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電視の部屋

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#536{作品チェック}{脚本チェック}引き返さない話 「黒執事」最終話 その執事、滔滔
投稿者:LD [2009/04/03 02:29]
※注意!!以下、完全ネタバレで話が進められています。



シエル「あいつら(召使いたち)は…死んだのか?」
セバスチャン「さあ…あの時はまだ息があったようですが…」
シエル「しぶとさだけは、人並み以上だからな、あいつらは………プルートゥ(番犬)は?」
セバスチャン「……後で骨を回収しておきましょうか?」
シエル「骨を…………いい。骨に何の意味がある。全ては…」
セバスチャン「全ては…?」
シエル「…いや、全てを語るには、きっとまだ……少しだけ……はやい」



シエル「この光りは……?」
セバスチャン「坊っちゃんの側を通り過ぎていった者たちの……坊っちゃんへの想いです」
シエル「僕への……想いか………………………きれいだ」
セバスチャン「きれい…?」
シエル「ああ……別れが寂しいとも、哀しいとも思わない。……でも、ただ、きれいだと思う…」



セバスチャン「なるべくやさしく致しますが…」
シエル「いや、思い切り痛くしてくれ……生きていたという痛みを魂にしっかり刻みつけてくれ…」
セバスチャン「………イエス…マイ・ロード…」



セバスチャン「では…坊っちゃん……………」



〜エンド・ロール〜

「黒執事」は19世紀末のイギリスが舞台で貴族だった両親を殺されそのため悲惨な末路で死のうとしていた少年が、悪魔と契約して復讐を果たすべく、両親の仇を探す物語。少年は父親の任務でもあった王室を仇なす障害を排除する“女王の番犬”の役目も引き継ぐが、その任務をこなす事は自らの仇を探す意味も含まれていた。…というものなんですが、物語のはじまった当初から、少年=シエル・ファントムハイブと、悪魔で執事=セバスチャン・ミカエリスの関係は明らかにされており、契約が果たされた時にはシエルの魂をもらい受ける事をセバスチャンは明言している。自然とその焦点は「悪魔と契約した少年がどうなってしまうのか?」という結末に向けられた構造になっています。
(↓)下記は以前の筆者の感想記事です。

★★★:(13話まで)…まあ、何というか真綾サイコーじゃね!?とか「ラインバレル」の点数も真綾のEDで★0.5プラスしてもよくね?とか言っている場合でもないんですが…。実は、小野(セバスチャン)さんと、福山(死神)さんの壊れっぷりが楽しいアニメだったりします。次回予告の小野さんとか楽しいです。あとこれ、原作まだ続いているんですよね?「悪魔と契約した」ってネタは最期(←期)どうなるか気になります。…契約は死すまでなんでしょうから、ラストまでその問題は出てこない可能性もあるんですけど、でも「時よ止まれ〜!」的な契約終了を示す言葉もあるんじゃないかなあ〜とか。今の所、この悪魔、“悪魔”である線は守っていてそこも好きですね…よくある話だと最後は情が移っちゃって契約を無効にしてしまうんですけど…それも含めてどうなるのでしょうね?あと1クールでそこらへんの形だけでも見せて欲しい気もします。

★★★☆:(20話まで)今、星3.5ですけど、終わり方で4.0以上あるかな?以前に書いたときも終わり方を気にしていたんですが、この作品の構造って「続ける構造」として“女王の番犬”というネタがあり、「終わる構造」として“悪魔と契約した少年がどうなってしまうか?”ってのがあるんですよね。そして、僕はやっぱり後者の物語がどうなるか気になってしまう。それを割とこの作品は…どうもオリジナル・キャラまで出して踏み込んで描いているみたいですね。最初の1クールの段階でシエルの叔母であるマダム・レッドは切り裂きジャックとしてシエル自身の手で始末され、また、駒と差し手の関係といいつつも、おそらく信頼関係もあったであろう劉の裏切りを受けてこれも始末している。また、シエルに手を差し伸べてくれたアバーラインはセバスチャン(悪魔)の意図的な放置でシエルの盾になって死ぬんですね。そういう悪魔と関わってしまったが故の冥府魔道をシエルは歩み続けてくれているし、悪魔もその線を崩してまで情有る行為には到っていない。その魔道の果てに悪魔と少年が何を思うのか…って観せてくれたら、本当にすっげええ満足しますね。……ところで僕は契約はてっきり「一生、我に仕えろ」だと思っていたんですが「我に復讐を果たさせろ」だったんですねえ。シエルくん、慎ましいなあ…w


…まあ、真綾サイコーじゃね?とかは置いておくとして…(顔真っ赤)「黒執事」最終回、すごく良かったです。ちょっといきなり超ネタバレで話をはじめてしまっているのですが、ネタが分ったからといってこのラストの美しさが損われるものではないと思います。……敢えて言えばエンディングが流れた後にCパートが始まらないショックは、ブランクで観た人にしか味わえないものでしょうけど……まあリアルタイムで追わなかった人の代価というか…ねえ?(汗)………さて、作品全体で評すると、シリアスあり、ギャグおちゃらけあり、のてんこ盛りな作品となっていまして、それがこのシンプルなラストを焦点とした場合、それに沿う構造だったどうかは、ちょっと難しいかも(たとえば役人根性で仕事にアバウトな死神たちが存在するのは、このラストに“踏み込む”世界観としてどうだったか等)……そこがいいんじゃん?とか言われればそれまでだし、独特の不思議な雰囲気を持っていた事は間違いないですけどね。
しかし、それを圧しても、この10分足らずのラストシーンは「銀河鉄道の夜」に匹敵する幻想があったと思います。



【OPEDのハイエナ 黒執事 後期ED】
http://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyen0305.html

ここらへんはルイさんのED解説と繋がっていますね。このEDで毎回、そのシーンが有り得る事を示唆し続けた事の意味は大きい。ギャグやおちゃらけたエピソードであっても、EDを観れば受け手はそれを思い出す。シエルの心象、あるいは覚悟にシンクロするんですね。

シエルは悪魔と契約した事によって幸せになれたワケではない。不幸から逃れられたワケではない。そりゃあ、セバスチャンや、召使い、エリザベスと過ごした時が楽しくなかったという事はないでしょうけど。しかし、彼は契約が果たされるまでに、“もう一度不幸を繰り返すように”多くのものを失い続け、そして死んでいったと言ってもいい。
両親が死んでからは唯一の血縁者であった、マダム・レッドをロンドンの切り裂きジャックの真犯人として、自らの手で葬り去り、利害関係によって結ばれた暗吏と華僑とはいえ、おそらくは友情に近い感覚も感じていたであろう、劉の裏切りにあって彼を殺し、そしてもしかしたら、シエルを冥府魔道から引き上げてくれたかもしれない平民の刑事アバーラインは、悪魔の意図的な落ち度によって死んでしまう。そして忠誠を尽した女王は、やがて自らの命を狙い、家系の断絶を謀られる事になります。勿論、復讐を果たしたって両親が還ってくるワケではない。何か幸福が得られるワケでもない。これらは悪魔と関わって生き長らえたからこそもたらされた不幸と言えるかもしれません。

でもシエルはその選択を続けるんですね。何もいい事がないと分っているのにその選択を続ける。幾人かの人(両親の幻など)「復讐、憎しみは何も生み出さない」と諭すんですが……僕はこの「〜何も生まない」という物言いがあまり好きではないので、余計に感じ入ってしまうんですが(なぜ、好きではないのか話すと長くなるので、それはまた別の機会に…)、人は愚かと嘆くであろうこの選択を傷だらけで進んで行きます。
悪魔と契約したとは言え引き返す道は残されていました。物語の終盤において、シエルが優しさに身を委ね、復讐を諦めてしまえば、悪魔は途端にその魂に興味を失って去って行く事が示唆されたんですね。復讐さえ諦めれば、その幼い命は生き長らえ、多くの幸福を享受してその一生を終える事ができたかもしれない。でも、そうはしなかった。……もう、そこまで行ったら助からないしか道は無いよねえ(汗)…だから悪魔はその魂に敬意を払って、それを刈り取った。「冷たい方程式」のように助からないものは助からない…という話のように見せながら、そうではなく自ら助からない道を選んだ。これはそういう物語なんだと思います。

その全てを描きながら、エンターテイメントとしては、最後の最後にそれでもシエルはその命を救われ、もう一度普通の少年として生き返る、あるいは転生する。そういう物語として「引き返す」展開を与えて上げられない事もなかったとは思うんですけどね…。(それがCパート期待に繋がるんだけど)しかし、主人公が引き返さない選択を決然としているのに、物語だけ勝手な都合で「引き返す」わけにもいかないですよね。
そうして「引き返した」話が受け手に与える事ができる「ああ、(シエルが生きていて)よかった感」、「めでたしめでたし感」……そういう安堵の満足感の変わりに「引き返さない」話は、安堵で隠されてしまわない、剥き出しのテーマを受け手にぶつける事ができますよね。この作品の場合、シエルの最期にあなたは何を思うか?といったところでしょうか。

#535{脚本チェック} 引き返す話 アクセラレータ「とある魔術の禁書目録」
投稿者:LD [2009/03/23 01:42]



原作:鎌池和馬、イラスト:灰村キヨタカ

第19話「打ち止め(ラストオーダー)」
 脚本:赤星政尚
 絵コンテ:大原実
 演出:高島大輔
第20話「最終信号(ウィルスコード)」
 シナリオ:西園悟
 絵コンテ:柳原テツヤ
 演出:柳伸亮


アクセラレータが出会ったミサカ20001号。ラストオーダと呼ばれる彼女の頭には天井亜雄という研究員によって、不正なプログラムが書き込まれていた。それが起動すれば1万近いシスターズによる無差別攻撃が行われてしまう。どうする?アクセラレータ!?…で?今回もオレ出番なし!?(第20話プロローグより)

【おたく語会話(2)“ひきかえす”】http://www.tsphinx.net/manken/room/otak/ot_hikikaesu1.html

ペトロニウスさんが、原作でのこのエピソードをよく誉めていまして…まあアニメをずっと観ていた事もあってそっち(19〜20話にあたる)を観てみたんですが…僕もかなりこの話を気に入りました。もともと「悪役」が好きな人間って事もあるんですが、こういう人間の面白さを観せる話は好きなんです。で、ちょっと僕なりの感想として「引き返す」という観点で少し話をしたいと思います。「引き返す」というものの考え方は、最初に上げたリンクで解説しています。(多少読みやすさを加味して、今回、ちょっと内容を修正しました)
もともと、この回の主役にあたるアクセラレータって「御坂シスターズ」編で、半ば快楽殺人者のように振る舞っていた凶悪な男なんですよね。それが、その(実験の為とは言え)殺しまくっていた、御坂クローンの最終ナンバーから助けを求められるという話になっています。ちょっと外堀から埋めた話をすると「物語」を読み慣れた人は、この話がはじまった何分かですぐにピンとくると思うのですが、このエピってつまり、アクセラレータを「ケース・ベジータ」(どうしようもない悪人だった者が味方になる事)にするための儀式なんですよね。“禊ぎ”と言ってもいい。主人公で正義感の強い上条当麻や、御坂美琴が、そうそうアクセラレータを許すとは思えませんが……場合によってニヤリと笑って許すかもしれませんが、まあ、アクセラレータにも理解者がついて、そうそう憎み合う存在でもなくなるだろうな…と。(原作どうなんでしょう?)

しかし、僕がこのエピソードで気に入っているのは、そういう儀式部分ではなくて、そういったケースに入る寸前、「引き返す」寸前の物語の形なんですよね。先に述べたように、この話はアクセラレータが犯した悪業の被害の張本人から助けを求められるという、贖罪と救いの意味合いの強い物語になっています。そして前のエピソードの語りによって、研究機関に指定された実験のためとは言え、それにつきあって自らをレベル6(絶対能力)に引き上げようとしたアクセラレータの行為は“絶対に止めなくてはならないもの”=“許されざるもの”として扱われ、そして主人公の上条当麻に阻止されてしまっている。

それが今回のエピソードで、まずアクセラレータが絶対能力を目指す理由、そしてアクセラレータ自身、必ずしも御坂シスターズを殺し続ける事を望んではいなかったのではないか?…いや、むしろ、彼女たちが実験中に一言でも“助けを求めて”いたなら…?という示唆がなされています。…まあ、僕自身はこういう言い訳くさい話はあまり好きでは無いんですけど……wアクセラレータ自身もそれは否定している通り、心の中でどういう心象が働いていようが、それで彼が「実はいい人」って事にはならないと思っています。(演出的には不思議とこういう描写で許されて行くのですが…)操作され制御されたクローンでも生命と心があるという観点に立つ限りアクセラレータは間違いなく悪人だと思う。でも!悪人が人を救ってはいけないのか?っていうとそんな事は全くない。逆にね、どうしようもない極悪人がふっと少女を助けてしまう事はあると思うんだ。それはもう全然あると思います。でも、それでその人が「いい人」って事にはならないし、よくある「この世に悪人などいない」って希望的に考えてしまうのも、少し危ういとも思うんですけどね。



……でも、間違いなく、少女を救ったその手は善なんですよね。関係ないよね。本当は悪人だろうと、それまでに何人、何千人殺していようと、永遠に許され無かろうと救いがなかろうと……本当は実験を嫌がっていたとしても、助けを呼びかけてくれる事を望んでいたとしても、自らの能力の孤独に立ち向かっていても、それで何千人も殺した事が、言い訳できない事と同じように、その手が善である事は言い訳できないんだよね。

この話、冒頭からアクセラレータは「(自分の)何かが変わった……何だ?」と自問を続けている所から始まります。それは単純には、上条当麻に敗れた事で、彼の取り巻く環境が変わった事を指しているようにリードしているのですが……本当は当麻に殴られて痛かったんでしょう。それは久しぶりか、あるいは初めての感覚であり、それが“少し”彼を変えたのだと思います。多分、アクセラレータは彼に殴られて痛かったから〜転がり込んできた少女を冷たく放り出すのを止めた。少し眺めて見ると事にした…(少し変わったから)そういう物語なんだと思います。

…で、ここからが本題w

ここまで何であれそれは善だという形でこの話を述べて来たわけですが、それでもこの物語は基本的にはアクセラレータの贖罪〜「罪と罰」によって成っていると僕は思っています。この話で事件を知る女性研究員の芳川が、事件の首謀者の天井の銃弾を意図的に受けて死亡するんですが(ホントは死ななかったんですけど主旨のために意図的にそう書いています)この展開って不自然というか話の流れからすると瑕疵になるんですよね。後に救われるのなら尚のこと…しかし、それ故に作者の意図が明示化されていてまず間違いないと思うんですけど…。この物語ってエピソードそのものの消去が図られています。芳川が死ぬというのは事件の顛末を知る“唯一の目撃者”が死ぬ事を意味しています。天井は事件を解決するために芳川に殺され、アクセラレータは少女(ラストオーダー)を救うために死に、そしてそこにはアクセラレータに救われながら、ウィルス解除のために(アクセラレータと接触した)全ての記憶を無くした少女だけが残る……。



つまり、凶悪な人間であるアクセラレータが誰かを救って死んだ事を知る人間は誰もいなくなってこの事件の幕は閉じているんです。誰か…っていうか、シスターズが一斉に蜂起したらその被害は計り知れないのですから、一人の少女だけじゃなくって何万人もの人を救っているんですよね。本人にそんなつもりがなかったとしても、それは言い訳できない事実ですw……でも、もうそれを知っている人間は誰もいないんです。露見した計画から、ある程度事件の経緯を検証する事はできると思うんですけどね。アクセラレータが学習機械なしにコードの書き換えができる事を知っている者はいないし…希に奇特な誰かが、この少女を助けようとしたのでは…?なんて推理をしても「まさか。生前の彼からは考えられんよ」とか言われてしまうんですよ…。…ねえ。死して屍拾う者なしというか…アクセラレータの最期はこうだよね!!って思いません?w

先ほど言ったように芳川を一度殺すという形をとっている限り、この結末は見えていると思っていて、それを見せつつ「引き返した」のだと思います。上でまるで死んだかのように語っている芳川とアクセラレータですが、最終的に生き残りますw当然、少女(ラストオーダー)も。まあ、アクセラレータ、ここで退場さすには勿体ないですからねえw…という僕の言葉に揶揄の気持ちはそれほどなくってwリンクの「引き返す」の解説で述べているように、僕は、テーマの完うのための切り込みと、そこからエンターテイメントへ帰還するための「引き返し」という両立の表現はけっこう好んでいるんですよね。また「受け手」の観客としては、そういう「送り手」の示すテーマにしっかり、ひたりつつ、「引き返す」世界にもつき合って行きたいなと、そう思います。

#534{作品チェック} “未熟”の物語 「とらドラ!」
投稿者:LD [2009/02/15 23:16]



http://www.starchild.co.jp/special/toradora

「とらドラ」観ているんですが、かなり質高く話を進めていますね。目つきが悪くて誤解されやすいが本当は家庭的な少年・高須竜児と、小さくて可愛いのだけどその行動の凶暴さが恐れられる少女・逢坂大河の織りなすラブコメディ。けっこう繰り返し言っている事ですが、学園ものとして、遊びの設定をほとんど入れていない。「うる星やつら」よりも「めぞん一刻」的という言い方をしているのですが、短期決戦の模様な分「めぞん」よりも、さらに余計なものを入れていませんね。(※アニメ化されたラノベ原作もので、これだけシンプルなものは珍しいという感覚が含まれています)自然、キャラの造詣と心象に見所が集中します。……って、要するに徹底的に“普通のラブコメ”が目指されているって事ですけどね。
で、まあ、観ていたんですけど、これは“子供の未熟”の物語だなあ…と思いまして。そこらへん、ちょっと気がついたところから抑えて行こうかと思います。

■しょぼいストーカーを撃退

第6話「ほんとの自分」で、川嶋亜美が勇気を出して自分にまとわりついていたストーカーを撃退するというエピソードが描かれます。ところがこのストーカーがなんか……しょぼい!orz 川嶋亜美はファッション雑誌を飾る、女子高生モデルで美人でスタイルも良い。外面可愛く振舞うんだけど、本性は高飛車な我がまま娘…という設定のキャラなんですが、このストーカーに心底怯えて、親元を離れて転校までしているんですよね。…まあ、基本的には外面を気にして思うように振るえないとういう、自らが選んで被ったつもりの“仮面”が結局、心を萎縮させていたって事のようですけどね。
…で、まあそれはそれとしても、このストーカー…な〜んか、えらくしょぼいのですよね(汗)なんちゅーか……「え?こんな奴、恐いかぁ?」って……もうちょっと“恐さ”を観客の納得値まで引き出すなら、もっと見るからにキモい奴……要するにAAでよくある感じに「アミたん…(ハアハア)」って感じにすれば“分りやすい”と思うんですけどね。こんな奴に付きまとわれたらキモい、恐い、という事を了解できる「記号」を打っておけば、亜美の「キャラ格」はガードされるとも思うんですけど。このままだと、しょぼいストーカーに怯える亜美は、しょほいキャラ?って話になるんですね。
でも、多分、そこを想定しているというか、それが「とらドラ」の描きたいバランスなのだろうと観ています。母親が女優で、自身は人気の女子高生モデル、そんな娘が転校してきて、おそらく、主人公に惚れるであろう事が予定されている…なんて設定はコミック(戯画)そのものなんだけど、そこから多分、川嶋亜美のキャラクターを「引き戻し」たいはず。たとえば、そのまま恐さが分かりやすいストーカーを撃退すると、単純に亜美が勇気を出す“分りやすい”話になるんですが、そうでない場合、先にいったような“心の萎縮”とか、内面の問題が浮かんでくるんですよね。亜美の弱い部分と強い部分が示唆されるようになる。
今、僕は“しょぼい”というネガティブな言葉を使っていますが、これはキャラクターの“出来が悪い”という意味は指していないんですね。……“リアル”という言葉を使ってしまうと、ちょっとズレると思うんですが…。ルイさんが「記号発・脱記号」と評したように、「とらドラ」のキャラクターは“分かりやすさ”と“繊細さ”のバランスで成り立っている観があります。また、何か微妙に「読み」が二本軸で用意されている気もしますね。単純には主人公の竜児の言葉に“押されて”変わった…というとり方でいい気がしますが、僕はあまりそんな感じはしていなくって、“弱さ”も“強さ”もそのままって気がしています。……実際、その後のこの娘の立ち振る舞いってそんなに変わらないですよね?まあ、少し丸くなった所はあるかもしれませんがw

■電柱は倒れない


こういった「引き戻し」は、第2話「竜児と大河」で、大河が電柱を蹴り飛ばすシーンなんかでも施されていますね。143.6cmという圧倒的小身ながら、おそらく学園内で生徒会長と並んで最強と目されている女の子で(見かけで恐れられていた竜児は新学期に大河のKOを受けた。…何はともあれノック・アウトするんですよね)、写真部とか単身で壊滅したクラブもあるという。んで竜児を犬呼ばわりパシリ扱いしつつも、自身は基本ドジッ娘という“ギャップ萌え”な女の子w……まあ、当然、普通には有り得ませんw
そういうコミック(戯画)で、さらにキックを得意技としている“強い”女の子が「ムッカつくんじゃ〜ぃ!!」と思いっきり電柱を蹴飛ばしたのですから、その電柱倒して上げてもいいと思うんですけどね…。倒れるって、んなバカな!wと思うかもしれませんが、キャラ格に沿えばやっても問題ない事だとは思うんですよ。でも、そうはしないんですよね。竜児の加勢が加わるのだけど、電柱は倒れる事はない。連打連打を重ねて、ようやく、少し傾いたように見えたところで「やった〜!勝った!勝った!」と大はしゃぎさせる。これも僕に言わせると、本当に傾いたか、あるいは蹴った結果で傾いたか、怪しいものだとは思うのですけど……されとて、全くビクともしなかった……という描写にもしない所に「とらドラ」のバランスがあって、コミック(戯画)なキャラクターとして出した逢坂大河の、ファンタジーと限界値を同時に見せているシーンと言えます。
そして、何の足しになるか分らないけど、とにかく電柱を蹴り飛ばし、それでもそれを打破する事などできず、でも、ほんの少しだけ変わって、それを喜び大はしゃぎする。そういう物語が描かれる事は、この時点で示唆されてるわけです。……ここで一発、電柱(障害)を、出来る出来ないなんて理屈抜きにブッ倒してみせて「タイガつええええ!!」→って物語もアリはアリなんですけど「とらドラ」はそういう仮託を選択してはないと言えると思います。

■未熟故に分って上げられない私らの…

櫛枝「あーみん(亜美)はさ、北村くんの事が、ものすごくすごく心配なんだよ。きっと。…ほら、あーみんは、大人の世界でお仕事してきている人じゃん?あたしらみたいなガキよりも、ずっと色んな事わかってると思うんだ。北村くんの事もきっと…。でも、自分は分っている事が、誰にも分らない。そういう私たちの幼稚さに、辛抱強くつきあってくれてるんだよ」
竜児「…あいつが、そんなにできたタマか?」
櫛枝「んでも、あーみんは間違った事は言っていないよ?あんな風に言ってくれる友達、なかなかいないよ。だから、今日みたいに、チクッとくる事言う時にも、あーみんなりの理由があるんだって思う。…っていうか、そうであって欲しいんだ」
竜児「え…」
櫛枝「わたしも、言っちゃ悪いけど、高須くんにも、分らない事っていっぱいあるじゃん?分りたい相手の事なのに分らない事って。そういうの、あーみんだけは、全部ちゃんと分ってくれてるって思いたいの。(竜児を見つめる)…未熟故に分って上げられない私らの、それが最後の救い…みたいなさ」

第15話「星は遠く」のワンシーンをそのまま書き取ってみました。…本当はこの後、櫛枝「読み」に相当重要なセリフが入るのですが、まあ、それは今回外すとして。かなり直截的なセリフなんですけど、一つは、亜美ちゃんの狂言回し的な誘導。もう一つは、本題の“未熟”の物語の示唆の意味がありますね。
いや、この話の時、大河の想い人で、これまでわりと超然と物語に関わってきたキャラクターである北村祐作ことマルオが、自分の好きな生徒会長が外国へ留学してしまうと知って、グレてしまうんですよねw僕は、この物語でマルオがかなり好きだったんですけど、正直、このエピソードの時には、その反動でマルオに失望したんですよね(汗)だって、本っっ当に何の足しにもならない事をしているんだものwマルオには大河に限らず女子に人気があるって設定なんですけど、いつも飄々として、自分で“笑われ”を引き受けクラスを明るく盛り上げ、リーダーシップを発揮するマルオは、そりゃ人気あるだろうと、そう思うんですよね。それがあのチャチなグレ方を…wお前の春風駘蕩っぷりってのはそんなに脆弱なものだったのか!?とそう思ったんですけどね……。とまで、考えたところで、ああ、そういえば、その事は既に櫛枝実乃梨が「そういう物語」である事を示唆しているじゃないか…と。(こういう口幅ったい事をモロに言う所も「とらドラ」のバランス感覚と言えそう)そうやって、上記の描写のような気なった部分を繋げていってみると、やっぱり、そこには“未熟”の物語が観えてくるんですよね。……別に未熟とかネガティブな言葉を使わずに「青春の物語」って言えばいいのかもしれませんがw



この中で、マルオに告白されて、おそらくマルオが好きにも関わらず無下に振って留学してしまう生徒会長は、他より(おそらく亜美よりも…だと思っているけど)大人なんですね。なんでって……思うがままに行動してもその責任を自分が取れない事を知っているからです。何の足しにもならないチャチな反抗ってさっき、マルオを評しましたけど……同時に大人は、子供の“覚悟”を認めない社会を厳然と作っているのも事実なんですよね。結婚も成人しないと両親の許可が必要だし、パスポートだって取れない。保険にも入れない。保証人にもなれない。……一応、中卒から働けますが、そこを躊躇したからといって「お前の思いはその程度のものか!」と言い放つのは酷だと僕は思っている。…そんな中で何の足しにもならない事しか思いつかなかったとしても、それはしょうがない……と言えばしょうがないwだから、それが分っている会長は、じゃあどうするのかを知っている人ではあるんですよね。
とは言え、コミック(戯画)としては…。学園内では親分として振る舞い、肩で風切って歩き、適わぬものなど何もないかのようなカリスマを持つ生徒会長が、その力は学園内無敵に制限されて外に出てしまえば普通の女の子というのは、やはりコミック(戯画)としてはしょぼい話なんですけどねw…繰り返しますが、それは悪い意味じゃなくって、生徒会長まで“その未熟なしょぼさ”を一貫して描いているって事です。

この話、最初に大河と竜児の心は、かなり明確に見せていて、その後、亜美の心が描かれて(←この娘、二面性でスタートした分、一番隠し事がないキャラになっていますね)しかる後に、当初は大河、竜児の想い人として、ブラックボックスに近かった、マルオとみのりんの心が“見えてくる”。それが見えてくる事による反応で、また大河と竜児がどう“変わるか”という形で物語が展開されていますね。現在、放送は終盤に入っていますけど、また「読み」がまとまったら、何か書けるといいなと思っています。


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