娯楽のハイエナ

議論用のツリー式掲示板です!
日頃疑問に思うこと不満に思うことの
書き込みにお使いください。



表紙 ツリー作成
#288 {作画チェック}{演出チェック}{OPチェック} OPEDのハイエナ 続夏目友人帳 OP
投稿者:ルイ [2009/01/15 00:12]

公式サイト=http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/zokunatsume/
絵コンテ・演出=竹内哲也
原画=奥野治男・川添雅和・小林美由紀・高田真美恵・竹内哲也・田中織枝・松野笑美子・山田起生


 「夏目友人長」は1期目も合わせて、OP・EDが非常に上手く作られています。以前一期EDを紹介しましてhttp://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyen0246.html今回もEDは岸田隆宏さんによる美観溢れるもの。そちらも良いのですが、今回はこっち(OP)でしょう。現代のアニメーターの中でも、おそらくはかなりの重要人物である竹内哲也さんがコンテ演出を手掛け、原画にも参加しておられます。この方の功績は、単純な動きに「動きの魅力」を付加した事…とでも言えばいいでしょうか。例えば「かめはめ波」を放つなら、誰もがちゃんと、かっこよく動かしたいだろうし、力のある方が描けば皆それなりの魅力をかもし出すだろうと。でも竹内さんって、何でもない動作を「溜め」や「揺れ」みたいなものを使って、あと適度な誇張表現とちゃんとしたデッサン力のあわせ技で、何でもなくはなく、魅力的にされるんですよね。それは「日常の輝き」とでも言った、物語の1つの「小さな(しかし大切な)テーマ」と抜群の相性の良さを示す。あと、この方OP等を手掛けても良いものを残しますね…「ぽてまよ」のOPが記憶に新しい所でしょうか。http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0078.html#455今回はそれと比べても、映像表現としての巧みさを感じさせる、竹内さんの奥行きを感じさせるものになっています。


 このAメロ部分が竹内さんでしょうか。右上・笹田さんの振り返って指差しといった動きはまさに得意ゾーンですし、右下の北本と西村に至っては、制服の描き込みから何から。「かみちゅ」でもこんな皺付け見たぞ…。しかし!今回は竹内さんパートを探す事は、重要ではありません。このOPは、アニメOPというものへのアプローチ、その一つの答えを示している、と思います。

 アニメのOPは、ご存知でしょうが基本90秒、という縛りがあります。60〜75秒くらいのものも時たま見かけますけど、基本は90秒。個人的な嗜好の話ですが、自分は1950年代〜70年代あたりの音楽がジャンル問わず大好物なので…かつての「シングルに5分なんてあり得ない(3分以内がマナー)」というポップミュージックの美学に漬かっているせいもあり、この「圧縮」には肯定的な印象しか持っていません。言い方が悪いかもしれませんが、大したアイディアも乗ってない楽曲でも、90秒に「削ろう」とすればその曲のコアを汲み取り、構造もスムーズになる場合が圧倒的に多いと思っているからです。逆に言えば、余程の曲でもない限り長くて3分、せいぜい2分前後で表現できると思っている。TVサイズに聴きなじんだ後、フルサイズを聴くとガッカリする事の多いこと多いこと…そんな事を言っている自分が、こと語る段となると、削る事を避ける方向に走るのだから人間は面白い。って脱線しましたが、とにかく「90秒の主題歌」というものは、既に俳句や短歌のように、1つの表現たりえると思っているのです。

 その90秒の中で主題歌を成立させようとすると、多くの歌は2つのパターンに分けられる事になります。「Aメロ→Bメロ→サビ→(短い間奏)→サビ」か、「サビ→Aメロ→Bメロ→サビ」。「続夏目」のOPは、その後者の作りを表現に活かしたものになっています。



走り出せ前向いてかじかむ手で空に描いた
※左が冒頭のサビで、右が2度目のサビ。

 一見なんでもない日常が、既に妖怪とともにあるという表現として、この前後の差は秀逸です。時間を置いてサビが繰り返される事の「二周目」の良さを、映像として表現している。また、後ろのサビの方が音が高いですから…そちらに強い意味が乗る事も見越してのコンテです。更には、この後の部分が本当に素晴らしい。

君の未来に祝福の灯り







 冒頭と比較して、もっと遠景からの視点で捉えた三連ショットが「と」「も」「す」のメロディにシンクロして切り替わる。こちらのシーンには人間は映っておらず、もっと自然と一体化した「妖怪観」が現れています。特に素晴らしいのが「す」で、冒頭ではただ水滴でも落ちたかのように思われた波紋が、1分ほど経って妖によるものだ、とされるという認識の切り替えは、ハッとさせられると同時に大変美しいものでした。では、この間=Aメロ、Bメロに何があったかと言ったら、竹内さんパートでも抜き出した部分で…人との出会いなんですよね。



 一枚目の田沼は確か霊感を持っているのだけれど、それが大変弱いものである事もあってか、この描かれ方だと完全に「人間側(夏目にとっての)」になっていますね。それが徐々に切り替わっていって、5枚目の…祖母レイコさんに似てるけど、髪ちょっと短いし新キャラかな?と、名取さんというおそらく「妖怪との中間サイド」を描き、そこから冒頭画像のレイコ(妖力絶大)→夏目、という風に繋げていく。

 つまりは大雑把に人→妖怪という距離の遠い順を人物で並べたようなものになっているんですが(繰り返しますけど、田沼の位置がちょっと可哀想ですけどね。多分夏目にとっては妖怪を知る人間、という存在肯定の「きっかけ」としての友人であって、別に彼と妖怪を通じた物語を紡ごうとは思っていないのでしょう。木の葉背景のシーンは、全て等しく夏目にとっての「日常」と認識されている人たち、という事だと思います)…これは作品そのもののテーマ或いは語り口と合致する部分で、結局夏目にとって、妖怪も、人も、故人も、大差はないんですね。彼自身は間違いなく、妖怪から得たものを人間関係にフィードバックさせているし、逆に人間関係で得たものを妖怪との接し方に用いている。つまりは彼にとっては、もしくは「夏目友人帳」の世界観として、存在が違っても、「心」が同じならば分け隔てする意味はないといった多少楽観的な認識があるはずで…それをこのAメロ、Bメロが上手く表現しています。こうやって人々と接していき、レイコの想いを汲み取り、という日々を経た結果として、視聴者の目に映る認識も2つ目のサビの映像=夏目の認識になっていくという、このあたりの映像としての繋がりが気持ち良いOPです。そして、その2つ目のサビに持っていくのは、ニャンコ先生。

 ニャンコ先生が元の姿で空を駆け、その白い稲妻のような軌跡が空を割き、画面が光に包まれる事で2度目のサビ映像に繋がっていく。この物語がニャンコ先生と出会う事から始まった事をとっても、シフトの象徴として妥当な位置ですし、映像的な韻として、ニャンコ先生がサビ前に変身して空を飛んだ、一期OPも考慮に入れられていると思います。

 最後に、1つ面白い仕掛けの部分。



切り開けその手で 聞こえてるかいこの声が

 ここも「走り出せ」の部分と同じような演出を組んでるんですが、ちょっとした違いがあります。「走り出せ」の部分では、人間達と妖怪経ちは全く影響を与え合っていない。簡単に言えば、夏目の眼前にヒノエ達が存在していても、そちらに目を向けたりはしていないんです。日常に溶け込んでいるカタチですね。「ともす」の部分は先ほど触れた通り、人間が映っていない中の妖怪と自然の関わり。ではここは、というと、人間(と、現在そちら側に属しているニャンコ先生)は、皆妖怪の動きの影響を受けている。一段目では名取が柊たちが現れた事に気付いて顔を上げているし、二段目では通り過ぎる小さな妖怪たちに、ニャンコ先生は目を向けている。…で、三段目です。三段目の彼女は、先ほど触れた新キャラ?らしい帽子少女なんですが、彼女は冒頭サビ時は、他の2人(1人と1匹)と違ってリアクションを取っていない。ところが、2度目のサビではハッと振り返っている。後ろの歌詞は「聞こえてるかいこの声が?」
…ここがちょっとした仕掛けですよね。

 単純に妖怪いるいないの差異だけで演出を徹底させたいなら、この帽子少女は冒頭サビの時点で、絶対振り向きます。振り向かせるはずです。で、ニャンコ先生の空間への目線など同様こちらに「違和」を感じさせて、2度目のサビで答えを提示する。このやり方でいいはずなんです。…でも、ここはそういう描き方をしていない。恐らくこのカットだけ、ちょっと別の演出が仕組まれてるんですよね。通り過ぎる巨大な顔の妖怪が、妙に透けている事も含め、この少女が最も「妖怪を感じ取れる人間」としてのギリギリという立場として、二度目でようやくちょっと気付く(「聞こえてるかい?という気付きの促しとのシンクロ」)事が出来ていると。多分この辺、意図的に組んでると思います。既に夏目は、一期一話の頃言われていたような(いや、正直一話の頃からあんま感じなかったけどw)妖怪に対する苦手意識は無くなっているでしょうから、それを伝達するような相手として…夏目の道の後ろから歩いてくる少女、とでも言うような位置になるかな…?とは思っているのですが、まあこのあたり「続」の構成の1つポイントになると思うので、お手並み拝見といった所ですね。

 こういった細かい演出も含まれていると同時に、何よりTVサイズ主題歌に抜群に合わせた、良コンテです。歌詞に細かく合わせていくやり方とはまた違う、全体としての歌との適度な距離感が、なんとも言えず美しい。お見事です。
  • {{作画チェック}}{{演出チェック}}{{OPチェック}} OPEDのハイエナ ドルアーガの塔 〜the Sword of URUK〜 OP 投稿者:ルイ <2009/02/11 04:12>
  • {{演出チェック}}{{OPチェック}} OPEDのハイエナ 獣の奏者エリン ED 投稿者:ルイ <2009/02/10 21:59>
  • {{演出チェック}}{{EDチェック}} OPEDのハイエナ 黒執事 後期ED 投稿者:ルイ <2009/02/10 21:19>
  • #307 {作画チェック}{演出チェック}{OPチェック} OPEDのハイエナ ドルアーガの塔 〜the Sword of URUK〜 OP
    投稿者:ルイ [2009/02/11 04:12]
    <<<親記事]

    公式サイト=http://www.druaga-anime.com/
    絵コンテ=千葉孝一
    演出=高橋幸雄
    作画監督=高岡じゅんいち
    原画=赤尾良太郎・夏目真悟・瀬川真矢・藤澤俊幸・石川哲也・垪和等・塚田浩徳・千葉健二・外崎春雄・若林信・清水健一・西尾公伯・所二郎・武智敏光・加藤真人・小野和寛・柴田淳・池添隆博・永作友克・藤井慎吾・田中宏紀・森光恵・小田裕康・寺岡厳・樋口靖子


     「ドルアーガの塔」2期OPです。作品の展開や構成自体にはコミック版「ウィザードリィ」の影響を色濃く感じるんですけど、あれを読んだ他の人もそう感じるのかな?ドルアーガ製作者遠藤さんとウィザードリィは切っても切れない繋がりがあるので、妥当な引き合いだとは思うけども…さて。

     アニメ版ドルアーガを通して感じるのは「2000年代の憂鬱」…いや憂鬱という解釈はちょっと一方的でズルいんですけど(笑)物語を知り過ぎてしまったものゆえの悩みであったり。そういうものが色々感じられて、親近感を覚えながら鑑賞しています。
     
     考える事が愉しさに繋がっているタイプだから僕らは言葉を操り思考をするけれど、一方で「思考に支配されたくない」とも思うわけです。単純に感じる、という事を蔑ろにしたくない。…でも、知っている事を知らないとする事もできない。凄く面白いゲームを遊んだり、物語に触れた後「忘れてもう一度楽しみたい!」と思った所で、現実的にはそれはほぼ不可能だという事と同じように。先ほど僕がコミック版WIZを引っ張ってきたのもまさに典型で、「○○のように」という言葉の使いやすさとその拘束力は強烈です。今、特にライトノベル作家にその「悩み」は多いんじゃないかと考えているんですけど、構成の賀東さんに限らず脚本家にラノベ作家陣がいるこの作品には、その悩みをストレートに感じます。

     …まあ憂鬱・悩みというのは僕の主観の「角度」の問題で、本人達は自覚的に作劇を組む事を愉しいと思っているかもしれない。そこは知る事の楽しさと悩みはワンセットみたいなものなので、単純にどちらと言い切るのも難しいのでしょうね。既に知っていると自覚してしまった以上、自覚的にならない上では書けない作れない。その事を大きく捉えると、先ほどのような憂鬱・悩みというワードに繋がるんですけど、一方で「だからこそ出来る」事もあって…今の世代に周知の情報をショートカットして、更に先の物語に進もうとするのが「記号」をはじめとした情報圧縮術というものですし、お約束というものを細分化させた「フラグ」を上手に操るのも、また物語としての充実を生みうる。そちらを大きく取れば、悩みはそのまま愉しみ、憂鬱はそのまま喜悦にも変換しうる。この辺、どちらと言い切るのも野暮なのでしょうが…とにかく、「ファンタジー物語を知っている(知ってしまっている)僕らのファンタジー物語」というものに真正面から取り組んでいるのが、アニメ「ドルアーガ」なのでしょう。そんな作品ですから、OPが高次からの視点で作られているのも、やっぱり自覚的…作品に沿っていると思いますね。

    ※ちなみに、そういう事を考えながら観ていると、上のワンシーンが物凄くファミコン「燃えろ!プロ野球」に見えてくる(笑)わざとドルアーガ原作と世代リンクさせているかな?

     1期同様、キャラクターをそのまま現実世界に落としこむ手法で作られているこのOP、今回その割り切りがずっと良くなっています。OPの中で描かれるドルアーガ世界は、自主制作映画として映るスクリーンの中のみ(劇中劇中劇?w)。現実とドルアーガ世界の描写が織り交ざっていた1期と比べ、完全に現実世界に特化した分、逆に意味性は増していて、色々と「読みたくなる」OPに仕上がっているのですが、個人的に「これはいいな」と思うのは、一期から続くこの手法のパワーアップ。



     一期からスタッフ表記の中にキャスト名を織り交ぜてはいたんですが、今回はそのキャスト表記を、ほとんどのキャラクターに対して行っています。スタッフは漢字、キャストはローマ字という使い分けがなされている…僕はこれ、アリだと思うんですよね。全ての作品がこうすべきだ!なんて事は思わないものの、キャストの皆さんも「OPに名前が載る」というのは単純にモチベーションが上がる…作品への参加意識が増すのではないでしょうか。一方で、作品世界に耽溺させるような作品には向かない(スタッフと違い、キャストさんは声=人と線が引き易いので、嫌でも作品世界の「外」が透け出てしまう)とも思いますけど…選択肢の一つであってもいいじゃないか、と。ドルアーガの専売特許にしてしまうのも勿体ないアイディアだと思います。

     作中より先に顔とキャストを明らかにしている斎藤千和さん(一期でマイト・ザ・フール…レッドナイトじゃなかったっけ?)と、音響監督にしてメルト役なので、一石二鳥とばかりに漢字表記だけで済ませている郷田ほづみさん。このあたり、色々と遊びがあって面白いんですが…

     ジルのチーム側ベンチに、何と一期でお亡くなりになったはずのアーメイさん(左端)。胸に早水リサさんの名前があるのが泣かせます。ただし、どう捉えたものか迷うワンショットでもある。ここに登場したという事は、実は生きている?…その一方でユニフォームの上にブルゾンを着込んでいるわけで、「既に引退(野球と、物語から)している」と捉えるのが妥当なようにも思います。そうだとしたら、早水さん名前だけ出されてノーギャラ?登場損?w…ってまあ、忘れ去られるよりこうやって描いてくれたほうがずっとあったかいですけどね。アーメイは監督としてジル達を見守っている。いいじゃないですか。これはアーメイの生死とはあまり関係がなくて、だからこそ1期パーティメンバーだったメルトは審判であり、クーパはスタンドで応援してるんですよね。当事者から少し距離を置いた、という点で共通している。

     で、まあ…単純にスタンスだけで楽しいOPながら、ポイントを挙げるとすると二点。野球の試合展開と、ファティナの位置。

     作中展開同様、ニーバとジルの兄弟対決となっていく野球。ヘルメットにあるKとMという表記がちょっとわからない部分です。…名前ではないし、愛している女の名前でもない(ジルがFなら面白いのに!畜生!w)思いつくのは、K=カイ、カーヤ M=メスキア、マルカ(親父)などあるのですが、上手くKとMを繋げられないんですよね。Mチームはベンチを見ても、メスキア連合って感じなんですが、じゃあKって…カーヤ軍?ちょっと保留で…orz

     この試合、カイが投げている間にニーバのチームがボコスカに打ちまくって(先ほど画像でピースするカイがいたが、自信があったり決め球宣言でピースしていたわけではない。単に「ピースをしょっちゅうするキャラ」だからピースしていただけw)50点以上取っている。対するジルのチームは0点。で、9回裏。ランナーのいない状態でローパーに代わってジルが代打に(どんだけ!ローパー!w)。…勝負は決してますよね?「逆境ナイン」ならここから大逆転劇が起こる所ですが、ジルの次にはフツーにこれまで抑えられてきた打者が立つわけで、どうにもならない局面に思えます。でも、そこに敢えて立つ事に意味がある、とジルをここまで押し上げたのは、ファティナ。


     寝坊しているジルを布団ひっぺがして叩き起こすのもファティナ、バッド持って試合に急かすのもファティナ、ユニフォームも着てないジルの背中にペンで名前書いてあげるのもファティナ。

     一期OPでもジルの幼馴染ポジションにいたファティナですが、ニーバパーティに収まっていた当時と異なり、今回は作中でも「一期ラストでニーバとカーヤに去られた後、メスキアで爛れていたジルとファティナ」という状況がある為、本編との位置シンクロが起きています。本編ではドルアーガへの再挑戦はジルの方が乗り気で、ファティナは渋々ついていくような関係なんですけど、このOPでは描かれ方が違う。おそらく、序盤に限らないもっと大きい視点で眺めているのではないでしょうか。ここでのファティナはとにかくジルを叱咤し、送り出すという立場が徹底されている。特にそこが映像として出ているのは、ここですね。


     ニーバのフォークボールにあえなく三振したジルに「まだ諦めるな!走りなさい!」とばかりに大きな動作。ジルに気付かせるファティナ。キャッチャーの悪送球でボールが外野を転々とする中、今度は三塁ベースコーチャーの位置に立って腕を回しGOサイン。この三塁コーチャーの「位置」が、極めて象徴的ですよね。ジルはファティナの眼前まで走っていって、そこから全力で離れていく。目指すのはホーム、そして…

     ホームで間一髪セーフ、倒れこんだジルに駆け込むのは…カーヤ。文字通り「一矢を報いる」展開でしかなくて、だから野球の試合自体がどうなるというわけでもないのですが、諦めなかった結果が野球ではなく別の形、女性となって現れています。これはドルアーガ2期に通じている感覚で、2期開始時点がまさにこの9回裏、という事なのでしょう。

     二枚目、ちゃっかりニーバとファティナが並び立っていたりするあたりが示唆的です。本編では一期ラスト、ジルとファティナを見捨てて幻の塔へと登っていったニーバとファティナ。描写からするとカーヤはジルのことを「大切だから残した」わけで、ジルに好意を持っているのは明らかなのですが、それからの日々で、ファティナもジルに惹かれだしている。一方ニーバはファティナにあんまり情を感じてないっぽいし(ま、パズズ戦で弔い戦とばかりにわざわざカリーのナイフ使ったりする男なので、それもポーズの分はあると思いますが)ファティナも特別にニーバに惹かれる理由が描写されていないので、どうしてもここは「ジルを巡る、カーヤとファティナの争奪戦」という図式が強く浮かぶのですが、その視点からするとこのOPでの「送り出す幼馴染」はいかにも分が悪い。

     というか最後ジルとカーヤ見つめあっちゃってるし、EDはカーヤのプロモーションビデオみたいなものだしで(笑)…予言として強烈すぎるんですよね。フラグ外しもお得意のスタッフなので、この辺楽しみに見ると同時に…どう転んでも、一番美味しいのはファティナだとも思います。ジルに惹かれる彼女が、三塁コーチの境地にどう達するか達しないのか…愉しみじゃないですか。物語に漬かりきった作り手が、この三角関係にどんな味付けを加えるのか。恋愛成就が即ち「○○エンド」なんて、短絡的ですよ。うん。

     ちなみにこのOP、ここまで徹底してスタッフやキャストの名前を出しているのに、ここまで大活躍しているファティナ…堀江由衣さんの名前が存在しません。一期OPでは、「堀江」ってユニフォームに描かれてたけどなあ?…それで怒られた(笑)?1人だけ有名だから免除された(笑)?と、この辺どう読んでも楽しい部分ではあるんですけど、どうなんでしょうねえ…ファティナから敢えて声優さんの名前を外す事で、ジルに限らず視聴者を叱咤し、送り出すという「作品の代弁者」そのものに仕立てたのかもしれませんね。9回裏50点差、諦めんなと。三振しても走れと。



    …ちなみに、ここが田中宏紀さん原画パートですよね(笑)!←ここしかわかんなかった奴
  • Re:{{作画チェック}}{{演出チェック}}{{OPチェック}} OPEDのハイエナ ドルアーガの塔 〜the Sword of URUK〜 OP 投稿者:Ace <2009/02/20 21:26>
  • #309 Re:{{作画チェック}}{{演出チェック}}{{OPチェック}} OPEDのハイエナ ドルアーガの塔 〜the Sword of URUK〜 OP
    投稿者:Ace [2009/02/20 21:26]
    <<<親記事]
    最初にファティナが自転車乗っている場面で、
    ピンクのカバンにYuiって書いてありますよ。
  • Re:Re:{{作画チェック}}{{演出チェック}}{{OPチェック}} OPEDのハイエナ ドルアーガの塔 〜the Sword of URUK〜 OP 投稿者:ルイ <2009/02/20 23:33>
  • #310 Re:Re:{{作画チェック}}{{演出チェック}}{{OPチェック}} OPEDのハイエナ ドルアーガの塔 〜the Sword of URUK〜 OP
    投稿者:ルイ [2009/02/20 23:33]
    <<<親記事]
    > 最初にファティナが自転車乗っている場面で、
    > ピンクのカバンにYuiって書いてありますよ。

    なんだってー!…何で気付かなかったんだろう?
    とまれありがとうございます。
    ヘルメットの答えも随時募集しております!w

    その後、千和さんキャラとクーパが行動する事になったり
    やっぱり示唆に満ち満ちたOPでしたねえ。

    #306 {演出チェック}{OPチェック} OPEDのハイエナ 獣の奏者エリン ED
    投稿者:ルイ [2009/02/10 21:59]
    <<<親記事]

    公式サイト=http://www3.nhk.or.jp/anime/erin/

     歌詞含め、とても好きなEDです。映像も極めてシンプル。OPとはえらい違いだよ!!…って敵意こもってるな(笑)。いや支持者が多い事は知っているものの、スキマスイッチってあんまり好きじゃないんですよねぇ。メロディが泣かせに特化してるのなら、歌い方はもうちょっと歌世界と距離とってよって「こなぁ〜、ゆきぃ〜」の頃から思ってまして。今回のOPでいくと、ラストの「君を抱いて歩いていこう」のあたり?日本人はやっぱり民族として「演歌」が好きなんでしょうね。僕はどっちかというと北欧のトラディッショナルフォークの方が好きだから、そういう歌世界と伝達者との距離感を求めるのかなあ(中世のトラッドって、かわら版みたいなもので…歌い手は自分を不在にする事から始まるんですよね)、と自己分析したり…おおっと脱線。まあ、OPもEDも近い所を歌っているんですけど、直接的でない分EDの方が「染みる」ねえ、という程度の話です。

     雨粒をピアノの一音一音に合わせる、単純ながらアニメーションの良さが詰まった部分。いうまでもない事ですが、雨粒は涙を想起させるもの。雨が降ったら虹が出る。古くから何度使われてきたかわからない「止まない雨は無いんだから」の類ですね。それをもうちょっと遠くから眺めると、雨が降ったから美しい虹が出る、という世界の循環、表裏一体の話になる。それだけの事です。でも、「何度使われてきたかわからない」から「使わない」なんて論法はおかしいわけで。何度も使われたなら、それだけの伝達力がある。じゃあ、使いたければ使えばいい。そういう、気を衒わない良さがあります。

     絵本を意識したと思しき線や色合いも素敵です。…この作品、おそらくは子供の目線を通して「世界(社会)を知る事」を結構真正面から描いている作品です。この世界で戦馬のような役割を持っている生物「トーダ」について、生物だから仲良くしたいの!とエリンが極めて「子供として正しい事」を言っても、この国のシステム自体がトーダを一方的に使役する事でしか成立していない。トーダがいないと国も守れないという、常時異民族の脅威に晒されてきた中国のような構造を持っているんですよね。

    ※でも、エリンは子供なので…村の行いにはむかってトーダを必死に守ろうとしても、あまりイラッと来ないのがポイントですね。エリンは子供心としては間違っていないから、だからストレスにならないのだと思います。…但し結果、自分のせいでお母さんが土下座して謝ると…子供には怒られるよりこの方がいてえ…orz

     人間の操る笛の音を遮る耳膜があるという事は、トーダって人間に使役されないように進化してきたんじゃないか?とすら思えるんですけど…とにかくその耳膜をちょん切らないと、トーダは使役できない。例えその時トーダが痛ましい悲鳴をあげ、それが心に辛くても。それも全てひっくるめての掟・制度・社会=世界であると。

     こうやって世界に向き合えば、「雨(涙)」というものも不可避で。じゃあどうするかといったら、歌詞の通り「After the rain」なんですよね。悲しみは消えないからこっそり楽しい思い出に混ぜよう…そして、雨が上がったら何から始めよう。もう、歌詞が全部語ってます。母から様々な事を学んだエリンが「after the rain」、何から始めるのか。まあ、描こうとしているものがOPED本編どこからも同じものが見えるだけに、とてもわかりやすく、そしてハッキリとした倫理観をもった良い作品ですよ。展開を焦っているように見せない描き方が良いですね。序盤の5話くらいは、もうこう描く以外にないと思います。これを3話とかで纏めちゃダメだよなあ…。普段速度速度言っててもそう思います(笑)。母との日々は、彼女のコアになるのでしょうから。

     ち、ちなみに傑作true tears主題歌「リフレクティア」のジャケットに虹が出ているのは、このエリンEDと全く同じ意味合いなんだからねっ!べ、別にどうしてもってわけじゃないけど、そのあたりできたら見逃さないでよねっ!(ツンデレ調)

    #305 {演出チェック}{EDチェック} OPEDのハイエナ 黒執事 後期ED
    投稿者:ルイ [2009/02/10 21:19]
    <<<親記事]

    公式サイト= http://www.kuroshitsuji.tv/
    絵コンテ・演出=篠原俊哉
    作画監督=芝美奈子
    原画=清水裕実



    白薔薇の花言葉を調べてみると「尊敬」…尊敬。セバスチャンがシエルに「尊敬」。おお、美しい。

     ダベり好きが高じて普段どうしても文章を長くしてしまうタチの僕としても、さすがにED通して原画4枚PANしてるだけじゃあ語る事ないぞ?みたいな(笑)。しかし、様々な状況を踏まえても極めて良質なEDだと思います。まず単純な事実として、「2クールアニメの後半は制作がキツキツ」。しかし新EDを作らなくてはならない。では、どうするか?その問いへの回答として、かなり美しいEDでしょう。監督が直々にコンテ演出を行う代わりに、アッサリとした静止画。一枚一枚のカットをちゃんと描く事で画面を持たせながら、あとは映像自体の持つ意味、主張で押し切る。ここまでシンプルに90秒世界を完結してみせたら逆に見事で…引き算を極めたようなものになっています。そしてその引き算は、作品への問いに答える事で完成している。

     先ず「“黒執事”とは何か?」→「貴族シエルと、執事セバスチャンの関係性である」。誰でもわかる事ですけど、完全に他のキャラを排してみせた所がその徹底になっています。では次に「その、シエルとセバスチャンの関係性とは何か?」→「契約関係である」。これがポイントです。この2人の関係、もっと色々なものが見える。見えるけれども、最終的には?と言ったら、まず情とかいったものを通り越して、人間と悪魔の命を用いた取引、契約関係に過ぎないわけで。ある意味で「地獄少女」の「紐解いたら契約完了、でも死んだ後魂地獄ね」に近いのですが…「地獄少女」観ていて、その死後のペナルティって感じます?触れない事でワザと「死後」のリアリティの希薄さを表現しているようにも思うのですが、僕はそこがどうしても好きになれない。契約なら、取引なら。対価をなあなあにしてはその重みは出ないだろうと。話を黒執事に戻せば、それは紛れもなく「シエルが死んだ場合」の話なんですよね。

     黒執事は現在も連載中の作品なので、アニメ版が「そこ」まで到達するかは不明です。作品に終了したというイメージを与えられても困るでしょうし、まあオリジナルとして好きにやっちゃって下さい!という作品もある一方、そうでないものもある。ので、この選択自体には、僕はあまり価値を見出していない…というか「描いてくれるなら嬉しいけど、描けないならそういう外部の事情も関わるのだろう」程度の悠然とした構えなんですね。但し!直接描く描かないは別としても、この「核」を感覚として持っていてもらわないと、話にならないとは思っている。その点で監督の篠原さんは、最初のOPからベンチで眠るシエルが消える絵でもってそのあたりの暗示をしっかりと残している。今回のEDで極まったような形ですが、ここを蔑ろにする作り手の「黒執事」なんて安心して観られません。そういう意味では、このEDは約束手形のようなもの。このEDがある限りどう終わったとしても認められるね、楽しめるね、という、篠原監督の視点を保障するものになっていると思います。あとはまあ、ラストカットですけど…これは篠原監督の趣味かなあ…

     完璧にベックリンの絵画「死の島」ですよね。黒執事なのに白薔薇を撒いているのは、「死の島」で描かれているのが白い棺(くろしつじとしろひつぎ…ゲフン)だったから、というのもあるのでしょうか?

     僕はPS2ゲーム「ICO」と関連付けてこの絵画を記憶しているんですけど、ICOというゲームは、村で1人角の生えた少年が生贄として島に送り込まれて、そこにいた少女と共に小船で脱出する話…色んな暗喩が感じ取れる設定になっています。「死の島」は、あの作品の感覚に通じるものがある。まあ、ICOとムリに繋げなくても、死出の船出というくらいで。我々にとって死のイメージと「船(水)」のイメージは密接に結びついている。ですから、シエルを乗せた小船を濃いで死の島へと進むこの映像は、誰が観ても、死の島もICOも知らなくてもピンとくるものがあるのではないでしょうか。簡潔にして十全。篠原監督の美観が世界観の奥底とジャストマッチした、美しいEDだと思います。うーん、結局原画四枚にここまでダベる人とはエラい違いだね(笑)!