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電視の部屋

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#508 作品チェック OPチェック コードギアス 反逆のルルーシュR2 第2クールOP
投稿者:ルイ [2008/07/07_06:44]

作画=松井章・安彦英二・岩田幸大・中矢雅紀・中田栄治
演出=大橋誉志光
コンテ=谷口悟朗
作画監督=鈴木卓也・中田栄治
総作画監督=木村貴弘・中田栄治


 上記のOPスタッフを見て、何を感じ取れるでしょうか。ギアスはこれまで、大量のアニメーターに作画を依頼してきました。かなり有名なアニメーターさんとの「人脈」は既に持っている作品なんですよね。ところが、このOPスタッフにはそれを活かした痕跡が全くない。OPだけでも有名アニメーターに頼むような作品が多い中で、このクレジットの地味…というと失礼ですけど、欲張らなさは意外とも言えるものです。が、だからこそ今回のOPは「演出チェック」に相応しい。スケジュールが逼迫していて、作画で割ける力は本編に注いだ。そんな見方も可能でしょう。ただ、このコンテには優れたアニメーターはさして必要ではないんですね。キャラの作画は木村貴弘さん、メカ作画は中田栄治さんがほぼ修正して自分のモノにする事を前提に、コンテの演出、その忠実な伝達だけを考えたような、作画的欲のない、しかし映像的刺激には溢れたOP。それがコードギアスR2、第2OPです。

 OPの演出、あり方には様々なものがある中で、ギアスは本編の情報量の多さを反映してか、1期から通して「イメージ型」。基本歌詞に合わせる事もありつつも、大量の情報、イメージで本編への期待や予想を促進させるもの。中には具体的にこれからの物語進行に関わるような情報を見せつつ、一方で配置や順番などで、視聴者がイメージを膨らませる…明示と暗示のバランスによって、何度も観たくなるOPになっています。更にはその暗示にも、予感として掻きたてる類のものと、これまでに描写された演出などとの反復や対比などといった繋がりを持たせる事で、理屈でその身に抱けるものまでギュウギュウに詰め込まれている。視聴者がギアスに深く親しんだ後に同じOPを(本編もですが)観たら、まるで別物の情報が得られることと思います。それは本編も同じ事で、それこそがコードギアスです。そして、ギアスのOPは本編からの独立性はほぼ皆無です。OPが独立して話題・文化を作り出したりするような(例・もってけ!セーラー服)タイプとは、対極にあるものと言えるでしょう。この情報は、全て実り豊かな本編に還元されます。…というか、OPという名の本編なんですね。

 予め断っておきますが、僕はこのOPが「全て」意図だけに満ちた演出によるものものだとは決め付けていません。あくまで可能性の1つにそれがあって、中には監督によるコンテ自体が、多分にイメージに根ざしているものに過ぎないかもしれない、という可能性もある。それでも、基本大部分はコントロールされたものであろうし、作品に最も深く関わった人のイメージならば、本人が意図しようがしまいが、そこには作品としての何かが出るものだ、という見方です。なので、どちらにしてもそれなりに深読みはしますよ、と(笑)。

 これは冒頭。一期の頃から何度もOPで使われてきた、バストアップ正面顔を連続して映すという演出。これまでルルーシュ本人が登場した事(1期第2クールOP)もあるので、例えばこの映像を見ている「視点の持ち主」などは想像し辛いものがありますが、とりあえずはルルーシュが居ない時は、ルルによる重要人物への視点、というのが基本と考えて良いかと考えています。今回はこの4人でひたすら…CC→ナナリー→シュナイゼル→スザク→ナナリー→シュナイゼル→CC→ナナリー→シュナイゼル→スザク→ナナリー→CC→スザク→ナナリー→シュナイゼル→CC→スザク→シュナイゼル→CCと、順番を変えながらも4人だけで回します。スザクだけ1つ回数が少ないのですが、まあ押さえておきたいならどうぞ、程度のものかな?それよりこれまでのバストアップ演出との差は、光の当たり方によって同じキャラ、同じ原画なのに、現れる度に違う印象になっている事。これまでは、正面顔を連続して映す時は、刑務所収監の時のように…単に後ろに身長の目盛りがあるくらいだったので、それと比べると演出力は増しています。上の4枚は、それぞれイメージを刺激されたものを代表して登場させてみました。特にシュナイゼルのソレなんて、恐ろしい印象を受けませんか?でも処理をされていないノーマルな時は、いつも通り冷静な切れ者、というイメージを醸し出すだけ。…これは、光の当て方によって印象すら変わってしまう…人の奥深さ、多面性を描いたものと言えるのかもしれません。

 ここは歌詞「優しさだけじゃ癒せない」に沿った演出。沈痛な表情をするジノ・アーニャ・カレン・ニーナの4人。後半に向けた溜めにもなっている部分。このOPの中で気になる演出をされているキャラの一人に、最初に映ったキャラ=ジノが挙げられます。僕ら視聴者は、ニーナやカレンに、こんな表情をするに相応しい、重い事情や十字架、覚悟…様々なものが備わっている事は本編からの蓄積で知っているし、アーニャも前半の積み上げで、何か過去に背負っている事は理解できている。ところがジノは、本編では今の所、スザクをからかう、快活なしかし腕利きのナイトオブラウンズに過ぎないんですよね。これがグループ分けの妙といいましょうか、他の3人と同じ場所でジノを取り上げる事で、ジノにも彼女らに勝るとも劣らないような、「何か」が存在しているであろう事を、本編より先に演出で示しています。

そのすぐ後に、同じリズムで挟み込まれる映像。アッシュフォード学園の校章(或いはアッシュフォード家紋章)、アッシュフォード学園、ブリタニア帝国国旗、黒の騎士団の紋章、そして世界地図。まず、2枚目と5枚目の等価な扱い(同時間)に注目してもらいたい所です。ルルーシュの持つ様々な顔、その全てがルルーシュを形作るもの。アッシュフォード紋章は学園にある学生としてのルルーシュの居場所を、次の国旗と黒の騎士団の紋章は、同じ対象…世界に対しての(だから、3枚目と4枚目の間には何も画を挟んでいない)皇族としての、そしてゼロとしてのルルーシュの居場所を。この3つをマクロ、ミクロの格差なしに等しくならべています。この後に続く画像が、ナイトメアが破壊された時の戦略画面「LOST」であり、歌詞が「奪われたのはなんだ」である事も示唆的。彼を形成する三つは、ただそのまま平穏に、彼が思い描いたままの形で在るわけではないんですね。自らが為したことが絡みつき、奪われも失いもする。「もう失いたくないんだ、何1つ」(TURN13、ルルーシュ)…失う度に(今度こそ)今ある100から1の零れも避けたいと願うその眼前で、現実はそれを奪い、消していく。が、しかし、という物語。それが、ルルーシュという心優しい、優しすぎる少年の物語です。

 ちょっと息抜き…頭を使わない?部分。この後登場するいくつかの場面から、前述したギアスOPを成立させる要素の1つ、明示…明確に情報がつまっている部分が一枚目。それに合わせて、OP中の三大明確情報画面を示しておきます。2枚目は冒頭のルルーシュギアス発動直後に現れたもの、3枚目は後述のランスロット・紅蓮演出の直後に挟みこまれたもの。まず藤堂機斬月が向かう火線飛び交う戦場は、「機動戦士ガンダム」のソロモンを想起させるような、自然物からの建築物。ここまでの情報では「思考?エレベーター」なるものとの関連性を疑ってしまいますね。2枚目は、城を遠くから見つめる3人。シルエットながら、おそらく左からマリアンヌ、皇帝、VVでしょう。マリアンヌとVVが一緒にいる事で、更に皇帝・マリアンヌ周辺の過去に様々な読みを張り巡らせたくなります。3枚目は、いよいよ出てきた地球外。衛星軌道上から地球全土に向けミサイル発射?これまで、ギアス契約時にインサートされる「木星」がとにかく独立したスケールを有していたので、はじめて物語世界と、その飛躍スケールとの架け橋になるような画像が挟まれたと言えます。この三枚には一歩譲りますが、各エリアをただ表示したモニターも、世界規模に拡大した戦場を示すもの。

 このOP演出の最重要ポイントと言えるでしょうか。ナナリーが投げた折鶴は、1期から積み上げられてきたナナリーの願い「優しい世界でありますように」に直に繋がるもの。折鶴は1期で、咲世子さんに「千羽折れば願いが叶う」ものとして教わっている、という情報の蓄積があってこそ、はじめて意味を持つわけです。この辺、まさに本編からは独立しない、同種の情報を共有して味わうOPならでは。その投げられた鶴は、空を舞い、理から外れた所にあるはずの、ギアス契約時にお馴染みの世界にもはばたいていく。虹のような放物線を描いて。R2TURN7でルルーシュ自身が口にしたように、幸せに形があるとしたら、ガラスのようなもの…プリズムかもしれない。それならば、幸せに色があるとしたら…それは虹のような色なのかもしれない。とにかく、ここがOPがシフトする瞬間。ここから暫くは、ナナリーの願いであり、ルルーシュも目指す「優しい世界」に基づいて描かれていきます。

 ルルーシュとスザクの対立の象徴とも言える紅蓮とランスロットが共にあるという感動的なシーン。紅蓮可翔式の下から現れるランスロットは、同じタイプのフロートシステム或いは飛翔滑走翼(ロイドとラクシャータの共作?)を装備しているんですね。手を繋いでいるわけではない、笑い合っているわけでもない。ただ、象徴であるナイトメアの表現だけで、共闘を、理解を、希望を示している。これは、1期最終話で紅蓮とランスロットが各々片腕にサザーランドの腕を装着した時から描かれていたものの、到達点にして理想形です。

 番外編。…ニーナ、完成させていたのかい?(汗)ただ戦争がなくなり、手を取り合うというのではなく「共闘」というビジョンを示した以上、共通して戦う相手がいる。それはこの後映る、衛星軌道上からの攻撃を仕掛ける機体であるかもしれないし…ガニ…(汗)ワンカットで不穏さをMAXまで釣り上げるのは、R2第1クールOPのオレンジさんにも通じる、出オチ気味の破壊力です(笑)。うーん、制御できているように見える。これと宇宙の機体は、ナナリーの鶴からなる優しい世界に落とされた「現実」とも言えるかもしれません。素直に受け取るなら、制御された核エネルギーも、この宇宙の兵器も、全てがこの鶴以後の価値観に則る事になりますが…さてはて。


 主要な登場人物たちが、幸福感に溢れる表情で一気に描かれるシーン。順不同で一部抜き出し。実際はニーナや中華の人物は勿論グラストンナイツやミスローマイヤー、カノンのようなブリタニアサイド、更にはアーサー、チーズ君まで描かれており、敵味方を問わず名のあるキャラはほぼ網羅。ディートハルトまで機嫌良さげな表情を浮かべ、コーネリアもポーズ決めちゃったりする幸せに満ち満ちた世界にあって、押さえておく点はA「この場面のテンプレ(笑顔等)とは違うアクションをしている人物」B「ここにいない人物」となります。基本が「幸福なシーン」として共通理解を得られるシーンだけに、ここでの違和は、意識的に仕込まれているものなんですね。…なお、このシーンにあって最も優遇を受けているキャラは、アーニャでしょう。皆が基本的に画面に顔を向けて映る中、背中を向けた所から、振り向きキョトンとした表情、柔らかな笑顔へと、時間も大目に割かれています。アーニャには中華を舞台にしたあたりから、ルルーシュの過去とリンクすると思われるとても面白い積み上げがなされているので…ここは意識しておいて良いでしょう。次点では、変身アクションまで見せる咲世子さん…でも彼女は存在自体がネ(ry

 「A」集。若干ネタ分に溢れたセレクトになりましたが…コードギアスは学園祭の回に特区日本宣言をかましたり、気を抜けない作品なので、一応。南は一部で密やかに「ロリの気」(笑)を囁かれており、それに沿った演出が本編中でも細かく仕込まれていたので、ある種納得度の高い一枚。黒の騎士団オペレーター3人娘…いつの間にか名前が生まれていた、日向いちじくと水無瀬むつきが双葉綾芽を取り残し、綾芽が落下するシーン。これも仲良し同士での茶化しにも見せつつ、視聴者に(今僕がそうであるように)深読みの余地を残す、とても困った画です。しかも綾芽の声は折笠冨美子さん・・・悪趣味です(笑)。もしくは、彼女の声を持つキャラであるが故に、3人娘というひと括りから1つ上の、愛されキャラ的な属性を付与しますよ、という宣言とも取れるかもしれませんね。3枚目は、なんともイヤーな、しかしコミカルな表情で逃げ気味に先行するヴィレッタと、悠然と微笑みをたたえるジェレミア。ヴィレッタの表情がとにかく面白おかしいものである為「またこの人に捕まっちゃったか(苦笑)」という程度のものに見えますね。…しかし、最後の一枚だけは他の解釈しようがなし。最初穏やかな表情をしていたジノは、厳しい、何かを心に決めたような表情になっていく。…そして、この「優しい世界」は、ジノを最後に通常の、背景のある画に戻る。シンプルに読めば、これは、ジノが終わらせています。ここでも、ジノの先行積み上げがなされているわけです。

 「B」そしてこのシーンにいない人物は、ルルーシュ。…というほど単純なものでもなく。この願いの演出上の発端でもあるナナリー本人。スザク。シュナイゼル。CC。…と、冒頭の正面顔で描かれた人物4人が存在していない事に気付かされます。更に加えるならば、VV、皇帝、バトレーなんて所も。皇族という条件での括りならばコーネリアも居ないはずであり、ギアスとの関わりの深さであるならば、ジェレミアが当てはまる。ジェレミアはキャンセラーという「ギアスありき」の後手能力である為、ギアスそのものが無ければ普通に生きられるかもしれませんが…そもそも、ジェレミアを云々する以前に、この中にはロロがいるんですね。

 敢えて言うまでもない事ですが、この中には更に一人、シャーリーも居ません。…このOPに変更されたその話数で彼女は命を落としてしまった。ので、超短期間的しかもたない効力ながら、シャーリーがいない事も、展開を示していたわけです。これを重く取るなら、今幸福なシーンにいない彼ら、彼女らがどうしていないのか…意識してみるのも1つのアプローチとしては面白いと思います。個人的には、「世界を変えたいと願う面々」が綺麗に省かれていて、その変えられた世界を享受する面々が映っているようにも感じています。シャーリーがいないのはユフィがいない事と同じで、それはもう、願ってもどうにもならない部分だから、ですね。罪の先に失われた命であっても、償って蘇るものではない。…ならば、今いる人だけでも、笑顔を。幸福を。

 さしあたっては、ここにロロがいる事それ自体の方が重要だと思います。TURN13時点の情報では、シャーリーを葬ったのはロロという描かれ方をしている。…そしてそれが事実だったとしても、ロロはここで微笑んでいる。これが、何を意味しているのか。シャーリーの死にショックを受けている感想なども大量にあるのでしょう、そしてそのショックがロロへの怒りに転化している人もいるのでしょうが…冷静に考えて欲しい所です。ロロは、何故ここにいるのか。そもそもの話が、シャーリーの今際の際が、作画レベルからユフィの反復をとっていたという事。ならば…まあユフィに限った話ではありませんが、ルルーシュ自体が、罪を犯してきているわけです。ここに、視聴者にとっての酌量の余地の差云々なんてのは関係がない。ロロは、ある種ルルーシュの反復として、ルルーシュのこれからの在り方を示す為のキャラなんですよね。

 ジノの表情を最後に消えた、優しい世界のイメージ。しかし直後に映ったCCは、満月をバックにこれまでに無いような慈愛に満ちた、としか表現しようがないような表情をしているんですね。古来月夜が持つ映像的な演出力(隠していた気持ちの吐露・露呈であったり、狂気というケースもありますね)と、CCほど結びつくキャラもいない。…これによって、この映像の「視点の主」とでもいいましょうか、画面の向こうにいる人物たちが見ているのはルルーシュではないか、という読みが生まれてくる。ならば先ほどの「笑顔が溢れる世界」にルルーシュがいないのも当然の事ですね。…ただ、前述の通りここには他にもいない人物達がおりますので、取り扱いには注意が必要です。CCの笑みが、僕の読みで言えば「世界を良くしたいと願った人達(小さくはカレン達だってそうですけど、それが最も大きい意味で世界とリンクしている人達)全員に対してのものかもしれないわけです。

 世界を背景にした、世界に手が届く三者三様の在り方を示すカット。色配置によって皇帝とシュナイゼルが、正反対の、しかし同格のものとして描かれています。これまで皇帝という頂点があって、そこを目指すという意味では、抜きん出ているとはいえシュナイゼルも他の皇族と同じ存在だった。それが、この表現。シュナイゼルは、皇帝とは別のやり方でもって、皇帝に比肩する所にまで上り詰める、という事が示されています。…そして、ゼロは、ルルーシュはどうなのか。皇帝とシュナイゼルが赤と青のライトによって(共産とか資本とかは言わない方がいいかな?)世界を映すその中で、同じ位置(格)にいるゼロを照らす色は…やはり、プリズムを照らした光によって生み出される、七色の光なんですね。優しい世界はガラスのようなもの。優しい世界を望む折鶴は、虹のような軌跡を纏い。そして、彼もまた七色の光に包まれる。

 ラストショットは、冒頭がそうであったように、ルルーシュで〆。R2の第1クールOPはCCのカットで幕を開けているのに対し、このOPは始まりと終わりをルルーシュで徹底する事で、「ルルーシュの物語」という基本線を強めにきている事が伺えます。更に言えば、その始まりと終わりも、これまでにない演出的な繋がりが示されている。冒頭とは正反対に、ギアスを手で塞いだかのような動きをした後で、ルルーシュは空に手を伸ばす。それはこの、ギアスを手にする事で始まった彼の物語の行く末を示していて…その手が掴むものを含め、万の想像をかきたてます。更に言えば、冒頭のルルーシュがゼロの衣装を身に纏っているのに対し、ラストのルルーシュはアッシュフォード学園の制服を着ている。彼にとってそれらは等しく大切な、自らを形作るものである…というのは先に書いた通りですが、シャーリーの死がまさに象徴しているように(そしてミレイの卒業が先行して暗示していたように)、失われていく彼の日常が、この学生服が示すように、形は違えど存在し続ける事は出来るのか。空に伸ばしたその手は、虚空を掴む空しい手なのか。今ある幸せを掴んだ満ち足りた手なのか。スザクの手を掴む事から始まった、その手と物語(1期1話アバン)の行き着く先は。…物凄いスピードと濃度で突き進むコードギアスを、その最後の瞬間まで集中して見守りたいと思います。

#507 D.C.II S.S. 〜ダ・カーポII セカンドシーズン〜 (#506) 投稿者:LD [2008/07/02_03:02]
こんにちは。「DCU」では大変お世話になったLDです。…まあ、今も世の中荒れ放題…世間じゃああ「アニキス」のエンドが酷い酷いと評判なワケですが……まず「DCU」を観ろ!と。話はそれからだ!!と。そう思って来たわけです。
「スクールデイズ」で猟奇エンドを観ても「ちょwwww言葉様かっけええ!ww」と言葉様ファンになる始末、「アニキス」の嘘だったエンドを観ても「…まあ、辻褄は合ってるよね?w」と糠に釘な始末、そんな僕が「DCU」のエンドにだけは、絶望したですよ?……orz
ちょっとネタバレせずにあれを語るのも難しいですが、僕は“ああいう”のが一番酷い扱いだと思う。
まあ、最終回と同時に速攻で「SS(センカンドシーズン)」の制作が決定したワケですが…あの状態から挽回のイメージもとくになく……「やっべぇwオラァ逆にわくわくしてきたど!?」などと、チャットでチャラけた会話を交わしながら眼は笑ってなかった。むしろ、ものすごい形相で「DC2SS」の画面を睨んでいた。どういう形相かというと大体こんな感じ(↓)











(すみませんwちょっと偶然、ディスクに落としていたのでw)…まあ、大体こんな目つきでまるで復讐鬼のようにTV画面にかじりついていたのですが……それでも、高垣さんの「泣きの演技」はやられましたね。この作品、本来の出来は普通より少しいい程度だと思うんですが、間違いなく高垣彩陽さんが作品のランクを2レベルは底上げしていると思います。というか石動乃絵とこれ、やれるのってすごいわあ…(感)なんか、もう終わった時は……「DCU」の事とかいろいろ完全に許してしまっていました。
こんだけ震えたのは「十兵衛ちゃんラブリー眼帯の秘密」の小西寛子さんの「さらばでござる……じゃ……ねえええええ!!」以来です。……って書いたら、誰か観る気になるかな?wまあ、それぐらい良かったです。高垣さんは今後が楽しみな声優さんです。

#506 演技表情チェック:D.C.II S.S. 〜ダ・カーポII セカンドシーズン〜 投稿者:ルイ [2008/07/01_06:58]

ダ・カーポ2SS!それは、麗しき乙女達の戦い!
ダ・カーポ2SS!それは、人生の縮図、女の号泣であるっ!!

「いっけえ!私の大好きな弟くーん!(朝倉音姫)」
              〜何故か「人造昆虫カブトボーグV×V」のOP前アバン調〜



 ダ・カーポ2セカンドシーズン(以下DC2SS)は、意外にも発見に満ちた作品でした。昨年放送された「ダ・カーポ2」(以下DC2)が、とにかく構成として酷くて(笑)!半ば怖いもの観たさで観始めた作品だったというのが正直な所だった、の、ですが…今後増えていくであろう、インターバルを挟んでの分割形式。それに即した構成とは何か、であるとか。ヒロインごとに分岐していくギャルゲー世界(並列ヒロイン世界)の物語化、の1つの選択(選ばない選択?)であるとか。かなり色々考えさせてくれる、繰り返しますが意外な(笑)佳作に仕上がっておりましたね。じゃあ「あの」前期は単体でOKなのか…あの構成で半年近く寝かす事は許されるのか…その辺諸々考察したい&語りたい気持ちもあります。ただ、とりあえず今回は「DC2SS」を象徴するものにだけ触れさせていただこうと思います。…それは、ヒロイン朝倉音姫(CV:高垣彩陽)の、泣き演技&作画だろうと。 

 DC2SSが放送された2008年4月期、この作品と最も近い作画的傾向を持っていた作品は「コードギアス反逆のルルーシュR2」だと思っています。どこを指してそう思うのかというと、基本、感想が「作画監督(総作画監督、作監協力、作監補…w)お疲れさまです!」という感情を抱かせるところ、ですね(笑)。ギアスはメカ作画や崩壊・爆発といったエフェクト系作画に関しては、アニメーターさんの癖が結構見える。が、それが日常芝居となると途端に判別が難しくなる。もう、個性を楽しむ作品では無くなるんですね。感情を大事にする作品として、シナリオや演出に沿った、相応しい表情などに向かって、作画監督さんたちが一生懸命整えていく世界になっていく。通常、この「作監でもたせる」システムは、極論「顔が良ければ文句を言わない」層…萌えアニメに適したもので。ギアスはその内包する様々な要素の中の1つに当然「萌え」も射程に入れておりますので不自然ではないとも言えますが、ご覧になっていればわかる通り、作監パワーは主にルルーシュの表情などといった演出管理にかかっています。それは真性の萌えアニメ…アダルトゲーム→家庭用恋愛ゲームの道を歩む本作にも通じるもので、ヒロイン音姫の泣きは、まさにガチンコ演出の管理徹底を象徴しています。

弟くん!(泣)

弟くん!(泣)

弟くん!(泣)!

弟くん!(泣)

弟くん!(泣)

弟くん!(泣)


 上で抜き出した泣き…というか、号泣。それらは終盤5話分からの抜き出しです。もう終盤基本泣き通し。一方で、左にある泣きは、4話。自分達の関係にあまりに似た人形劇を演じながら、感極まって泣き出してしまうシーン。この時点で声優・高垣彩陽さんはかなり全力で泣き出しており、その嗚咽とも言える演技は生粋の萌えオタクや高垣さんファンの一部を軽く引かせ(笑)僕のような人種を狂喜させていたわけですが〜…でも、原画はこの「一枚」なんですよね。この画で口パクしているだけで、音姫はまだ「泣いているヒロイン」に留まるおとなしい描かれ方をされています。それは、作品の序盤であっただけに正しい演出と言えるでしょう。序盤っからあんな(↑)泣き方をされていては、こっちの心が持ちません。そして、その「ただ泣いてる」前例があるからこそ、上の物凄い泣きが、真に迫ってくる。泣いている時の「ヒック」まで作画シンクロさせてきているので、ここにあるのは可愛いとかいうものではなく、単純に「痛い」空間です。この画像集めてるだけでも、心が痛くて痛くて…高垣さんの「可愛く泣こう」なんて考えなんてカケラもない凄絶な泣き芝居(そんな事考えて泣く人も少ないでしょうけど、どこか「残っちゃう」ものなんですよねえ…)と、この嗚咽作画。ここに無いのは、ツバと鼻水だけです。流石にこの辺自重したのでしょうけど(笑)、でも、鼻水が飛散してもおかしくないような、やっぱ「可愛い」だけじゃ済まない表情での泣きが炸裂しています。


 最初に書いた通り、DC2SS(&DC2)には、様々な発見があります。今後分割型作品(特に、1クール×2形式)の作品を観ていく上では、この作品を知っているかいないかで、話を進める際の円滑さがまるで違ってくるのではないか、くらいの感触もあります。…が!敢えて言うなら、この作品は、「泣きアニメ」です。世に溢れた「泣けるよ!」という意味ではなく(いや、別に普通に感動もできるけど…)プロフェッショナルの「泣き」を堪能するアニメ、なのです。極端な話、泣き作画と、高垣さんの泣き芝居。この為だけに観たっていいとすら思います。高垣さんはここ数年、「デルトラクエスト」のジャスミン、「ガンダム00」のフェイト、「ヴィーナスヴァーサスヴァイアラス」のルチアと言ったあたりで大きな役を得つつ、「truetears」の石動乃絵で一部の、というか僕の(笑)心をガッツリ掴んだ声優さんなのですが、この作品の泣き芝居が、彼女を更に成長させたと確信します。聴く価値あり、です…心がキュッとなるけどね。



 最後は笑顔であやひー良かったねあやひー(すっかり役名も忘れて、ただの声優オタクになっている)…っていうか「あやひー」って…(笑)。まあ、この辺進境著しい高垣さんを応援する為の、照れ隠しのポーズという事ですね。照れ隠して恥晒してちゃ世話ない気もしますが。


って、あ!!



 …音姫姉さんの妹さんも、ラス前回の泣き良かったですよ。高垣彩陽さんの妹役の中の人も、なかなか良い芝居でしたよ☆(※)


※名前は朝倉由夢(ゆめ)。声優さんは、妹役の人っていうか、堀江由衣…知名度もなんもかも上であるwまぁ、それほど高垣さんにヤラれちゃってるんだよーというキャラ作りという事でお願いします。

#505 脚本チェック:狂乱家族日記 第10話「無邪気海賊ムジャッキー」 投稿者:LD [2008/06/30_04:32]



脚本:宮崎なぎさ
絵コンテ・演出:中野英明
作画監督:小菅和久
原画:春日井浩之、田村正文、北原章雄、小橋庸介、上野卓志、小林沙樹、小野田将人、亀山進矢、加藤剣、小田嶋俊、伊藤一樹、久保山陽子、大内正彦、吉岡勝、越崎鉄也、飯岡一幸、石田啓一、高橋克之


狂乱家族を知ってるか?粋にご近所で暴れ回っているって評判だ!
今も世の中荒れ放題!ぼやぼやしていると後からばっさりだ!

南の島にレジャーに来ていた乱崎家の前に海賊船が現われるが、その紫ガイコツ海賊団は海の平和を守って新鮮な魚をお届けする皆に好かれる海賊を目指している海賊で鯖を大量に陸揚げしてもらって一安心する。そこに灼熱鮫海賊団のドッゴーン船長が砲撃して現われる。ドッゴーンは紫ガイコツ海賊団の頭領・ムジャッキー船長(釘宮理恵)の父親であるグラワルドの右腕だったが、先代が死んでムジャッキーが後を継いだ途端、裏切った。そして病床のグラワルドから彼の宝の秘密を聞き出していたのだった。宝の地図を要求するドッゴーンに対して、ムジャッキーは無邪気にその存在を認め見せる。そのスキをついて凶華は地図を奪う、しかし不覚にも凶華はドッゴーンに略取されてしまう。家族はムジャッキーの船に乗り込んでドッゴーンの船を追う。電動マーチングホイール航行によって先回りして宝の島に向かおうとするが、思いの外進まず、ドッゴーンの船の前に出ただけで着点してしまい砲撃戦になる。そこに鯖にあたって巨大化した月香が現われてクラーケンとしてムジャッキーの船を沈めてしまう。偶然、宝の地図の場所に漂着したムジャッキーと乱崎はお宝に向かって突き進み、宝の場所にたどり着いた。しかし、そこにドッゴーンが再び現われ、ムジャッキーとドッゴーンは銃を握って決闘する。ドッゴーンは敗れるが実はドッゴーンはグラワルドの遺志を聞いてわざと裏切ってムジャッキーの成長を促していたのだった。そしてムジャッキーはお宝を手に入れるのだが、その宝は「ムジャッキーの成長」そのものだった事がグラワルドの立体映像は告げる。莫大な財宝の期待を裏切られたムジャッキーはすっかり心が荒んでしまい、真に正しい海賊に目覚めるのだった。

…というのが粗筋なんですが…目茶目茶話、詰まっていました。詰まりすぎてて疲れるという意見もありそうですが、普段、ハリハリ言っている僕はこれで全然OKというか大満足です。無駄にテンション高いし…w「水着回」だし…wそれから、次の3点がなかなかコンテの中で利いているというかポイントになってくると思います。


釘「たしかにお宝の地図はここなのさ!!」→手下「…頭領!!」
そのまま正直にドッゴーンの話に乗って宝の地図を見せてしまうムジャッキー。一応、手下の「頭領!(汗)」ってつっこみが入っていますwしかし、この動作があるから次のワンテンポで凶華が地図を取り上げて、ドッゴーンが凶華を略取する(海賊団と乱崎家の目的の同一化)という展開の速さが生まれてます。けっこうファインプレー。


釘「お願いだからもうやめて!海の上で船が沈んだら…みんな死んじゃうかもしれないんだよ!!」→凶華「それでいいのだ…」→釘「え?」→凶華「それでいいのだ!ムジャッキーよ!!」→釘「えええええ〜!!?(泣)」→凶華「ニャハハハハハ!!ニャーハハハハハハ!!」→釘「うわ〜あああん!!」
逆にこのシーンは意味もなく、間が長いんですねw微妙な間というか…テンポのメリハリをつけています。ここはちょっと確認して欲しいですね。テンションに一息入れるというか…ま、コンテの問題かもしれませんが(汗)


凶華「はやい!はやいはやい!!」
宝の島に漂着して宝の在処に辿り着くまで、いろいろ有ったんでしょうけど……全部、この一言で済ませてしまっています。苦難は止め絵を3カットくらい用意して見せるって手段もあると思うんですけどね。その数秒の間も削って行き「はやい!」というツッコミに転換して縮めるそのやり口が好きです。

…という具合に単純に展開を詰め込むだけではなく、相応の技術が駆使されているんですね。詰め込めば「速度」が上がるというワケではない…というより、それだけのやり方には限界があって、結局何を削るか…から「圧縮」するための技術がいるわけです。
これは…脚本の仕事なんでしょうねえ……宮崎なぎささんとは……はああ!「D.C.」の監督さんですか!(というよりWebアニメ「最終試験くじら」の監督/シリーズ構成)……「D.C.」も観てみるかなあ…。

#504 漫研10周年祝辞(?)二十面相の娘チェック 投稿者:ルイ [2008/05/30_08:35]

突然君が居なくなった 受け入れたつもりで眼を閉じた♪

 本日は、このサイト「漫研」様が10周年を迎えられたという事で、日頃の感謝を込めてアニメ「二十面相の娘」をご紹介したいと思います!
・・・。
・・・?
何かこう、日本語として決定的なまでに繋がりがないような…?いや、画像を集めてる最中に10周年という事を知りまして、こりゃもう繋げようがないなぁと(笑)あ、ムリクリでしたが10周年おめでとうございます。LDさんGiGiさんさいこーう!ひゃっほーい!(酷いな…)


 「ルパン三世 カリオストロの城」をはじめて観たのは

・・・えーとそのうち二十面相の娘に戻ります、多分・・・コホン。

 「ルパン三世 カリオストロの城」をはじめて観たのは小学校入りたての頃でした。娯楽作品としても良くできていて、何も考えられないお子様としても十分楽しんだのですが、僕は当時からずーっと、2つの事が気になっていた。「ルパンはどうしてクラリスを残して帰っちゃうの?」「クラリスは、どうしてもっと必死にルパンを追わないの?」・・・今では自分なりの「読み」はもっているんですけどね(でも、人と答え合わせ?はした事ないなぁ)。今思えば、あれが僕にとって初めての「考える物語との出会い」だったのかもしれません。物凄く大雑把に纏めてしまえば、あれは「憧れる少女」と「憧れられる盗人」の物語だった。少女と、盗人・・・そう(ああ強引に戻せたぞ、ホッ)「二十面相の娘」との共通点です。僕はこの作品を観る時、基本「天元突破グレンラガン」と「カリオストロの城」を頭の隅に置きながら、観賞しているのです。構成・テーマ的には「グレンラガン」を、心境的には「カリ城」を比較対象としてイメージして、それをとっかかりにする事で、話が少し見えるようになるのではないか、と思っています。そのうちの「カリ城視点」を主にご紹介。


人に憧れるということ〜チコ(と、クラリス)〜

私にわかるのは、世の中の誰もくれなかったものをここにいるみんながくれたっていうこと。盗賊になりたいんじゃない、皆の本当の家族になりたいの。私、仕事を手伝います。私はおじさんの・・・二十面相の娘です

 美甘千津子(以下、チコ)は資産家の娘で両親が亡くなった後、叔父夫婦に引き取られる。叔父夫婦は遺産目当てでチコに毎日、食事に混ぜて毒を盛っていた。探偵小説に親しんでいたチコは味の違和感から自力でそれを知り、食事を口にせず身を守っていた事を夫妻に告げるが、叔父夫妻は笑顔のままそんなチコの「妄想」を受け流し、食事を勧める・・・
「どこか、ここじゃないところへ・・・」
「この家に残された宝は、千鶴子くんだと思わないかね」
「ここじゃないところへ・・・ううん、おじさんと一緒に行きたい!」
 そこで使用人の変装を解き、チコを救ってくれたのが二十面相。チコにとって二十面相は、まさに「ここ」から飛び出す為の「どこか」の象徴、外界へのドアそのものだったんですよね。チコは二十面相の事を「おじさん」と呼んで慕うのだけれど、ここで作り手もクラリスの「おじさま」を意識しているのではないでしょうか(まあ、足長おじさんはじめ色々あるんですけどね)チコとクラリスの一番の違いはどこにあるか。それはクラリスがどこまでいっても「清らかすぎる姫」だった事に対して、チコは「二十面相になりたい」という想いを抱き、行動に移したという点でしょう。憧れがそのまま「その人になりたい」という同一化願望に繋がるのは自然な事だと思いますが、チコはその為の努力を惜しまず、そして才能もあったようです。
「私は、おじさんをもっと知りたい。おじさんにもっと近づきたい!」
「私は・・・私は、おじさんのようになりたい。」
「いつか、おじさんの全てを知りたいな」

 勿論「カリ城」のクラリスも、彼女なりに「憧れ」の相手と行動を共にする事は考えていて、「私も連れてって!ドロボウはまだ出来ないけど、きっと覚えます!(クラリス)」と言っている。その点では、チコとクラリスには言うほどの差はないのかもしれない。後述しますが、その時手を取らなかったルパン、手を取った二十面相という差の方が大きいのでしょうね。・・・それでも、クラリスの「引き際」の意外な程の物分りの良さは、カリオストロ公国を背負っていたという事情と同じくらいに、宮崎監督の少女幻想と言うか・・・少女への神聖さというものが働いている気がします。クラリスにああは言わせたものの、じゃあクラリスが盗みを覚えてルパンの傍らにいる図、ってまるで想像できません。クラリスがルパンについてくるなら、ルパンは多分、盗みを辞めますよね。それくらいクラリスというのは、ルパン(宮崎監督)にとって神聖で・・・住む世界が違い過ぎるから、盗みの世界にどっぷり浸かったルパンは受け容れる事ができなかった。って、今回は「二十面相の娘」がメインなのでこのくらいにしますが、チコは言うだけでなく実際"ドロボウもできるようになった”事は重要な所だと思います。仲間にも「チコはさぁ・・・最近、なんとなくボスに似てきてないか?」と言われるほど、チコは言動、表情、思考・・・様々な所から「二十面相になりたい」を突き詰めていきます。2年足らずの間に、格闘、ドイツ語、ナイフ投げ・・・毒食事を避け続けたとはいえ読書するだけだった娘が、この変貌。予め持っていた才能に、その才能を生かせる場が与えられたのですね。


人に憧れられるということ〜二十面相(と、ルパン三世)〜
いたずらに闇を恐れてはいけない。生き延びる為に大切なのは、自分で見て聞いて考える事だ。君がしてきたようにね。世界を見にいくかい、チコ

 この作品の主人公はチコである為、おじさんこと二十面相の描写は、それほど多くはありません。但し要所要所で彼のキャラクターが見えてくるような台詞を吐いているのと、「カリ城」のルパンを捉える事で、彼もまた見えてくるものがあります。考えてみれば「カリ城」は主にルパン=頼られた者の物語で、「二十面相の娘」は主にチコ=頼った者の物語なんですよね。カメラの向きの違いといいますか・・・それを利用して、クラリスを観る時はチコを、二十面相を観る時はルパンを観れば色々見えてくる。先ほどチコの項でも書いたように、チコ・クラリスと比べて、二十面相とルパンの差は明確です。それは「二十面相はチコの手をとった(泥棒家業に引き込んだ)」。この事実だけとると、彼はルパンと比較して少女への想いに欠けているような印象になります。しかし、彼は彼で、「カリ城」のルパンと同じような感情を抱いていた。それを感じさせてくれたのが、この台詞。

「生涯を誰かに賭けてもいいと思った事はあるかい?
自分の幸運さと罪深さに慄いたことは?・・・今の私のように。」


 この発言は、二十面相たちを騙そうとして、チコに見破られた女性の「末恐ろしい子・・・あんた、その子を筋金入りの悪党にするつもり?」という発言を受けてのもの。二十面相が「罪深さ」を感じていた事が明らかになります。そしてこの「罪深さ」は、「カリ城」でルパンが感じ、それゆえにクラリスに最後触れられなかった理由となるものです。「バカなことを言うんじゃないよ。また闇の中へ戻りたいのか?やぁっとお日様の下に出られたんじゃないか!な?お前さんの人生はこれから始まるんだぜ!俺のように薄汚れちゃいけないんだよ(ルパン)」ルパンは自分の世界を「闇」として、「光」の道を歩めるであろうクラリスを引き込む事をよしと出来なかったわけです。・・・なら、二十面相はどうして、あの時のルパンと同じ思いを抱いているのに、チコを引き込んだのでしょう?そこには当然、チコとクラリスの環境の違いというものもあります。クラリスはカリオストロを背負う身であり、犬のカールであったり園丁のおじいさんのように「彼女の場所」を示す存在がいたんですよね。一方でチコには既に両親もなく、あそこで例えば叔父夫婦をどうにかした所で、チコには何もなかった。この事実だけでも、ルパンと比べ、二十面相がチコを引き込む行為は幾らか許されるはず。そして、それに加えて、ルパンとの最大の差がこの台詞から見えてきます。
「大戦を経て、私は世界に絶望させられました。
だが戦いが終わってもなお、闇の中で禍々しいものが蠢いている。
そんな世界を、私好みのパノラマに書き換えたいんです。
その為にも、もう1人の私を作り出さなければ」

 この後に「もう1人の・・・それが私だったらいいのに・・・」というチコのモノローグが続きますが、ここでの最大の注目ポイントは言わずもがな、二十面相には、目的(願い)があるという事です。実際彼は戦車を破壊したり、深海に眠る船を破壊しにいったりしている。盗みも行うのですが、じゃあそれで豪遊したりアジトが豪華になるかといったら、そうには見えない。目的の為の手段として「盗み」がある印象ですね。その「盗み」も、彼言う所の「豚」からしか奪わない。おそらく、戦争で甘い汁吸った連中であるとか、彼なりのルールがあるのでしょう。

 ここで「カリ城」のルパン三世を思い出すと、彼には、何もないんですね。正確にはその時その時の「お宝」という名のターゲットはあるんでしょうけど、それは自分にとっての達成感であったり、満足感で会ったり・・・そういうものを得る為の行為に過ぎず、同じ目的の次元や五ェ門、不二子とはつるめても、「そうじゃない」・・・先ほどのチコの項最初の発言を再びもってくるなら「盗賊になりたいんじゃない」娘を巻き込めるような理は何一つないという事を、ルパン自身がわかってしまっている。だから宮
崎ルパンは「アルバトロス」が、「さらば愛しき」が、そして「カリ城」がそうであるように、少女を、平和を、世界を守る為という例外的な目的でやっと動くし、それが彼にとっての「普段の在り様」でない事もわかっているから、その「臨時の目的」を成し遂げたあと去っていくのでしょう。つまり、二十面相とルパンの最大の差は(人を巻き込んでもいいという程の)「目的の有無」という事です。

 比較の結果を纏めますと、『クラリスに盗みや諸々の才能があり、カリオストロが既に無く。ルパンにその才能を利用してでも成し遂げなければならない目的があったとしたら。』・・・僕が今イメージしている「二十面相の娘」は、そういう物語という事になります。


 ここまで「カリ城」との比較で視点の構築を進めてきましたが、あとの構成の部分は、これからだと思います。僕が「グレンラガン」を観ている部分も、その正解不正解も含めて(別に正解だとは思ってないですけどね。1つの見方ってだけで)6月から始まる7話・・・2部から見えてくるでしょう(※)。とりあえず、5月半ば放映の6話で「第1部」というべき内容が丁度終わり、そこからサッカーのチャンピオンズリーグか何かの事情で一週放映がなかったのですが…最高のタイミングでしたね。

ムタさぁぁぁああん!?それなんてピッコロさん!?(とか言いながら涙目)


 突如終わった「夢の日々=二十面相一味との日々」。たとえ盗む相手を選ぼうとも罪は罪、闇は闇を引き寄せ、二十面相の夢の列車に乗った仲間達を葬り去る。そして炎の中に消えた二十面相。炎の中口を動かしていた二十面相は、何を言っていたのか。彼の中のルパン同様の「罪悪感」が強いのなら、それは「すまなかった」なり「自由に生きろ」なりと言った解放の言葉になると思いますし、彼の中でその罪悪感は既にわかっている事、それを感じてもなお進んだ、とという「覚悟」がハッキリしているのなら、それは「後は任せた」或いは一歩進んで「また会おう」?…そういった、同じ線路上の同志への発言になるのでしょう。7話から物語が完全に切り替わると思いますから、今まで観た事のなかった方も、是非観賞されてみてはいかがでしょう。きっと満足…するかはわかりませんが(笑)6話までがピークかもしれませんが(笑)でも、1部を6話に纏めたことからもわかるように、今期屈指の「物語としての構成がある」作品です。

あと、単純に、OP聴いてるだけで泣きそうになるのねorz

 ※憧れとは、相手を人を知る事とイコールではない。現時点でチコの知っている二十面相が、一面的なものでしかないように。では、チコがこの後二十面相の事を知っていって、その中にチコが好ましいと思えないような何かがあったとして…それで、彼女の憧れは消えるのでしょうか。その憧れが本物なら、答えは否、ですよね。例え何を知ったとしても、彼女に世界への翼を、扉を与え、色々なものを与えてくれた二十面相と、その仲間たちと過ごした日々は、チコの胸を焦がし、叩き続けるのでしょう。…そして、彼女は「二十面相になりたい」と言っていたけれど、憧れる事のゴールは「その相手になる事」では無い事がほとんどですよね。タイトルを見てもわかるように。…そう、チコは二十面相じゃない、「二十面相の娘」なんです。←グレンラガン視点の一部提示



 ところで漫研10周年おめでとうございます(笑)!僕にとって漫研は、二十面相のおじさんのようなもので(…え、いきなりおじさん呼ばわり?っていうかお前チコ気分?!)憧れの対象であります。考え方の細かい部分まで同じになりたい、という事はないんですけどね。その精神性の部分では、僕はやっぱり、ここの人達のようになりたい。勿論視点であるとか、考察であるとか…知識。発想。そういう部分で刺激を受ける事はあるんですが、言い切ってしまうと、それは僕にとってはオマケに過ぎない
。そういう考えを、時にはどーしよーもない妄想を(スイマセン)生み出せる、その心のあり方と言うのかなぁ…やっぱり「精神性」をこそ、目標にし続けたいと思っています。歳を取れば頭が固くなる、という可能性を、道の先にいる先輩方がガンガン否定していってくれているのですから。

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