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今週の一番

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#438 理屈の理屈 (#437) 投稿者:LD [2006/11/24_01:55]
そんなにつっこんだ話をするつもりもなかったのですが、まあちょっとだけ。

> アタマで色々理屈つけるのはそれが「楽しい」から

ふっふっふ…その通り。僕が理屈をつけるのは、そうするのが「楽しい」からです。まあ、もうほとんど本性と言ってもいいものですね。ふっふっふ………しかし、その理屈屋は、いろいろ理屈をこね回すことを正当化する理屈もひねり出すものなのですよ?他の人も理屈ゾーンにひきずり込む為にねぇ?んがんぐ!
…というワケでちょっと書き添えます。そもそも言葉というのは(不完全ではあるが)自分の意志を他者に伝達するためのツールであり、理論は任意の対象を定義付け、次回でその説明を省いて伝達効率を上げるための言葉による伝達の一手法です。
たとえば「牽引力」や「展開力(問題悪化力)」「問題解決力」などの言葉について共通認識を得る(次回にその説明を省く)ことによって「面白い」「つまらない」しか、言葉の“手札”を持っていない状態より、はるかに多くの意志を伝達できるようになります。「私は○○はつまらない」→「いや、私は面白い」…オシマイ!よりは少しだけ愉しい状態が生まれます。

A「○○は、展開力のあるキャラが見当たらない。故に面白さのポイントが分からない」→B「いや、それは見方が一元的で、たとえば××の視点から解いていけば、展開の幅が見えてくるよ!」

…まあ、こう単純かどうかは分かりませんが、要はいくつかの単語の共通認識を得る事によってBはAに自分の視点を伝え、AはBからBの視点を受け取る事ができます。それはAの視界が広がり、大変恐ろしい事なんですが「楽しみの範囲」が広がるって事です。言葉ですから不完全ですけどね。
しかし、「牽引力」という言葉を使わずに、その意図を伝達しようとすると、やっぱり“澱む”ことになります。「○○が、××の時に△△をしたのがいい」という言い方は、個々にその場面を切り出すには最適でも、断片の情報になってしまって横への繋がりは持てない。また、それを聞いた相手が何を感じ何を考えるかも指定しづらい。
結局のところ、その“概念”の必要性を説いて「牽引力」という言葉を作ってしまう方が、こちらの意図の伝達は欠損しないんです。どちらも言葉である以上、意図の欠損は避けられないのですが“概念”の方はすくなくともベクトルは示唆できます。また「牽引力のあるキャラが“いない”」といった“零”の表現は概念の存在が先立つものですしね。
LDが意味不明のおたくな語彙を駆使するのは、そういう深〜〜〜い意味があるのです。うんうん。…意味も無く「ブリザガ」とか「ローゼンバッハ物語」とか言っているワケではないのです!(ビシィ!)ウソですけど!(ビシ!ビシィ!)

ただ、そういう理屈屋にも気をつけなければならない落とし穴があります。それは意志伝達のツールであるはずの構築論理に、自分が逆に使役されてしまうという事です。(というか元々「理に屈する」というのはそういう意味なんですけどね)
たとえば自分が「面白さとは展開の意外性だ」という理屈を構築したとします。そうすると作品を「意外性があるか?ないか?」で区分けし意外性がなければ「つまらない」と断じる事になります。
まあ「自分の意図を披露することと、自分の視界の狭さを披露する事はコミ」なんで、ここまでは仕様がないんですが。問題は構築したこの論理に使役されて、ここから出れなくなってしまう時がある事です。「歴史考証が正しくないと面白くない」「科学考証が正しくないと面白くない」冷静に考えれば、そんな事はないのはすぐに分かるんですが、面白い事に、人間ってのは自分でそう考えると、本当に「面白く」感じないんですね。何でって「人間の心は外界の作品の真偽よりも自分の構築した論理が正しい事の方が大切」なように出来ているので(笑)
心象はいつもニュートラルな必要があります。そこらへん理屈が“どういうツール”であるかを認識していれば、そんなに踏み外す事はないと思います。まあ、実はそこを越えると今度は自分の“視界の広さ”に価値基準を置いて、無理に己の心象を騙そうとする「何でも面白い病(あるいは何でもアリ病)」が待っているのですけどね。長くなったので、それはまた別の機会としておきます。

そんなところでLDさんの、ありがたい説法を終わっておきますよ?(←説法だったのか!)

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