■序列型ヒロインと並列型ヒロイン
ここで序文において書き出したヒロイン構造「序列型」と「並列型」の話に立返ろうと思う。これまでの文章の中で僕が「螺旋戦士」(笑)などと名付け、紹介してきたヒロインたちは雨宮を含めて総て「序列型」に属するヒロインである。再三述べたように「序列のルール」が働き、その格付けによってある一定の展開の幅を制限されたヒロインたち、雨宮を例外として述べているが、概ねそういう存在と言っていいと思う。
このキャラクターの展開に優先順位をつける「序列」は長らく作劇の基本であったし、そこはマンガの世界において、今も大きくは変わっていないように思う。…しかし、何時の頃からか「並列型」という考えが入ってきた。「並列型」の説明も序文で述べた通りだが、この場で一言でいうならば“並列”に扱われて序列の制限を受けないヒロインと言える。
…何時の頃からか…などと言ったが、結局の所、これも昔からある構造と言える。TVドラマなんかでも複数ヒロインの体制をとるもの、ダブルヒロインの体制をとるものなどがあり、これはマンガやアニメの世界も同じで、普通に物語の構造を作る1パターンとして存在してきた。
しかし、やはり何時の頃からか…である。この「並列型」のヒロイン・パターンがある指向性を持って求められるように時代が移り変わってきた。ここらへんの経緯を詳しく語るのは、僕もまだ情報と思考の精査をしていないし、またの機会とさせてもらいたいが、マンガ史的に言えばやはり「うる星やつら」(1978年)の登場は外して考えられないのではないかと思う。複数のヒロインを持つも構造としては強固な「序列型」。ただし「藤波竜之助」や「鎧娘・飛鳥」など一編一編のシリーズにあたる物語は「並列型」に扱われていたのではないかと、僕は考えている。
そして、それ以上にゲームの世界において「ときめきメモリアル」(1994年)、あるいはそれより少し前のPCゲームからの恋愛シミュレーションゲームの登場が大きいように思う。これまで物語を一方的に享受する立場だった観客は、仮に「序列二位」のヒロインを気に入ったとしても、彼女が望んだ最上を手に入れる事なく終わってゆくのを何となく肌で感じ理解しながら「くっそ〜!俺だったらこっちの娘にするのに!」などと爪を噛んでいるだけだった。
これに対して「自由に自分のヒロインを選べる」ゲームというシステムはゲーム文化の隆盛に合わせて発展し、マンガやアニメの世界にも影響を与えて来た。これは単純にヒロイン構造の話に留まるものではなく、それぞれにお気に入りのキャラを見つける「並列型」の志向は、いわゆる「萌え文化」の骨子として発展したと思うのだが、今はこれについての細かな解説は避けておきたい。…ただ…「雨宮」という現象は、時代的に言えばこの流れを無視して考える事はできないと思っている。
■赤松健作品から観る「並列指向」
「並列型」ヒロインのマンガでの変遷を見る場合、赤松健先生の作品を追ってみると理解が平易じゃないかと思う。「AIが止まらない」(1994年)→「ラブひな」(1998年)→「魔法先生ネギま」(2003年)と連載作品を続けており、赤松先生自身もゲーム制作の経験があるためか、作風も非常にゲームとの親和性をイメージしやすい作りになっている。
特に、住人が総て美少女揃いの“ひなた荘”の管理人になってしまった主人公の物語「ラブひな」は、構造やキャラクター付けから、かなり恋愛シミュレーションゲームがイメージされる作品で、これが少年マガジンというメジャー誌において成功を収めた意味は大きい。おそらく4大少年誌に意図された「萌え文化」が持ち込まれヒットしたのはこのタイトルが初めてではないかと思われる。(意図されない「萌え消費」は以前からあったと思うが…)しかし、読めば分ると思うが「ラブひな」はかなり強固に「序列型」である。「序列一位」ヒロインの成瀬川なるにかかった「序列のルール」は極めて強固で、主人公である浦島景太郎に対し、他の多数の下位ヒロインたちが想いを寄せるのだが、彼女らからは総て「序列のルール」による縛りが見えるはずである。「ラブひな」の前作「AIが止まらない」も(既に「並列型」の萌芽がみえるものの)やはり「序列型」である。「AIとま」にはシンディという下位ヒロインが登場する。彼女は非常に強力な「螺旋戦士」だったと思うが(全体の構成で避けたけど、エントリーしようかとも思いました)結局「序列一位」のサーティに敗れて髪を切る事になる。新装版「AIとま」の単行本第7巻の巻末インタビューで赤松先生の印象的な応答がある。
〜でも、シンディに勝たせたかったって気持ちもあるんですか?
赤松氏「新装版6巻のキャラクター紹介でも書いていますが、シンディは漫画家への愛情を一身に受けたキャラなんでね(笑)勝たせたい気持ちはありましたよ。ただ、勝たせることはできないんで(笑)それに一度、勝っちゃったところまで行ったんで。相当盛り上がりましたよ。たぶん、私的にこの巻が一番盛り上がった時期だったと思いますね」
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勝たせることはできないんで(笑)!!?…これだ!何の根拠もなく、ヘラリッと…「勝たせることはできないんで〜?……ふひひっ…サーセンwww」と言い放ち何の反省もない!これが奴らのやり方!これが「序列のルール」なんだ!!!(←いや、根拠あるからね?ちゃんと「勝たせられない」根拠はあるよ?この話、ここらへん誤解しないでね?ww)
まあ、今はもう「序列のルール」を力説している場合ではないので話を続けるがwこれが「ネギま」になるとどう変わるか?……「ネギま」もやはり「序列型」には違いない。…いや、そもそも「連載」という直列(シリアル)な物語叙述で、「並列型」(パラレル)を成功させた作品はほとんど無く、現在に至るも試行錯誤中と言っていい。(これは解釈にもよる問題。「並列型」物語の在り方は現在、研究中…)だから、この場で「並列型」と言っても、あくまで「並列指向」を指すもので、かつ、既に「AIとま」や「ラブひな」の時点で「並列型」は指向されていたと考えられるが、それでも「ネギま」の「並列指向」はワンランク・レイヤーを上げるものだと僕は考えている。
「30人の美少女がキミの恋人・ドキドキのニュータイプ学園ラブコメ」という触れ込みで始まった「ネギま」は、いきなり設定の時点で「並列指向」の極北に来たような作品だったのだがwこの件も含め、以下の点でそれまでの赤松作品に対しても、従来の「序列型」作品に対しても「一線を画す」と評してもいい程の違いが顕れている。
1)コピーの触れ込みにある通り企画段階で明確に「並列指向」(同じ言葉ではないだろうが)が意識されていた。
2)本来「序列一位」であるはずの神楽坂明日菜が主人公にとってのキー・フェーズに関わる率が非常に低い。
3)逆に序列で言えば三位レベルに当たるはずのヒロインが主人公のキー・フェーズに大きくからむ。
2)〜3)に関して言えば連載開始当初は(つまり起動に乗るまでは)アスナをヒロイン主軸として、これまでの「ラブひな」の成瀬川のような序一位キャラと変わらぬ活躍を見せるが、主人公のネギくんが自らの暫定の魔法パートナーとする「仮契約」の対象ヒロインを増やして行く事によって次第にアスナの出番は圧迫され(キャラは非常に近いのに、後半に視点が自らに移される成瀬川とは対象的な分岐である)2008年現在においてはネギくんの成長のキーとなるポイントでは大抵、不在で他の下位ヒロインにその目撃を譲るという展開を受けている。
ただし、これらの事象は分散されて起こり、これまで語ってきた「螺旋戦士」のように一極集中的な事は起きていない。正に「並列指向」と言えるが、それ故、結果として「序列一位」のヒロイン(アスナ)は依然守られているという観方もできる。しかし、そもそもアスナは「ネギま」という物語のメイン・キー・キャラターである事は間違いないが、ラブコメ的に「序列一位」と本当に言えるのか?実際のところ恋愛的にはネギの幼馴染みであるアーニャあたりが勝ってもおかしくないのではないか?僕はそう考えてしまうし、この「もしかして〜?万が一〜?」という期待感覚は「AIとま」のシンディや、「ラブひな」のカナコの頃と比すると隔絶の感があるのは確かである。
いずれにせよ「ネギま」はヒロインの「並列指向」から端を発した企画だったと思われるが、その発展において、各キャラクター(ヒロイン)を並列に「展開」させつつ、それらを一つの物語に「集束」すべく編み上げるべく努力され、既に「群像劇」と呼べる様相を呈しており、2008年現在未完であるが「並列指向」の極北にして、一つの結論となる可能性を持った作品と言えると思う。
■「雨宮」という現象
「序列型」から「並列指向」への変化について、赤松健作品を並べてみたが、他のマンガやアニメ作品からも、その変遷を体感する事は可能だと思う。ただ、この時系列は非常にその変化のグラデーションの分りやすさがあるとともに「ななか6/17」との連載期間との絡みついても象徴的なものを感じさせる。
各作品の連載期間
ラブひな | 1998年〜2001年 | 強固な「序列型」作品
ななか6/17 | 2001年〜2003年 | 「序列型」作品→雨宮の反逆
魔法先生ネギま! | 2003年〜連載中 | 「並列指向」作品?
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これを見て分るように「ラブひな」〜並列型の萌芽を見せつつも強固な序列型構造〜と「ネギま」〜「並列指向」を形にした作品〜の正に、その間に「ななか6/17」は連載されているのである!……バ〜ン!!とかいって…………いや(汗)…こう……互いに互いの作品の存在は知っていたであろうが、その影響はほぼ皆無だったと思われる。(それ以前に掲載誌の部数も影響力もまるで違う)だから、これは僕が都合よく作為的にタイトルを並べたに過ぎない。しかし、それでも僕はこの時系列には意味があると思っている。
これまで述べて来た様に「雨宮」は「序列のルール」を打ち破った螺旋戦士だと思う。しかし「並列型」という考え方が「雨宮」以前の作品にはなかったのか?→そうではない。ずっと以前から「並列型」の因子は存在していた事を先に述べてある。では「雨宮」に打ち破られた「序列のルール」はそれ以後、崩壊し姿を消したのか?→そうではない。以前よりもその支配力は弱まったものの、それ以後今に至るも依然として物語の中でヒロインは「序列型」を基本に語られ「並列型」は“指向”されているに過ぎない。
しかし、マンガ・アニメのヒロインの世界に原則的なベースとなって存在していた「序列型」の考え方に代わるアンチ・テーゼとして「並列型」の考え方が認識され、好まれ、指向されるようになって行った、その流れはあり、その一つの臨界点が「雨宮」だったのではないかという…そういう考えを僕は持っている。それは“史観”としてそう考えているという事かもしれない。
同時にその史観は「雨宮」が必ずしも特別強力な存在でなかった事を示唆する。実際に、本稿で述べた「杉村さん」や「ルシオラ」よりも「雨宮」が強力な螺旋戦士だったか?というと僕はそうではないと思う。では彼女の戦いは何だったのか?強力な力を持って物語を支配した「序列のルール」が次第に力を失って行き、かつての螺旋戦士たちが挑んだ時よりもずっとずっと、そのハードルは下がっていた。その時、まさに「雨宮」の戦いがはじまったと、そう考える事もできるのである。
それどころか、そもそも僕が今まで述べた「序列型」「並列型」そして「序列のルール」といったものの観方(仮説)を感じられない人ならば、凡百のありふれたラブコメの、ありふれたシーンだったと言ってしまう事もできる話なのだ。…でも、何某かの作品で「ど〜してあの娘じゃダメなんだ!!」と憤った事がある人なら、何らかの形で伝わる話だと、少なくとも僕はそう思ってもいるのだけど…wwそれは本稿に今までお付き合い頂いたそれぞれの方の感想があるのだと思う。
「雨宮ゆり子」とは何者だったのか…?
これまで述べてきた「序列」と「並列」の指向や他作品に決定的な影響を与えたものなのか?
作品のヒット具合や掲載誌の大きさから考えればそんな過大な評価はできない。
「雨宮」がいなければ、どうなっていたのか…?
いずれは、他のどこかの作品で、似たような事が起きるだけだっただろう。
「臨界点」はすぐそこまで来ていたのだから。
ただ、それだけの「物語」である。
…だが、しかし…
■「いちご100%」(少年ジャンプ2002年〜2005年連載)
【東城は何故勝てなかったのか?】http://www.websphinx.net/manken/hyen/hyen0080.html
【西野は何故勝利したか?】http://www.websphinx.net/manken/hyen/hyen0087.html
主人公は目の前で懸垂しながら素っ頓狂な告白をして、
「序列二位」のヒロインはそれを大笑いでOKする。
しかし、主人公自身は気づいていなかったが
彼には既に心通わせる「序列一位」のヒロインがいたのだ…。
連載開始時において「西野つかさ」は強烈に「序列」をはっきりさせられた形で登場する。
そして物語を盛り上げ切れない責をうけたのか、一旦退場し…序列の二位も次のヒロインにバトンタッチされる。
しかし、その不遇をはね除けて再び登場した時、
彼女は序列一位(東城綾)と渡り合う力をもって彼女に挑み、
そしてあのラストシーンを手に入れたのだ。
(※西野つかさの「逆転の力学」は上のリンクで論じています)
■「MARΩ」(少年サンデー2006年〜2007年連載)
主人公のカイそして「序列一位」のエリサと同じくフェイクARMに自分らの村を奪われた境遇を持ち、
だが、彼らと違い村を奪ったアトモスに忠誠を誓うフェイクARM使いとして「ゲルダ」は登場する。
当初、彼女は「序列」さえ持たぬ敵役だったと言っていい…。
それどころか(悲劇的な運命は持っていただろうが)すぐに退場するザコより少し上程度のキャラだったはずである。
そして実際に彼女は退場(死亡)し、クライマックスまで再び姿を現すことはなかった。
しかし、彼女の存在は主人公の心象に大きな影を落とし続け、想い続けた。
「序列一位」のはずだったエリサは最後までこの影を打ち払う事はできなかった。
そして「ゲルダ」は後に「ゲルダ勝ち」と呼ばれる(←呼ばれていない)ラストシーンを手に入れるのだ。
(※…正直、打ち切りに際して、多少やけくそな展開だったという面がないではないと思います(汗)
しかし、あの時点で、間違いなくエリサよりも「積んで」いますし…(汗)
同時にそれだけ楽に「序列」に対するハードルを越えられるようになっていた。それを象徴する事件だったとも思っています)
「序列のルール」というものは多分今でも存在する。
それは物語の中で“運命”を組んで行く作業で起こる、ある種必然的なものだから。
しかし、それを違えば物語が崩壊するかのような、あの強い縛りはもう無くなったように思う。
たとえ当初のプロットを違えるものだったとしても…
然るべき話を積上げられた然るべきキャラに、然るべき結末を与えてあげる。
そこに「物語の崩壊」はない。
それはやはり「雨宮ゆり子」が証明したのだ…。
トナカイ「では、そういうもの(雪の女王の強大な魔力)に、
みな、打ち勝つだけのものを、ゲルダさんにあげてくれませんか?」
フィン人の女「わたしはね、ゲルダがいま持っている力よりも、大きな力をやることはできないよ。
ゲルダの力が、どんなに大きいか、おまえには分らないのかい?」
〜アンデルセン童話「雪の女王」より〜
おわり
2008/06/16
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