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#246 作画チェック 背景チェック EDチェック 夏目友人帳 ED
投稿者:ルイ [2008/07/18 17:19]

公式サイト:http://www.natsume-anime.jp/
絵コンテ・演出:大森貴弘
作画:岸田隆宏
背景:石垣プロダクション
色指定・検査:宮脇裕美


 理想のOP・EDに型はない。型はないけれど、作品そのものを五割増にするようなEDなら、文句のつけようもないですよね。と、いうことで。息をするのも忘れて見入ってしまったエンディングです。ただひたすらに素晴らしいので、観て!もう何度となく観て!とだけ言って終わりにしてもいいんですが(笑)一応いくつか。

 このEDは、完全FIX=固定位置からの撮影に終始しています。カメラを動かす事で、映像が「演出意図」に支配されることを恐れたのでしょう。撮り方に細工を入れない事で「ただ情景をそのまま撮りました」という空気を出そうとしたんですね。実際は今「出そうとした」と言ったように、カメラを動かさない事自体、動かす事と等しく「映像としての意図」が出るのが映像表現。ただ、EDテーマ「夏夕空」という曲との相性を考えても、この固定撮影演出は奏功しているように思います。コンテ演出は大森貴弘さん…監督自ら。まあ、これはどういう意図があって、どんな曲をEDテーマにしてもらうか。そのあたりから関わっている人だからこそのコンテ演出と言える。コロンブスの卵の関係のようなものでしょう。EDに相応しい曲、曲に相応しいED。そしてこの卵とニワトリが現実のそれと違うのは、彼らには「夏目友人帳」という「親」がいるという事。夏目友人帳という作品表現に相応しいものとして選ばれ、作られたのがEDであり、EDアニメーションと言えるのです。

 「作画」表記からすると、原画動画は全て岸田隆宏さんの仕事です。岸田さんのED作画歴は「ヤマトタケル」あたりから始まっていて、既に枚数少なめの表現なのですが、まだ線はアニメ本編とそこまで大差ないもの。「魔法少女プリティサミー」EDあたりから(落書き調の砂沙美がただ屋根の上でギター弾いてる、FIXモノ)岸田EDとも言える作風が確立されてきたような印象があります。多分これは、枡成孝二(当時は「ますなりこうじ」名義)さんのイメージでもあるんですよね。プリティサミーや「神秘の世界エルハザード」(これもラフな画にFIX)はこの2人が手掛けており、ともに育ててきたイメージと言えそう。ここから始まった岸田ED史は、枡成さんと離れてからも基本このイメージに則った活用をされています。ここ数年だけを切り取ってみても、「シスタープリンセス」ED(柔らかい線で描かれた麦わら帽子の少女が、ただ飛行機雲を追いかけるもの。演出大畑清隆)、「ヒートガイJ」ED(フィルムネガを固定して写すもの。演出赤根和樹)、「学園アリス」ED(デフォルメされたラクガキ感溢れる蜜柑と蛍が、相合傘をさしながら歩いていくだけのもの)等があり、最近では「しゅごキャラ!」EDを三連続で手掛けています(手描き感溢れるラフな線で描かれた、しゅごキャラたちのもの)。この中で直接的に結びつくのは「学園アリス」。学園アリスEDの演出も大森貴弘監督が手掛けていたわけで、このEDは「タカヒロ・コンビ」の2度目のEDという事になりますね。


 「学園アリス」のEDも、基本は「ただ2人で歩くED」でありながら、途中でナツメ(どんなシンクロニティ!?)とルカの男版相合傘コンビをすれ違わせたりして、時間経過を描写しつつ、最後には雨が上がり虹が出る。表現として、極めて同質のEDである事が感じ取れると思います。「夏目友人帳」のEDでは、そのあたりを↑の「にゃんこ先生、1人(1匹)で駆け回る」動きで描いていますね。上の画は蝶々をキャッチしようとしてジャンプし、失敗して落ちていくニャンコ先生。特別なSEや声もつけず、夏目が寝たままである事で、なんとも言えない静かに流れる時間を「動き」によって表現しています。背景の、ゆるやかに流れる雲の動画、髪や草のなびきも見逃せない所。

 ここで頭の画像にもう一度ご登場願って…遊びつかれたニャンコ先生も土手を登り、夏目の傍らで眠りにつく。ここで丁度歌がサビの「夏夕〜空〜♪」になる事にあわせて、2人(1人と1匹)の寝顔がアップで画面右から左に雲のように流れ、その顔が流れ去る頃には背景の青空が赤みがかかっていき、養ってくれているおばさんの塔子さん(かな?)が夏目を迎えにやってくる…。背景の上に薄くかぶせたアップ寝顔が、眠りに落ちてからの時間経過を表現しています。過不足まるでなし、美に溢れたEDだ…。

 塔子さんによって起こされた夏目、上半身を起こして眠気を払い、よっこらせと立ち上がり土手を上がっていく。土手に置きっぱなしの鞄に気付いて拾い上げ(ニャンコ先生が鞄の前にいた事からして、夏目に忘れぬよう促したかな?)3人(2人と1匹)で帰路につく…ああああ。美しいですねぇ〜orz図書館の蔵書を全部読みたいとか、そういう欲求もあるんですけど、これもまた夢の世界ですよねえ。おばさん(お母さん)に起こされる所まで、全てが夢のようだ。うらやまし。

 と。いう所で終わらせていたのが今までの僕なのですが!もう一歩。特に1人作画という表記はインパクトが強くて、どうしても岸田ED岸田EDといいたくなる(実際上でもそう言っている)し、そこで纏めてしまいたくなるワケですけど、「夏目友人帳」のEDに関しては、同様に表記された「背景」「色指定・検査」も見逃せないと思います。岸田さんの柔らかな線に見事に合致した、主張しすぎぬ草、そして色。茜がかる様を描いてみせた色彩の美しさも見逃せない。この作品、アニメ制作はブレインズ・ベースが手掛けています。ブレインズ・ベースと言えば?名作「かみちゅ!」で知られる会社で、つい最近までは「紅」を手掛けていた。でも、「かみちゅ!」と「紅」を直接の線で結んだ人は、そういないはず。せいぜい「丁寧な芝居作画」とかいった傾向で括るのが限度。それはやっぱり、「紅」はゴンゾ作品「レッドガーデン」からスタッフを引っ張ってきた作品であり、キャラクターデザインに限らず、色彩設計等もそちらに基づいているからなんですよね。

 それと比べて「夏目友人帳」は制作がブレインズ・ベースだと知る前から(アニメ雑誌で事前情報とか観ないんで)映像から「かみちゅ!」のイメージを感じて仕方なかった。それは勿論、もののけを生活の中で描いた作品、という作品イメージそのものからの連想もあるのでしょう。でも、それ以上に背景・色なんですよね。という事で調べてみた所、アニメーションプロデューサーの佐藤由美さんから始まって、美術の渋谷幸弘さん(石垣プロダクション)が同じ役職。色彩設計の役職(EDに表記されるものではなく、OPに表記されるもの。つまり色彩監督みたいなものかな?)は「かみちゅ!」では歌川律子さんだったものが宮脇裕美さんになっている…ものの、宮脇さんは「かみちゅ!」本編での色彩設計を、約半分の話数で手掛けています。つまり、この作品から「かみちゅ!」を感じ取るのは極めて自然な事なんですね。そうやって事実を突き詰めていくと、前述したように「岸田ED」の型を共に作り上げたとも言える枡成孝二が、その「かみちゅ!」の監督をしているわけで…巡り巡って、この「夏目友人帳」の美しいEDに辿りついているんだなあ、という事が感じ取れると思います。作品自体「縁」を描く作品のようですし?まさにお後が宜しいですね!!!(強引)…スイマセンorz


 しかし、アニメーションの奥深さは感じられる。たった15年程度遡っただけで、こういう線が見えてくるんですからね。結局人間の興味センサーなんてものは有限で、本当に興味があるものだけは、こうやって様々な評価軸からチェックする事が出来ても、そうでないものはどんなに拾い逃すまいとしても、上辺を掬っても残りは零れ落ちていってしまう。その事自体には良いも悪いもないんです。個々の趣味内プライオリティを自分と同じであれ、なんて考えるのは傲慢以外の何ものでもないし、誰かが自分と同じ「気付き」を得ていないからといってその事を責める侮るなんてのはお門違い、或いは自分にとっての「拾い逃している分野」に思いを馳せていないからこそ到達できる、身勝手な感覚です。…でもですね。折角アニメが好きで、アニメを大事にしているのなら。こういう見方もありますよって事を言いたいし、同時に他の人からそういうものを感じ取っていけたらいいと思います。…ま!楽しきゃそれでいいって言われたら!全然言い返せないんですけどね!面倒な事に、それだけじゃ満足できない性質だから!w…最後に自分語りをしてしまいましたけど、とにかく「夏目友人帳」は素晴らしい作品です。今回はEDチェックという性質上織り交ぜようがなかったけれど、ニャンコ先生役の井上和彦さんの演技も、ベテラン男性声優ならではの見事な二面性があって素晴らしいし…2008年夏期の、隠れエースとも言える作品になるんじゃないかな。夏夕〜空〜♪(←EDだけ何十回も観ている)
  • 夏目友人帳第6話 水底の燕 投稿者:ルイ <2008/08/18 06:36>
  • #256 絵コンテチェック 演出チェック 夏目友人帳第6話 水底の燕
    投稿者:ルイ [2008/08/18 06:36]
    <<<親記事]

    公式サイト:http://www.natsume-anime.jp/
    脚本:関島眞頼
    絵コンテ:篠原俊哉
    演出:小坂春女
    作画監督:本橋秀之、大波太
    総作画監督:高田晃、山田起生
    原画:XEBEC M2
     古川信之、織田誠、大波太、長屋侑利子、清水美友紀、渡辺政訓、奥谷周子、鶴元慎子

     小澤円、鰐淵和彦、飯村真一、棚田暁子

     アクセル
    色指定・検査:河合真理子


    それは、干上がった水が元に戻るまでの物語。


     今年一年単位で括っても、ベスト話の一つだと思っています。でっかく出たよー!?w「紅」の6話や最終話、「truetears」の最終話…個人的には、それらに並ぶ回です。何度観ても涙が流れてしまったのだけれど、この回の素晴らしさはシナリオだけに留まるものではない。展開や言葉にも感動はしているのだけれど、それだけで何度も心が揺さぶられたわけではない。アニメーション表現として、とても優れた回なのです。それを「絵コンテ・演出チェック」の形式をとりながら称えたいと思います。絵コンテと演出にしているのは、最終的にはコンテを読まない限り、視聴者にはこのあたりの完全な色分けはできないから。2つを括って「演出」と表現してしまうのもアリだとは思います。更に加えるならば「色」や、もっと言えば「制作スタジオ」にまで話を広げられてしまうかもしれない。基本的には絵コンテの「篠原俊哉」さんをリスペクトする方向でいこうとは思うのですが、何せ情報の多い回です。


    原作を読み込み、愛したコンテ
     今回、2度観て2度とも涙を流してしまった段階で、原作のこの回を読む事にしました。折角原作を知らない状態で出会えるならばそれも縁、TVアニメが終わるまでは読むつもりなかったんだけど…違いが気になってしまい、既に所有だけはしている原作をパラパラとめくり、その話だけを読みました。一巻の終わりに、その話はあった。そちらでも十分グッときた(まぁ、脳内でアニメ再生されたか?)んですが、原作を読んで気付いたのは、思ったより原作はセリフやモノローグを絞りきれていないんだな、という事。第一巻だから、という事もあるかな?勿論カラーや音を使えないわけで、文字に頼る比率は増して当然なんですよね。とにかく原作との大きな違いは、脚本が、極力セリフを削っている、という事。それは当然、限られた尺の中で間を作ろう、という判断である筈で…絵コンテもそれに応え、寡黙な中での表現をしています。先ほど貼った、ダムもそうですよね。経過として「ダムが干上がった」→「ちょっと雨が降って水かさが増した」→「元に戻りました」というのを全て言葉で説明したわけではない。映像で伝えられる、その確信をもって削られた言葉は、全てコンテが掬い上げ、更に味わいを付加しています。

     この回の最大功労者と言っても過言ではない、篠原俊哉さんの絵コンテ。彼がこの回で行った事は何か。…画面に情報を付け足すとか、密度を上げるとか(脇で何か展開していたり、キャラが動くといったような)。そういったものは基本ほとんど無いのではないか、と思います。何か我を出そうとするような事は、ほとんどしていない。ならば、何も仕事をしていないかといえばそんな事は全くない。「最大功労者」と言っているわけですから。篠原さんは、演出として「新規のものを生み出さなかった」だけで、この物語にいくつかある焦点のシーンに演出力が集まるようには、相当計算して構築しています。これほど的確に1話の中で演出の焦点を絞れるという事は、脚本か原作に余程惹かれたという事なんでしょうか。とにかく、感情の流れがスムーズになるように出来ているんですね。何も感じず観られたら、それで良い、というくらいの(今僕は、何度も観てからブツブツ言い出しているわけです)。まず、そのうち一つを例として示しましょう。

     取り上げるのは、妖「燕」に関する演出です。この回、実は主人公夏目にも、それどころかニャンコ先生にもいい演出がされている(ラストシーン、夏目の独白中にニャンコ先生を映すのが上手い!)のですが…言い切ってしまえば、この話は「燕の物語」。『干上がったダムの下にあった村。そこから出てきた妖「燕」の、今のうちにかつて恩を受けた人間に会いたい、という願いを叶える物語』です。つまり物語の核が燕にある以上、燕の感情やキャラを積み上げるのが、もっとも回を成功させる近道なのは疑いのない所で。…そこを、見事に補強してみせています。しかも、仕草などからの正面きった積み上げと、映像的な積み上げの2方向から。

    燕の位置が積み上げるもの
     ここは明らかに原作よりメリハリをつける事で「効いた」な!と実感できた所であり、原作を読む前からも映像を見ていてグッときた演出…燕は夏目と歩く際、必ずそこから数歩分の距離をとって歩く。これをどのカットでも様々なアングルからも徹底する。それどころか3枚目のように「その事を見せたいが為の真横アングル」などを見せていく事によって、自然とこれは、燕という妖の「キャラ積み」になるんですよね。

    燕「夏目様、手を繋いでもいいですか?」

    燕が夏目に手繋ぎを申し出るシーンも、自分から言い出したにも関わらず、夏目の手に触れたか触れないか、というあたりでビクっとして、その手を夏目から掴んであげる形になっている。口ぶりなどからも伝わる部分ながら、これらの演出が何より饒舌です。彼女は良く言えば慎み深く、遠慮深い。悪く…いや悲しく取れば、距離を詰める事に慣れていない生涯を送った娘なんです。親鳥に捨てられ、兄弟は雛のまま亡くなり…誰よりも情に飢えていて、それを感じるとそれこそ手を握りたくなるほど近寄りたいのに、その術を知らない。ここを原作よりもハッキリと、回数も多く描いた上で、中盤のヤマに入ると…演出力がまるで違ってくる。

    燕「あの人の匂いがする…近い!」

     遂に20年前、鬼となった自分に暖かい料理を届けてくれた(ここ貼りませんでしたが、料理全てから湯気が立ち上っているのも、またGJ)男性に会えた燕。繊細に彼女の立ち位置レベルから積み上げられてきた彼女のキャラが、ここで解放される…。

     これまで何度となく「後ろに控える燕」というものを、丁寧に描写し続けたからこそ。この真横からの、燕の夏目追い抜きシーンに「万感」が篭る。彼女にとって、この20年、彼がどんな存在であったか。どんな表情より、どんな台詞より。それが伝わるべく、冷静にではなく、情感豊かに計算されたのが、この一連の燕積みです。

     もう僕はここだけでグッときちゃうんだけど、こうやって積み上げに積み上げて辿りついた「燕の解放」を、Aパートラストということもあってか、物語は一度殺しにかかります。ここはもう、シンプルに悲しくも美しい演出世界。男性には見えない聞こえない燕というものを、静かに描写します。挟まれていく夏目の表情、その表情が全てを物語っています。

     あれ?と言った所でしょうか。違和感を覚えた夏目。

     あっ!ですね。自分には妖怪は見えて当然だが、そうだ普通の人には妖は見えない、という当たり前の事に気付いた夏目。

    夏目「どうして…俺にしか見えないんだ。あんなに、あんなに…」

     悲しげな表情。

    夏目「どうして、俺は見えてしまうんだろう」 
     一枚目、燕は彼(谷尾崎さん)に対し、手を振っている…2度眼前に立って、気付かれず素通りされたその後でで。気付かれるわけもないのに手を振っている。2枚目、下げられた手が、とてもとても悲しい。
     この夕暮れのシーン、燕が谷尾崎さんの所に駆け寄るまでは優しいピアノの旋律をBGMとしているのに、燕が話しかけだした途端、BGMを一旦外す。じゃあそれは燕の声を聞かせる為かといったら、燕の声は聞こえない。そこにはただ、蝉の声。…夏目ではないけれど、「見えてしまう」事と、「感じ取れない(聞こえない)」無常。このどちらの立場も感じ取れてしまう視聴者の哀感に視点を合わせきった、素晴らしい演出だと思います。

    夏目「燕は力が弱いから、話せるかどうかもわからないけど…それでもいいなら、言っておいで。」
    燕「夏目様…」
    夏目「燕…人を嫌いにならないでいてくれて、ありがとう。」


    燕「やさしいものは好きです!あたたかいものも好きです!だから、人が好きです!」
     「夏目様…ありがとう…ありがとう…」


     ここはコンテや演出というより、もう、単純に素晴らしいシーンなので抜粋。ただ、一応前半からコンテが仕掛けた演出は、このシーンが強まるように組まれていた事は確実なので…このシーン単体のコンテ演出がどうこうというより、ここはコンテ演出の受け皿なんですね。

     Bパート終盤にかけて、一度押さえ込まれた燕の「解放」が、夏目の(曰く「情が移った」)懸命の行動によって、もう一度蘇った瞬間。ボロボロになって取ってきた、人間に見える浴衣を手渡す夏目。先ほどの「夏目を追い抜いた瞬間」と同じで、彼女の感情が堰を切った瞬間です。ここも、序盤の「後ろに控える燕」を積めば積むほど効くし、前半の「追い抜いた燕」までの感情の流れを掴んでこそ「ああ、これもそうなんだ」と感じ入る事のできる部分。「ありがとう」が「ありがとう」に自然と繋がる、心と心のふれあいを描いた、ここも名シーンです…。夏目の表情が秀逸で、ハッとしているんですよね。ありがとうと言われる事を、ここまで言われる事を考えもしていなかった、という表情。打算なく「情が移った」と言い切れてしまう、夏目のニャンコ先生曰く「馬鹿でかなわん」な、良さが滲み出ています。

     このシーンの燕は、今書いたように夏目を追い抜いた瞬間と同じ…つまり、気持ちが昂ぶった時の、あくまで例外。基本燕は、控えめ(立ち位置も、その望みも)。その「基本」を強調してみせたからこそ、基本から外れた時の演出力も増大する…という、単純ながらこの回の核とも言える部分を演出してみせたのが、序盤のコンテだったわけです。そして、最終盤、その演出は綺麗に着地します。

     雨を読む鳥(燕)だった妖、燕の言った通り、夜半から振り出した雨。それは水不足をも解消した。村はダムの中に戻っていき、あれが燕との最後の会話となった。谷尾崎さんに会って燕の、青い浴衣の少女の事を聞いた夏目は、その時の写真を見せてもらう。

     大喜びで駆け出していった割に、燕は結局、「いつも通り」谷尾崎さんの体に隠れるような位置どりで…しかし幸せそうに微笑んでいるんですね。彼女に与えられたガラスの靴=人間に見える浴衣でもって、彼女は何を望むかと言ったら…やっぱり、傍らで一歩下がって微笑んでいるだけだった、と。シンデレラ・リバティの無駄遣い?…いや、燕にとっては、それで十分だったというだけの事。谷尾崎さんにも「口数の少ない娘」と覚えられていたように、その20年にもわたる感謝の想いを、彼女はどこまで伝えられたのだろう…でも、彼女の表情が全てを物語っています。結局、真に燕は「会いたかった」。それ以上なんて何一つ望んでいないからこそ、「会話できた」事で全て満たされている。その量、内容なんてのは大した問題ではない。

     多分ゴールにこの写真があって、この写真に演出が注ぎ込むにはどう描けばいいか、という逆算だと思っています。何も望まないこのシンデレラ(しかも、ダム干上がりと魔法の浴衣、二重の魔法がかけられたのに何も望まないシンデレラ)を、「それが彼女だ」、と感じさせるにはどうすればいいか。彼女の基本状態を描きこむ。そして、彼女の感情が溢れた瞬間のエネルギーも描きこむ。彼女はずっと控えめで静かなだけではない。…それでも、その上で、彼女は20年来の思いを遂げた時、こんな選択しか取らない。…この演出の美しさは、そんな「つまり人魚姫でシンデレラだよね」みたいなつまらない分析を、一気に押し流してくれました。いや、まあ、また別角度で分析しちゃってるんだけど(笑)。観ている時は、とにかくスムーズにこの最後の「寂しい、しかし微笑ましい納得」に自分の感情がもっていかれたので…ただただ感動です。
    心で舞う空

     終盤のクライマックスに演出と納得を集めるべく、下ごしらえを済ませておくやり方は、燕そのものを描くだけに留まらない。「空(と光)」にも及んでいます。空と光はこの回ではワンセット。「光溢れる空」とでも言った方がいいでしょうか。

     時々カットの合間に風景を挟む演出自体は、そこらで見かけるもの。特別なものではありません。ただ、この回で空のシーンを、そして2枚目にあるように燕を描く事は、全て積み上げとして機能します。サブタイトルが「水底の燕」なのに、徹底して描かれるのは空。何故か?それは、ラストシーンが全てを証明してくれますが…燕の内心を描写するものが空だから。今の燕には、翼はない。積み上げた演出が向かう先はどこか。それは明確、ラストシーンなんですね。そのラストシーンに唐突さを感じさせず、必然と思わせる為に、カメラはいつも空を向く。

    夏目「そうだね。僕も好きだよ。やさしいのも、あたたかいのも。惹かれあう何かを求めて、懸命に生きる心が好きだよ。」
     
     …なんて。なんてベタベタな上PAN(カメラが上にあがっていく)でしょうか。しかし、同時に、なんてこの回の全てを掬い上げる、完璧な上PANなんでしょう。これまでも事あるごとに挟まれてきた空を、夏目が見上げたその先。光溢れるその空(2枚目)のさらに先、1羽…空を舞う燕。

     もう、何も要らないですよね。燕が祭でどんな話をしたか?燕は兄弟たちの眠る村に戻る事ができたのか?それとも、燕は成仏する事ができたのか。…全ての問いは、何の意味も持たない。もう、この映像が全てなんですよね。「水底の燕」は、その心は、高く大空を舞った。これが全てです。この「結末を知らない充足」に全てを集める為に、燕の積み上げも、空への視点もあったんですよね。コンテが作品を拡大させ、同時にやりすぎない(別のものを足さない)。…その極致にあるような、素晴らしい回なのでした。「夏目友人帳」の(ここまで観たところの)テーマでもあるだろう、心でもって、全てを等しく並べるというものを、これ以上なく表現してますしね。妖も、人間も、レイコのように既に世を去った人も。心あらばそれは同じだという、甘い、しかし優しい世界観が「夏目友人帳」の世界なのですから。


    オマケチェック〜声優とか演出とか制作とか撮影とか色とか(笑)〜
     
     この回、総合力の高すぎる一話なので、追求しだすとキリがありません。のでコンテ演出を主に語らせてもらいましたが、最後にその辺一緒くたに語らせてもらいます。

     まず、燕を演じておられたのは柚木涼香さん。「声優チェック」にしようか悩んだほど、彼女の演技は素晴らしかった。最初「パクロミさん?」次に「名塚佳織さんかな?」(←こいつ耳ダメだ)と思ったのですが、名塚さんが演じられた場合、よくも悪くも、燕はもっとか弱さを出してしまうと思うんですよね。柚木さんの燕は、どこまでも真っ直ぐで…その芯の強さが、素晴らしかった。男女の情というフィールドには、行きそうで永遠に行かない感じというかな?燕の声は可愛いのだけれど、その想いは全て「彼に会いたい」に向かっているからこその可愛さなんですよね。柚木さんによる「おーい、おーい!」や最後の「人が好きです!」は、そこに変な情が篭っていない・・・燕がそうであるように「会って話をしたい」以外の何一つ感じさせない清廉さを持っていて、だからこそ心を揺さぶってくるものがありました。柚木さん…「武総連金」の斗貴子さんですか!!「臓物をブチ撒けろ!」の人か…orz全然想像できなくて驚いた…声優さんは恐ろしい人種。

     柚木さんと言えば「武装錬金」、武装錬金と言えば制作ジーベック…というわけで(苦しっ!w)。この回、実はXEBECの、正しくはXEBEC M2(第2スタジオみたいなものと思ってください)のグロス回なんですよね。僕にとってジーベックのM2と言えば「ひとひら」という佳作の制作会社という印象が強い。その「ひとひら」も、普通のアニメと比べて淡い色彩を意図的に使った、「色で攻めるアニメ」でした。ジーベックのM2は色彩設定や色指定(前者は作品全体の色決め、後者は各話の色監督みたいなもの)も有していて、今回の「夏目」では、M2の河合真理子さんが色を指定している。今回は、これまでの放送回と比較しても、圧倒的に「光」が強くて…おそらく日照りになるような時期や、この限られた時期の物語、というものを強調する為にブレインズベースの撮影班が手を加えたと思うのですが、その光によって当然色も変わるわけで(アニメでは偶然差し込む光や、それによって変化する色なんて無いですからね!?全部作為ですからね!?)、そのあたり、強い日差しにピッタリ沿う、いつもよりも淡い色使いが印象的な回でもありました。これ、「ひとひら」で使っていたフィルタ処理(http://www.hitohira.tv/staff/hifx.html)を使っているんじゃないか?という気もするんですが…いずれにせよ、淡い色というあたりに「M2らしさ」を感じさせてもらったのは確かです。

     そうやって「ジーベックM2」で考えると、そもそも今回のコンテを手掛けた篠原さんは「ひとひら」第9話「この日を忘れない!」(麦チョコがちょっと笑えるくらいwスゴイ声を出して、朗々と芝居をする最初のクライマックス回ですね)の演出を手掛けている。一方今回演出は、小坂春女さん。(小坂さんと言えば、良作「風の少女エミリー」の監督だな!)小坂さんも調べてみると、ジーベックM2の初制作元請作品「ぺとぺとさん」に演出参加している。グロス回らしく、コンテも演出もM2人脈の中でまわした、純正のグロス(なんじゃそりゃw)なわけですが…それが奏功して、素晴らしい回を生み出したというわけですね。

     「夏目友人帳」は制作会社ブレインズ・ベースが基本的にかなり高めのクオリティを維持している作品なのに、そんな中でグロス回が代表回とも言える一話を生み出してみせた。凄い事だと思いますし、こうやって辿ってみると「ひとひら」の人達がこの真夏の夢のような一話を手掛けるのは、凄く納得がいく…ベストのグロス指定だったと思います。お見事!そこで一言。「そうだね、僕も好きだよ。優しい演出も、暖かい色使いも。素晴らしい物語を求めて、懸命に制作されるアニメが好きだよ。」…おそまつさまでした。夏夕〜空〜♪(←誤魔化している)
  • 夏目友人帳第6話 投稿者:LD <2008/08/19 05:39>
  • #257 絵コンテチェック 演出チェック 夏目友人帳第6話
    投稿者:LD [2008/08/19 05:39]
    <<<親記事]

    > 燕「夏目様、手を繋いでもいいですか?」



    ちょっと、ここの演出についてルイさんと“読み”が違ったので、ここから書きますね。というのは、このシーンで先にビクッとなったのは僕は夏目の方に観えたからです。…で観直してみたんですが……判断むずいなw(汗)でも、僕から観ると、夏目が先に少し動いて、燕がそれに反応しているように観える。その後、夏目が強引に手を伸ばしますが…。この後、書く事にも繋がりますんで、この読みで続けます。
    なんで夏目がビクッとするかって言うと、先に燕が「(自分の兄弟4人は)みんな私のせいで死にました…」っとちょっと不気味なセリフを吐くからなんですね。その後に「夏目様、手を繋いでもいいですか?」と来る。夏目はしばらく無視して歩くんですけど、立ち止まって手を差し出す。その後、握る瞬間も夏目はビクッとなって…でも、自分から強引に夏目と手を繋ぎます。

    どういう事かと言うと、この時点では燕は何らかの厄を持った妖である可能性は否定できていないんですね。実際に、後半で夏目はタルサルに騙されて食われそうになっている。夏目は“そういう事がある”ことは充分識っているはずで。(そもそも最初は燕にも襲われている)だから「夏目様、手を繋いでもいいですか?」にも危険信号が出たと思うんですよ。でも繋ぐ事に決めた。ずっと夏目の側に佇んで、何もせず、ある人に会いたいという燕に何か感じるものがあったんでしょうね。…というかこの時点で既に「情が移った」んでしょうw

    でも、繋ぐ瞬間、その恐れが掌に現われる。→それを感じ取って燕も反応する。→でも、夏目はそうすると決めた自分の意志に従って自分から手を伸ばす。→という順番かな?と。この夏目の恐れを燕が読むから、その後のセリフ…

    燕「…(笑)夏目様はお優しい。そんなだから付けいられるんですよ?」

    夏目「お前が言うな」

    に繋がるはずで。(勿論、その後の「そうじゃない…冷たく気持ちがいいって言いたかったんだ…」にも繋がります)いろいろ全部、呑込んで妖と触れ合う事に決めた夏目の立ち位置が分かるシーンだと思います。また、それは燕が夏目に「どうして…俺にしか見えないんだ」と言わせ、その後に「どうして、俺は見えてしまうんだろう」と言う…心象の“順”にも繋がって行きますね。




    …で、これは多分、原作のセンスなんだと思いますが、この燕のデザイン、目が隠れているところがセンスだなあ、と思ってその事を書きたかった。これがどういう意味を持つのかというと、たとえば燕は口もと、身体、そして柚木さんの声で、その心象を表現するんですが、全部は見えないんですね。顔全部が喜んでいるのか?(目はどんな表情をしているのか?)そうではないのか?分からない。観客の完全な、共感(シンクロ)を拒否している。…拒否っていう言葉はあまりよくないし、完全に拒否しているワケでもないんですが。

    観客からは燕の感情にわずかに霧が掛かるんですね。

    多分、この霧というか人間と妖の距離感って「夏目友人帳」のベース部分のはずで、そこから考えると女性(にょしょう)をしている分、むしろ燕は共感をして欲しいキャラであるとも言えるんですが…でも、薄皮一枚“霧”をかけているはずで。
    きっと嬉しいのだろう。きっと喜んでいるのだろう。そう思えるんですが、その感情を分かち合えないというか…観客は夏目と一緒にそれを眺めている視点からはずれ込まないはずなんです。

    その視点のズレとして、先ほどの「みんな私のせいで死にました…」の後に燕の笑顔がアップでくるのですが、実は目が隠れている事によって、この笑顔の意味が読み切れなくなっている。あのシーンはその後の展開によっては恐ろしいシーンなのかもしれないワケです。その入り込めない要素が、夏目と妖の間の霧と、そしてこの話の場合、燕の“孤独”を際立てる事に寄与しているはずです。孤独って言っても客観的な評価の孤独であって、燕はそんな事を感じていないかもしれない。…でも全部、強がりで本当は泣き出したいほど寂しいのかもしれない。…それくらいの“霧”がかかっているって事ですね。



    燕「やさしいものは好きです!あたたかいものも好きです!だから、人が好きです!」

    (画像から睫毛見えるかな?)だから、このシーンで燕の睫毛が観える事は、僕はすごく意味を感じていて、はっとなったシーンです。ここは今言った、夏目と燕の間にある“霧”を燕が払うシーンだと思います。全部、払いきれるわけではないと思うんですが、燕が自分の気持ちをなるだけ夏目に伝えきりたいと願い、その想いをぶつけているシーンですね。
    …多分、これに合わせるためだと思うんですが、このシーンの前に人の姿をとれる着物を夏目が取る時、夏目は妖たちに混じるために、燕と非常に似た面布をつける。これは妖たちから視た夏目を意味し、夏目から視た燕と対になっている。…で、多分、これはマダラからの視点なんですが面布が破れて、夏目の目が観えるんですね。…マンガ夜話じゃないですけど(よし!)それはその分、夏目の心が伝わっているって事です。面布は取れませんけどね。

    また、最後の写真のシーンも燕の面布はとれているんですが、今度はここでは瞳を見せない。それまでは口元でめいっぱい表情を見せていた燕が、今度はその表情自体を消しています。…これもいい画ですよね。中には「もっとめいっぱい喜んでいてもいいのに…(微妙な表情だ)」って思った人もいると思うんですけどね。でも、ここは「きっとすごい嬉しいのだろうなあ…」と“霧”の向こうにいる燕の心を読もうとする。読もうとさせる。…そういうシーンなんだと思います。