の作品のどれかで感じてもいい。全体の流れを提示したいだけなので…ゲームという、主人公無色から始まった(=他の「物語」と比べ、圧倒的に眼前の相手に「物語」を預ける比率の高い)並列ヒロイン構造の物語を突き詰めていくと、遅かれ早かれ主人公存在を問い掛けざるを得ないよね、誰かは問い掛けるよね、というのが言いたい事だったりします。

    ※この点は京都アニメーション版のアニメ「Kanon」が、大変面白いサンプルになっています。構成が欲張りで、本当に大まかにしか作品における序列を定めなかった。一本一本が序列一位であり、運命的である各シナリオの美味い部分をそのまま掬っていこうとした結果…つまり特別な「一本化用の施策」を講じずに一本化を果たした結果は主人公の超人化。一日のスケジュールを分刻みで割いて各少女の「内面の物語」に、能動的な激しい意思を持つでもなく「それなりに」しかし異様に器用に、同時並行的に関わっていくという超・祐一が誕生していて。存在自体があやふやな、モンスターじみた存在に映ります。とはいえ、原作自体が抱えていた問題を、最悪の形で表面化させただけだと思いますけどね…「並列ヒロイン構造の一本化」の問題を考える上での格好のサンプルなのですが、同時に相手の物語の映し鏡として存在する恋愛原子核主人公の「存在としての無理」が見事に浮かび上がっている点も見逃せません。

     この類の問い掛けが、ToHeart(ビジュアルノベル)以降の恋愛ゲームを発展させてきたと思っています。「よりHに」「より恋愛が盛り上がるように」というシンプルな目的意識で変化してきたそれまでとは異なり、物語表現として成立した後の恋愛ゲームの歴史は、自らが生きる表現世界への自覚的な問い掛けの歴史。それは「どこに問い掛けるか?」という対象の違いで、様々な広がりを見せていきました。例えば

     同じ主人公が、開始時点を起点に複数回の分岐世界を経験するという恋愛ゲームの並列ヒロイン構造。その一回性の乏しさそのものに自覚的になれば、それはKIDの家庭用恋愛ゲーム「infinityシリーズ」(2000〜)のような、上位視点を伴った作品を生み出すでしょう。

     恋愛原子核によるハーレム萌芽状態から、簡単な選択肢で1人との運命的なシナリオに分岐し他のシナリオを無かった事にしていく「選択肢を選ぶ事への意識・想像力の不足」に自覚的になれば、それはおそらくage「君が望む永遠」(2001)のような選ばれなかった者の物語、或いは安直に選択肢を『選択できてしまう事』への執拗な確認、追求を行う作品が生まれるでしょう。

     シナリオを選んだ後、他のヒロインが消え去り(他のヒロインは自分のシナリオで自らの物語を受け持つ為、他シナリオでは群像劇のようには自分を出せない事が多い)その1人との間だけで世界が規定されていく、という並列ヒロイン構造のシナリオ分岐“後”に自覚的になれば、「沙耶の唄」(2003)のような究極の「2人の世界」を生み出すでしょう。

     特徴に溢れた美少女達と、それらの中心にいる男1人、という配置自体に自覚的になれば、それはきっと田中ロミオ作品「cross channel」(2003)のような根拠付けを思いつくでしょう。(この作品、並列ヒロイン構造にも自覚的なので「infinity」シリーズとの共通点もあるんですけどね)

     恋愛ゲーム物語のENDマークの場所が、多くは関係がダイレクトに変化する部分を物語としてきた事からそのうち思考停止し、紋切り型で「初H直後の軽い後日譚」(家庭用なら、キス)であった事に自覚的になるならば、KEYの「CLANNNAD」(2004)のように“その後”を描く作品が生まれるでしょう。

    (まだもうちょっとだけ続くんですよ!)
  • ハーレムメーカーと、並列ヒロイン構造 投稿者:ルイ <2009/02/03 04:17>
  • #296 ハーレムメーカーと、並列ヒロイン構造
    投稿者:ルイ [2009/02/03 04:17]
    <<<親記事]
     そういった恋愛ゲーム発展の中の1つに“無根拠な恋愛原子核存在のまま、ヒロイン1人1人の重みを持った物語を全て処理していく主人公”という存在への自覚的な問い掛けがあり、それがゲームサイドからの「ハーレムメーカー」に繋がった、と考えています。

     まず段階として、無根拠な恋愛原子核という存在の違和感を解消しようとしたら、当然根拠を与えますよね(根拠型恋愛原子核)。「何故か」の「何故」に理由を与えるという事ですが、その根拠が外部から与えられたものの場合(顔、血縁、女神が応援w…エトセトラ)、恋愛原子核によるハーレム構造の言い訳、理屈付けのようなものになると思います。つまり構造補強を行うという事なんですけど、これ自体は違和感は解消されても、構造そのものへの影響はほとんど無いと言ってもいい。「コレコレこういう理由で、彼は恋愛原子核なんですよ」「…ふーん」といいますか(笑)。納得が高まるから読みやすくはなるんですけど、基本的に「核は核」である事自体に変わりがないので、主人公のサイドに物語の比重が移る事はない。相変わらず「○○ルート」にほとんどの物語%を預ける形式ではあり続ける。

     ところがそこでもう一段階問いかけを進め、根拠を主人公の内部…内面に求めた場合はどうなるか?それは“複数のヒロイン達の物語を平然とひきつけていく、化け物じみた主人公”という人格を形成する根拠、或いは動機の問題になりますよね。常時付き合う主人公である人格に、内的な問題が存在する…ここに自覚的になってしまったら、早晩その問題は物語化する。言い換えれば自らそこに向き合い、能動的に解決しようと動き出す物語が組まれる事になるのですが、その内面の物語と、対象の内面の物語の解決を結びつけた作品こそが「Fate stay/nigtt」(2004)(主人公60%、ヒロイン40%)であり、その主人公の衛宮士郎のような存在こそが「根拠型ハーレムメーカー」。つまり無根拠恋愛原子核→根拠型恋愛原子核→根拠型ハーレムメーカー、という順序でもって「問いかけ」は進んだ、と考えられます。

    ※ちなみに漫画原作のアニメーションながら、「エルフェンリート」(コミック2002〜2005、アニメ2004)の主人公コウタはこの「根拠型恋愛原子核」の根拠が内面に存在しているにも関わらず、外的な記憶喪失などの要因が加わってハーレムメーカー化しなかった特異ケース。物語の力学が加わる事で、ようやくこういった主人公が成立するのでしょうが、それは、内面の物語を抱えた原子核は、基本的にハーレムメーカーになるのではないか?という考えにも繋がります。

     ここで「根拠型ハーレムメーカー」が、最初に登場した「とある魔術〜」主人公・上条当麻のアニメ放映4ヶ月現在のタイプである「無根拠ハーレムメーカー」を飛ばして登場した事について、表現媒体による違いとも絡めて軽く押さえておきましょう。本当は先にそちらがあるはずなんですが、ちょっとこのあたりは難しい。連載、或いはシリーズ化を念頭に置く漫画・小説といった文化と、ゲーム(アニメもそう。続編前提はその限りではありませんが)の最大の違いは、ワンパッケージの作品は、完全に終わりを見据えて作るという事。一方連載の場合、余程「書きたいものだけを一気に書いて終わり!」という詰め方をしない限り、連載・特定シリーズ小説…いずれも「終わる」事も念頭に置きつつも、まず第一に「続く」事を見据えて作られます。運動体として半永続的に回転する構造を構築する事が目的になれば、それは基本「無根拠ハーレムメーカー」の物語になる。それはそうですよね。何故かと言うのは、序盤に書いた「物語の配分比・バランスの問題」から説明できます。

     無根拠なハーレムメーカーが能動的に、新たに現れるヒロインとその物語に踏み込んでいくという事は、%で書けば(主人公数%、ヒロイン90数%)といいますか…作品のほとんどを、毎回出てくるヒロインの物語に預ける事になる(つまり純粋な○○ルート、○○シナリオへの回帰)。物語を通して出張るのは主人公なので、主人公側の内面の物語が消費されない限り、原理的には100%中のほとんどを受け持つ「○○」を交換していくこの構造で、いくらでも連載の維持が可能になる。勿論、対象の物語をどこまで魅力的に出来るか?であったり(%の総量が減少してしまっては仕方がない)、動かない主人公に対する「飽き」も常に内包した、そんな気楽な構造でもないんですけど…そこを、ハーレムメーカー側の%を徐々に上げていく事で意欲を保ちながら、物語の終局へ向かっていく。これはまさに連載・シリーズという「続きモノ」ならではの考え方だと思いますが、無根拠ハーレムメーカーが、根拠型ハーレムメーカーへと緩やかに変わっていく。これが、連載・シリーズものの「ハーレムメーカー物語」の基本ではないかと考えています。

    ※つまり一番最初の「当麻には物語が不足しているね」という問いへの答えは「まだ無根拠ハーレムメーカーの側面が大きいから(そのうち根拠型になるんでね?)」といったようなものになる。とはいえ、かなり長い事無根拠のまま通してきてしまって、あんまりハーレムメーカー側の%を段階的に上げられている実感もないので、今更唐突に上げられても「ご都合」以上に乗り切れるかどうかはわからないんですが…まあ、それは作品評の領域ですね。

     これ、正確には「Fate」の衛宮士朗も辿っている道なんですよね。物語の開始時点では内面の問題に自覚的になりきれていないので、とりあえず「見捨てられない!」という根拠の乏しい行動原理でもって動いている。そしてその違和をスムーズに「欠損」と捉えドラマを紡ぐのですが…ワンパッケージの作品は、始まったその時から既に維持の為動いていなので、頭から「無根拠ハーレムメーカー→根拠型ハーレムメーカー」のドラマが起こっていると言う事ができると思います。つまり何が言いたいかというと、敢えて恋愛原子核から問い掛けて差別化させた以上、ゲーム視点で考えた時「無根拠ハーレムメーカー」というのは物語を始める為の「初期値」でしかないんですね。漫画や小説だと運動体としての価値がありますけど、完全に閉じる事を見据えた物語では、ハーレムメーカーは「根拠型」こそがゴールである。だから先ほど、無根拠恋愛原子核→根拠型恋愛原子核→根拠型ハーレムメーカーという順序を組んだ。実際は根拠型ハーレムメーカーの中に、その入り口あたりに小さく無根拠ハーレムメーカーも収まっているわけです。…これは連載形式でも、主人公であるハーレムメーカーの物語を動かそうとした時には大差ないと思うんですが、繰り返しているように「ハーレムメーカーの物語をなるべく動かさない状態での、運動体としての無根拠ハーレムメーカーの価値」というものがあるので、そのあたりちょっと考え方が異なってくると思われます。

     とりあえず、大雑把…の予定の割には何か結構長くなっちゃいましたが…に、「ゲーム側からのハーレムメーカー」について書きとめました。現状、漫画・アニメ・ライトノベルといった分野での恋愛ドラマ、ラブコメというものに関してのゲームの影響を掴む為、自分の思考を整理する意味があったんですけど、やはり恋愛ゲームの主人公が無色な状態から始まり、その前提がありながら、数値的な意味でのゲーム性から離れた完全な物語(物語濃度100%)を志向した、しかもいちヒロインいち作品濃度…という歪な構造が、今あるハーレムメーカー概念に与えた影響は大変に大きいと思います。まず普通に物語を組もうと思えば、主人公の色をここまで抜こうという発想にはならないでしょう。没個性にも限度がある。そして、その分対象=ヒロインに完全に立脚してしまう構造が、少女の抱える物語を、1人1人が運命的である程に強めていくという極端な%の偏りを産んだ。それでいて主人公は「1人」なので、群像劇ではなく、常識的なドラマ作りでは考えられないほど濃い物語全てが主人公に集まっていく構造を産み、その「濃密すぎる少女ごとの物語を1人で全て受け持つ主人公」という存在への問いかけが、ハーレムメーカーを生み出す土壌となった。…この流れが、おそらく単に「いい男が旅先なりで女の悩みを聞き、解決して一夜を共にした」とでもいうような既存の形式との、決定的に似て非なる部分を生み出したのでしょう。


     結構前からの僕やLDさんの課題である「並列ヒロイン構造の一本化」も、きっと近い所にポイントはあって…つまりおたく文化のハーレム構造自体は漫画などから始まったにせよ(はいはい源氏源氏)、一度ゲームで「全員序列一位」を完全にシステムとして確立したのが「並列ヒロイン構造」の夜明け。その各物語の濃度とエネルギーを再び漫画のような一本の物語に落としこもうとした時、どんな回答があるか?その1つの回答として「ハーレムメーカー」があるのではないかと言う事ですね。

     恋愛ゲーム(並列ヒロイン構造)のアニメ(一本)化として先述の「Kanon」と、もう1つ…「キミキス」で考えてみると、キミキスは常識的な処理をしています。本来は並列ヒロインだったヒロイン達に問答無用で序列を与え、物語を絞り(ヒロインによっては脇役Aレベル)、しかも主人公格の少年を2人用意して群像劇の形式を取った。この時点で原作「キミキス」の有していた構造・ドラマは一部除き殆ど継承されていないのですが(まあ、元から薄いドラマなんですけどね…)ムリに「一本化」を試みていない分、素材を使った恋愛青春群像劇化、というものには速やかに成功している(この辺りの継承を放棄した物語の再構築は出崎統監督の「AIR」「CLANNAD」にも通じるものがある)。逆に「Kanon」は継承を何1つ諦めず、基本的な全員の序列一位を尊重しながら一本化を試みた。…結果、とんでもないスケジューリングと脳内優先順位で動くいびつな主人公が生まれたのは先に述べた通りです。例えば、ここで祐一をもっと自覚的に、「ハーレムメーカー」に仕立てたなら、どうなったでしょうか?皆の物語を何故かわからないけれど必死で助けようという祐一、その必死さは周りから見て病的なほどであったが、実はそこには彼自身の抱えるトラウマとの関わりが…ってのは一例ですけど、きっと、今ある形とは違う物語が生まれえたと思います。つまりこの課題におけるハーレムメーカーというのは、並列ヒロイン構造という恋愛ゲームの「無茶な」構造がゲームに限らない物語世界の中で対応できるよう産み落とされた、新世代の主人公なのではないでしょうか。…とりあえずは、ゲームサイドからの考察はこんなところで。長々と失礼しました。

    ※最初に断った通り、横の分野とのつながりあってのものなので、ゲームだけでどうこうってのはムリがあるとは思ってるんですけどね。ゲームがそれらと違い、圧倒的に「物語になってからの歴史が浅い」事と、この新種の概念を結び付けられないか、という一つの問題提起みたいなものです・・文中に断定的な箇所があったり、基本的に決めつけ気味に流れを作っている点が気になるかもしれませんが、1つの「史観」という事でご了承ください。自分でもそんな強く「こうだろ!」とは思ってません…こういうのもあるかもね?みたいな?