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#272 作品チェック 背景チェック true tears 1話仲上家にみる、「とるてあ」の背景美術(仮)
投稿者:ルイ [2008/10/18 03:33]
※この投稿は、最終的に、年末あたりに「とるてあ厨ハイエナ」ツリーにでも合流させる可能性が高い為、「仮」の投稿ということになります。年間ベスト推しする際の材料として利用しようという魂胆ですね。

何か新しい視点を提示しよう、というよりは、自分の中で+勝手な事を言うと漫研としてもw作品を風化させない為に、文字として残しておこうという意識が存在します…ボサノヴァのスタンダードに「思いあふれて」という曲がありますけど…思い溢れきってますので、乱文ご容赦ください(笑)。自分の中では、それほど大きなタイトルです。


 「true tears」(以下「とるてあ」)の物語において、巨大な存在感を放っているのが背景美術、とりわけ今回触れる仲上家。物語中、石動乃絵は仲上家の敷居を一度も跨がなかったものの(後述する事になるかもしれません、乃絵にとっては仲上家こそが「立ち入れない物語」の象徴の一つです)その分仲上眞一郎と湯浅比呂美の物語は、そのほとんどがこの場所に集中しています。とても軽視できる場所ではない。けれど、それにしても、この建物の存在感は群を抜いています。今建物の中にどこにいて、何をしているか?視聴中も家の中のシーンでは、ほぼその事を考えていました。

 そんな仲上家は、意味のない、マニアックな作り込みだったのでしょうか?僕はそうは思わない。「とるてあ」という作品自体が「セリフを減らして、それ以外の情報を大量に投入して演出していくやり方」(西村監督のインタビュー発言)を取っている為、背景情報も立派な演出になります。つまり、上の「何をしているか?」に続きますが、「何故そこにいる(行く、来た)のか?」。セリフではまるで説明されないその事までも、建物の構造を背景などから注意深く追っていくと見えてくる。そして、それが見えてくる事によって何が演出されるか?それは、物語を紡ぐメインキャストたる、人物達の息づくような「フィクションとしてのリアリティ」。行動の「流れ」が見えてくる事が、人物の積み上げや存在感として機能していき、それはボディブローのように効いてくる。一つ一つのカットにいる事すら細かく読めるのだから、どんな些細な情報も見逃すまい…自然と、そういう心構えが身についてきます。本質的に、この作品はKOパンチ狙いの作品ではない。こんな風に、拾えるところを全神経を使い拾っていく事で、それに見合うあるいはそれ以上の見返りを得られる。そんな、重層的な作品であって。…その事を、まず何にも先駆けて示してくれたのが、この仲上家というわけです。その仲上家の「見方」を、1話を使って紹介。

 放送当時、特に一月の初旬〜中旬あたりにかけての僕の「とるてあ」への反応は、まず何より「とるてあの建物になら抱かれてもいい」でした。今振り返っても、我ながらこれは良い発言だったんじゃないかと思います。ちょっと危ない発言でもありますが(笑)。この仲上家という舞台の圧倒的な存在としてのエネルギーに、その土台の上で繰り広げられるドラマの一つ一つがとても生々しく見えたものです。仲上家が、作品のカラーを最初に決定づけたんじゃないかとも思います。作品全体の背景なり美術を見渡してみても、制作会社PAWORKS本社があるという富山を舞台にしただけあって、ロケハンもしっかりと行われており、あらゆる景色が息づいて見えるのですが…何より、導入としての仲上家。なんとこの作品、第1話Aパートは眞一郎でも乃絵でも比呂美でもなく、背景5カットの連続から始まります。その事自体が、何よりも雄弁に、この物語における仲上家(背景美術)の重要さを物語っています。



まず、物語は仲上家を正面から捉えたカットから始まります。


ここまで。この5枚を、1段目、2段目左右、3段目左右という順序に「ABCDE」とでも振っておきましょうか。

 この後映像は眞一郎のイメージの中の比呂美、「君の涙を僕は拭いたいと思う…」へと繋がっていきます。最初このカットが映った段階では、当然視聴者の誰一人として、これらの場所が建物内のどこはわかりません。わかるはずがない。けれど、この時点で既に「オッ」と思った人はそう少なくないと思います。精密な美術に、ドラマとして使いやすそうな場所の数々(長い廊下、急な階段…)。作品の「本気度」を咄嗟に感じた人もいるのではないでしょうか。僕はといえば、残念ながら流石にそこまで敏感ではないものの、1話を観終わった頃にはすっかり上記の「とるてあの建物になら抱かれてもいい!」になってしまったというわけですね(笑)。何故1話を終えた頃、そこまで鋭くもない自分でもそう感じられたのか。それは、第1話の中で既に仲上家がフル活用されているからです。これが1週間置いてようやくの建物利用だったなら、こうは感じられなかったでしょう。第1話で、冒頭で美味しそうに見せた建物を、しっかり使いこなしてみせた。この時点で、「とるてあ」がその後どれほど芳醇な物語を紡いでいくかは、既にある程度保証されていたのかもしれません。…では、ここからは第1話を用いた「仲上家探検」です。頭の中に仲上家を作り、そこに生きる人々を感じ取りましょう。

 これらは「FGH」。本作の主人公、仲上眞一郎が冒頭の自室での絵本描きから、階段を降りてきて登場。「F」は「E」を逆から観たもの。「G」はどこでしょう?この時点ではまだわかりませんが、眞一郎のすぐ後ろにも上り階段が見えますね。「A」でわかる通り大きな建物なので、階段が2つあるんだな…でもこちらを使わないという事は、眞一郎の2階の部屋は、「E」階段をあがってすぐのあたりにあるのだな…とりあえずはそのあたりまで意識すれば十分です。次に、「G」を眞一郎側から映したものが「H」。和室を一つ挟んで、パソコンで帳簿をつけている湯浅比呂美がいます。これはまさに「C」ですね。ご丁寧に比呂美がいる事で答え合わせをさせてくれているかのよう。「C」は眞一郎の視点と比べると比呂美も小さく、少し離れています。ここも覚えておきつつ、次へ。

 「IJ」。比呂美と話し終えた眞一郎。角を曲がった途端、頭を抱えて自分を責める。さあ、答え合わせです(笑)。「I」と「B」の繋がりで、比呂美のいた帳場=「C」が、「B」から左を向いた場所に存在することがわかります。では「C」が「H」と比べ、比呂美から離れているのは何故か。それは「B」を観てわかる通り、ここは玄関らしく、真ん中に靴を脱げるような低い場所が存在するのですね。しかも右側から上がるよう設計されているのか、2段あり、かなり幅も広めです。「C」は、「B」の右側の、しかも更に和室(「H」の眞一郎の後ろにある襖を開けた、和室からでしょうか)から比呂美を眺めた事だ、というのがわかると思います。因みに「J」だけは1話では謎のドア。襖が多い建物にあって、洋式ドア…トイレのように、間違って開けては問題になるような…と、答えを先に行ってしまうと、ここは比呂美の部屋なんですね。恐らく今書いた通り、年頃の少女に割り当てるべき部屋はどこか?という事になって、ドアがある部屋を選んだという順序だと思いますが、運命の悪戯か…この部屋がなかなか面白い場所にあり、比呂美という人物を形作っていく上で、地味に意味をもってきていると思います。

 「KL」。嘆いている眞一郎をじっと観ていた我らの(?)丁稚くんこと、「酒蔵の少年」。彼を誤魔化すべく「屈伸だよ」とワケのわからない言い訳をかましつつ(丁稚くん、まるで疑いを持ってないんだよな…清い、清いよ…或いは本質的に賢くて、他の登場人物と比べて「分」を弁えていたのかもしれない)母のいる居間に夕飯を食べに現れた眞一郎。ここまでの一連を追う事で、全く説明されていない「流れ」が見えてきます。まず「K」の奥の方に角度の急な階段があります。そう「E・F」の階段です。そして「L」の襖を開けた眞一郎、その後ろに注目してください(探偵ゲーム?w)…ドアが見えますね?丁稚くんとの会話からワンカットも挟まずこのカット、という事からもわかるのですが、「K」のすぐ左を向けば「L」という事です。 ※これは1話ではわからない事ですが、つまり比呂美、居間の真ん前に自室です。部屋を一歩出れば気を抜けない世界で、居候としてこんなに窮屈なポジションもないでしょうね…というのは、今回においては余談です。さらに、食卓には四膳。眞一郎に比呂美、父母…丁稚くんはやはり、時間をずらして或いは別の場所で取っているのでしょうか。眞一郎との会話を見るに、くだけた会話をしながらも敬語を忘れない。仲上家とはそれなりにキッチリとした関係がとられているようです。

 ここまでの眞一郎を辿って見えてくるのは以下のとおり。絵本を描いていたものの、あまり上手い事いかなくて詰まっていた中、時間も時間なので夕飯を食べに下に降りてきた。そのまま居間に入れば最短ルートなのに、比呂美がいるんじゃないかと思って、わざわざ居間を通過して帳簿を覗きにいった。(そして、それ以外に帳簿に行く理由なんて無いのに、第一声が「何、してるの」です。見ればわかるだろう!)…どうでしょうか。建物を追うのは確かに楽しい行為なのですが、それだけに留まらない、眞一郎のいじらしさとでも言うのか、彼の比呂美への踏み込みたいけど踏み込めない、忸怩たる思いが見えてくるのではないでしょうか。これが冒頭の「君の涙を拭いたいと思う」→「拭った頬の柔らかさを僕は知らなくて」に直結します。心は彼女の方を向いているのに、術を知らない。或いは、自分が何をしてあげられるかの想像がついていないんですね。…こういう、気の遠くなるような積み上げを、セリフ以外の所で繰り返す。ここに「とるてあ」の真実はあります。…この日の締めくくりとして、夕飯後部屋に戻った眞一郎のカットで、眞一郎の部屋の位置もわかるようになっています。

 「MN」。食事後、電気がつく部屋があります。この後絵本描きを再開するのですが、ここで「眞一郎が部屋に戻った」を表現したいだけであれば、眞一郎にそれこそ「E・F」の階段を登らせた方が明確。ただし画的には繰り返しの行き帰りという感じで、面白みに欠ける上、情報的にも上塗りのみです。…そこを電気一つで表現する事で、同時に眞一郎の部屋の場所も示し、それがまた地道な存在の積み重ねになっていく。1話のコンテを切った西村監督の意図が見えてくるようです。ちなみにこの「M・N」、左下の木はサイズ的にもおそらく「D・E」に映っている木で、このあたりに中庭らしきものがあるのだろう、という事が感じ取れます。「A」でわかる通り、普通に正面から仲上家を眺めた時、こんな木はありませんからね。※このあたりでそろそろ「D」が見えてきますが、とりあえず保留しておきますね。

 「OP」。翌朝。朝早く登校していく比呂美と、それを2階から見下ろす眞一郎(「O」は眞一郎視点で、「P」の窓に事実眞一郎が)ここで、彼女が中庭から登校していっている、という事がわかります。「B」は明らかに玄関ですが、「B」を使うと中庭は使わない。ここで仲上家を正面から捉えた「A」に戻ってみると、Aの画面右下に、開いた戸と、その奥にうっすらと緑が見えます。そう、「B」の玄関は立派な玄関で「A」の中央にあり、普段は使っていないのではないか。比呂美(眞一郎も?)が登校に使っているのは、その「B」ではない玄関からの通用門だ、という事が見えてくる。中庭に面していて、出入りができる戸がある…そう「D」です。「D」の画面下、よく見ると靴を脱ぐ作りになっています。そして、その右にある戸が、簡単な通用口になっている。ここで「D」から比呂美が出てきた方向などを照らし合わせると、Dの場所も完全に見えてきますね。「E・F」から「K」や「L」つまり比呂美の部屋や居間に行く途中の廊下を左折すればいい。「K」の丁稚くんの後ろにあるのがまさにそれで、逆に「D」から見れば、左に曲がればすぐ比呂美の部屋と居間がある、という事です。

 「QRS」夕方、学校から帰宅してきた眞一郎。眞一郎もこの小さな通用門を使っている事、そして学校が門を出て左側の方向にある事がわかります(笑)。これは積み上げ度ゼロと言っていい遊びのゾーンですけど…とはいえ、こういう事実を一つ一つ、とも言える。これで別のシーン、右の方向に登校していったら興ざめもいいところですからね。さてポストを覗いた眞一郎が見たのは、「D」(「Rの後ろに見える」)の反対側にある「S」。こちらには、父と丁稚くんが仕事をする作業場。この直後をはじめ作中何度か登場するものの、「眞一郎は眞一郎、仲上は仲上」と言ってのける父なだけあって、この物語では作業場はあまり登場しません。少なくとも酒を造っている、という本来的な意味で使われているシーンは基本なく(最終回の丁稚と父の会話くらい?)主に作劇面では「眞一郎母のいない所で眞一郎父と話せる場」として存在しているようです。

 「TU」。夜になって、まず「T」は仲上家について悶々と頭を働かせてきた人へのプレゼントのような、仲上家がわかる俯瞰。「U」は踊りの稽古から帰ってきた眞一郎。「B」の正面玄関を使っている事がわかります。母がいるのはまさしく「C」のカメラ位置付近。夜だから正面玄関を使ったのでしょうか?単純に、家を出て右側に稽古場があったのかもしれませんね。

「VW」…真ん中のはただの趣味なので(笑)左右のみでいいか…。さて「U」で帰宅した眞一郎、突き当たりを左に曲がったところで(つまり「J」と同じ場所で)服の匂いが気になり洗濯(脱衣)場へ。ここでお約束の遭遇をしてしまうのですが、眞一郎に好意的な解釈をするなら、最も「異性」として意識する比呂美の部屋の前で、そんな匂い等が気になるあたりが眞一郎君の可愛い所と言えるのかも。ところで「W」で眞一郎が慌てて飛び出てきた場所から脱衣場の正確な位置が判明しますが、その上で「V」に戻ると…眞一郎くん、脱衣場思いっきり電気点いてますよという(笑)。Wを経ないとまるで意味のない明かりですが、戻ってからみると味がありますね。さて、「W」の眞一郎から見て右側には、「J・V」(比呂美の部屋)ほど立派ではない簡素な作りながら、またも珍しい洋式のドア。このドアが使われる日は来ませんでしたが、恐らくはこここそがトイレという事になるでしょう。18禁アニメなら、この勢い(?)で朝はこちらで比呂美と遭遇するのでしょうが、残念(笑)!左手に見えるのは、位置的に奥の襖が食事をした居間。手前は、居間では料理をできない事から台所、と推測できると思います。(実際そう設定にあるんですけどね)


 いかがでしょうか。建物リフォーム番組でもない、思春期の少年少女を描く恋愛30分アニメの第1話なのに、驚くほど「間取りを感じられる」仲上家の存在感を感じ取れたでしょうか。偶然こうなった、という事は考えにくい。これは作画の、正しくはコンテ→レイアウト+美術による貢献の結果です。抜き出した画像一つ一つ見ていっても、楽にカメラを人物に寄せていく画作りがメインだったなら、いかに取りこぼすものが多いか。「L」の後ろのドアや「V」の奥に見える明かりなど、引いたカメラや俯瞰が容赦なく使われていますし、その背景情報がないとまるで成立しないものになっています。最初に抜粋した西村監督の発言でいうところの「セリフ以外の大量な情報」の正体の一つが見えるはず。背景への負担も恐れず演出目的の為に「苦労する」道を選んだ結果が、この仲上家の質感と「場」としてのリアリティ。PAWORKS堀川社長のインタビューによると、堀川社長から西村監督に、とにかく「作画面や表現的なもので妥協せず、やれるところまでガチンコでやってほしいとお願いしていた」(堀川氏インタビュー)そうで…その「(苦労させることで)PAスタッフを成長させる!」という堀川社長の野心と、西村監督という本来実写演出好きの監督に与えられた裁量の大きさが結びついて生まれた、大袈裟に言えば奇跡的な、謙虚に言っても魔法のかかった(どちらも大袈裟ですねw)フィルム、それが「true tears」であり、その事を他の何よりも真っ先にアピールしたのが、この「仲上家」であったのです。

 人物にカメラを寄せすぎず、一つ離れて「建物」を浮き彫りにするこの撮り方が生み出す、作品全体へのゆったりとした距離感。それが「とるてあ」の物語に与えた影響は計り知れません。この建物をはじめとした美術の大きな懐に抱かれる事で、少年少女たちの局地的な物語は、普遍的な青春の、一つのありうべき日々としての質感を維持する事ができた。これは本作の背景美術として志向された、「水彩画調」というスタンスも相俟って形成されているバランスです。全体的にはロケハンも行われ、緻密な背景美術であるにも関わらず、このかすかに靄がかかったような優しい色彩によって、これまた視聴者と作品の間には適度な距離感が形成される。俯瞰や離れたカメラ位置からの画作りが多い事から感じ取れるように、ある種の映像作品としての客観性がそこには存在していて…ストレートに人物の視点に寄る=同調するほど、主観的・情熱的なフィルムではない。けれど、色彩が表わしているように、全体のまなざしはとても優しく暖かい。そして、その中で登場人物達は真剣に、感情的に生きている…そんな熱と冷静さが織り交ざった「とるてあの質感」が形成されています。「とるてあ」を観る時は、いつもこうやって背景にまで想いを巡らせて、そこから得た、バランスの取れた視点を軸に物語を追っていって欲しいと思います。きっと、冷静かつ情熱的な視点でもって、とても楽しく「とるてあ」の素晴らしき世界を堪能できると思いますよ。
  • 第3話「どうなった?こないだの話」(前) 投稿者:ルイ <2008/11/30 04:35>
  • 第2話「私…何がしたいの」 投稿者:ルイ <2008/10/30 06:04>
  • 第1話「私・・・涙、あげちゃったから」 投稿者:ルイ <2008/10/20 02:37>
  • #279 作品チェック 第3話「どうなった?こないだの話」(前)
    投稿者:ルイ [2008/11/30 04:35]
    <<<親記事]

    ・サブタイトルにも現れる、序章の終わり
     1話乃絵、2話比呂美ときて第3話のサブタイトルは安藤愛子による「どうなった?こないだの話」。作品テーマの一つに繋がる1話のサブタイトル、2話の背骨とも言える比呂美の迷走を言葉にした2話のサブタイトルと比べ、このセリフは特段この話も、作品全体も象徴していません。明らかに、サブタイトルとしての格は一段落ちている。今回も話の中心にいるのは2話同様湯浅比呂美ですから、当然「重要な発言」なりをサブタイトルにしたいだけであれば、比呂美や眞一郎といったあたりから抜き出すのが自然でしょうし、実際、僕はその考え方でもって、上の画像を比呂美にしている。
     truetearsの物語中核は「仲上眞一郎と石動乃絵」にあるというのは既に書いてきましたし、一つ視点を広げても、湯浅比呂美を含めた3人の物語、というあたりまでが適切に思われます。それでも、3話のサブタイトルを愛子に任せることで明確に強調されたのが、「3人ヒロイン」という形。OPの映像も3人で始まり、多くの版権イラストも3人で1組…何故でしょう?アニメは漫画のような真のリアルタイム連載では無いため、「3人ヒロインの同格を狙ったけど上手くいかなかった」という事は基本あまりないんですね。しかも本作の場合3ヶ月の1クール作品ですから、最後までの構成脚本がハッキリしない段階で最初の数話が作られる、という可能性は極めて低い。それがここまで意図に満ち溢れた脚本・映像作品である「とるてあ」なら尚更です。つまり、作品は愛子というキャラクターの「弱さ」も知った上で、この3人ヒロイン、という形を強調しているという事になります。物語の中心が眞一郎と乃絵、さらには比呂美「まで」という事は確実な中でも、愛子には愛子の物語がある、という事を主張している。それが、今回のサブタイトル。彼女については別項で触れますが、とにかく大事なのはその抜き出された発言以上に「愛子が三番目にサブタイトルを担当する」という事実そのものであるように思います。

     この3話までをひと括りとして、ファーストステップが終わります。勿論乃絵にも比呂美にも、愛子にもこれから開帳されていく物語や過去というものは存在するのですが…3話まででもって、ようやく3人のヒロイン全員の行動に一定の型が見えてきた、つまりはキャラクターが確立された、という事。遅れてきた主要人物でもある乃絵の兄、石動純が(2話で後姿だけは出ていたものの)いよいよ物語の筋に入ってくるのも、序章の終わりと、第二章の始まりを告げているかのよう。実際に4話のサブタイトルはヒロイン三人を一巡して、乃絵の発言から選ばれる事になります。…一巡と言えば。三話でもって、「とるてあ」を生み出す脚本家もまた、一巡してファーストステップを終えた事になりますね。

    ・脚本家・森田眞由美と複数人脚本制

    三代吉「お前、何やってんの」
    眞一郎「あいつだよ。あの4番」
    三代吉「はぁ?」
    眞一郎「あいつが乃絵の…」
    乃絵「お兄ちゃん!」
    眞一郎「お兄ちゃんだ」
    三代吉「はぁ!?」
    眞一郎「あ、兄貴!?」


     第三話の脚本は森田眞由美さん。この、あだち充作品と見紛うような誤解が解ける展開や、この回の肝となる、劇的で気を衒わないラストシーンは彼女の手によるもの。truetearsは3人の脚本家によって紡がれた物語ですが、三者三様の個性がよく出ています。岡田磨里さんが物語の真の意味での創造者であり(企画書がわりに初稿を書いたのが彼女)、手綱を締める万能の存在であるのなら、西村ジュンジ(純二)さんは何度か触れたように、作品を更に研ぎ澄ました、映像も込みで「空気を感じ取る」必要のある、緊迫感のある物語を作り出す。そして森田さんは、こういったコミカルなシーンや、ありふれたようでしかし重要な、トレンディドラマのような展開をぶつけてくる。勿論本作が一本の物語である以上、1話完結の作品ほど各々の担当回が振り分けられているわけではないですし、他の2人の回でも岡田さんによるチェックは入っているでしょう。様々なインタビューなどからすると、主に序盤の乃絵に関する描写はほぼ「岡田色」と考えて良いはず…それでも、各脚本には個性が感じられる。このあたりについては岡田さん自身が触れられている通り、意識的に個性をかけあわせているようです。

    「最初、監督はふたりでもいいし、ほかの人呼んでもいいよっていうスタンスだったんです。でもふたりで恋愛ストーリーを書いた場合を想像すると、ちょっと食い足りなさを感じたんです。私も西村監督も、どこかひねくれていて、変に直球を避けるところがあるので。そこで、何を足せばいいかなと考えたのが、昼メロ的な要素でした。西村監督の描く世界は品があるので、アクの強さをつけ加えたら面白いんじゃないかと感じたんです。(中略)森田さんはドラマティックな作品を照れずに、体当たりで書ける人なんです。」(シリーズ構成・岡田磨里)

     背景美術や作画など…何度も触れてきたように、「とるてあ」はアニメーションの集団芸術という側面を極めたような作品ですが、それが脚本面にまで徹底されていた事が感じ取れると思います。自分の話をさせてもらいますと、僕は基本「一話完結でない場合、アニメーションは一人脚本が理想」だと思ってきました。各エピソードに自分の必要な伏線などを決まった場所にはりめぐらし、物語を意図どおりコントロールできるだろう、と。それはある側面では間違っていない考え方だと思いますが…やはりどこかで、アニメーションのような集団制作の独自性・可能性を放棄した考え方だったかもしれません。岡田さんの管理の下振り分けられた三人の脚本は、実際一人の脚本では到達できないような、雄大な懐を兼ね備えた物語を生み出したのですから。各々が捉えるキャラクターの芯にブレがなければ、脚本家の個性による差は、寧ろ個人の計算では生み出しがたい「人としての自然な触れ幅」を生み出しうる。…これもまた「とるてあ」が教えてくれた事でした。


    ・湯浅比呂美を形作る、複雑な感情
     今回湯浅比呂美という人物を読む上で、その際基本として絶対に必要であろう2要素のうち2つ目が明らかになります。まず2話で語られたのが、比呂美にとっての「置いてかないで」という執着。いわば、眞一郎に「惹かれる力」、引力のようなもの。ただしその際にも触れた通り、彼女の中にその力だけが大きく存在するのならば、素直に感情にしたがっていけばいい事だし、それだけならあんな回りくどいやり方というのは考えられないんですね。つまり彼女には、執着を打ち消すだけの正反対の力、「惹かれる力」と同じくらいの「離れようとする力」、斥力が働いており、2つの力がせめぎあい揺らぎだす事で、湯浅比呂美という人格が形作られているのだろう、という事が予想されるのです。今回はその「離れようとする力」を明らかにすると同時に、それゆえの比呂美の心の動き、というものをよく捉えた1話になっています。

    比呂美「ごめんなさい」
    眞一郎「ああ…でも、それじゃあなんで…」
    比呂美「でも、石動さんって凄いと思う。私、見抜かれちゃった」
    眞一郎「ぁ…」


     まずは2話の最後から3話の冒頭へと直接繋がる、夜の会話。一枚目の清々しい比呂美の表情と会話の大部分は、2話の終わりで既に描かれていた内容の繰り返し。とはいえ3話の出来事として括った方が見えるものが多い為、2話ではなくこちらで取り上げる事にしました。石動乃絵によって自分の行動を見抜かれた事が、彼女としては珍しく、素直に嬉しかった。作中含みを持たせた表情が多い中、この時の比呂美は素直に乃絵の鋭さに感嘆しています。朋与相手などではまるで見破られる心配もなく、学校でも「パーフェクト」(1話・三代吉の比呂美評)を通してこれたからこその、見抜かれた喜びでしょう。…が。眞一郎が2話ラストの比呂美「私、本当は友達になりたかったわけじゃない」に対し仲介人として当然の「じゃあなんで(紹介してほしいと?)」という疑問を投げかけようとした時には、あっさりと無言で歩き出し、自室に帰る事で会話を打ち切る比呂美。ここは、視聴者にとっては1週間前の2話ラストと同じ疑問、その繰り返しとして強調される部分です。「置いてかないで」が自分の根に存在するのならば、この時を好機と、一気に理由を明かして眞一郎に想いを告げてしまえばいいはずではないのか。なのに、それをしない…やはり、彼女にはまだ何かある、というのを3話冒頭で再確認してきています。

    比呂美「来る事ないのに」
    眞一郎「この道、暗くて危ないし、それに酒瓶重いだろ?
     …お前、あんまり気を使うなよ。使用人じゃないんだから」
    比呂美「お世話になってるから…」


     それを再度押してくるのが、Aパート終盤のこのシーン。眞一郎の母が比呂美に対し命じた、日本酒を届ける用事。比呂美に辛く当たる母への不満を露にしつつ、日本酒は重い&夜という事もあり付き添う眞一郎。「置いてかないで」の比呂美からすれば、非常に嬉しいシチュエーションであるはずなのに、口を突くのはまず遠慮。このシーン、実に比呂美らしさに溢れた面白いものになっています。

    眞一郎「…ああ、この道歩いたよなあ!祭りの時、お前はぐれちゃって、わんわん泣いてさあ!」
    比呂美「…覚えてないわ」


    眞一郎「…そっか…あの、昨日の話なんだけど、見抜かれちゃったって、あの…」
    比呂美「ありがとう」
    眞一郎「え?」


    比呂美「本当は、この道、怖かったから」
    眞一郎「そっか…そうだよなあ!」


     ここ、大好きなシーンです。最後の画は、タイトル文字が浮かんでくる前の画像も抜き出せるのですが…左下のタイトルが、このままCM(Bパート)に入る事を綺麗に強調しているので、あえてタイトル付。この会話、眞一郎の個性というものも合わせて、非常に面白いものがあります。まず、目を覗き込む乃絵とのわかりやすい対比としての「目を逸らす比呂美」というものが描かれている。2話の回想がまさに「祭りの時」そのものだったように、明らかに彼女にとって重要な過去である筈なのに、それを眞一郎に知られる事を避ける比呂美。やはり執着だけでは語れない彼女がうっすらと見えてくるわけですが、かなり苦しく搾り出した「…覚えてないわ」に至る前の2枚目がポイント。このような比呂美の表情はこれまでもあったし、今後も何度か出てきます。

    ・「比呂美フリーズ」
     彼女は激しく動揺した時、一瞬答えに窮した時、決まってこんな表情を作ります。設定で動揺時表情でも徹底されていたのでしょうか。例えばこれは、比較した場合ずっと小さい反応ではあるものの、一話夕方、眞一郎に「おかえり」と言われた直後にも通じている表情です(↓参照)。2話で言うと、教室前での眞一郎と乃絵を見つめていた時の、朋与に話しかけられる前。呆然とまっすぐ目を開いた時の彼女を比呂美の動揺…僕は「フリーズ」と呼びますが…そういったものとして記憶しておきたい所です。これは僕の勝手なイメージですが、おそらく比呂美自身は自分がこんな表情をしているなんて、考えた事もないでしょうね。自分の隙の無さに自信がある少女ですから。



     再度この画像を見ながら。そんな表情の後、少々の間を置いて、覚えてないと言いながら顔を思い切り斜めに向ける。「フリーズ」時の硬直時間はその動揺の度合いによってまちまちながら、今回は目に見えるくらいのものですし、その後の顔の動きも大袈裟です。相手が眞一郎でなかったら、これだけで訝しむには充分。ただ、眞一郎は「そっか」。眞一郎自身がその「比呂美が覚えていない」という“事実”を真に受けてショックを感じているから、それどころではないんですね。また以前触れたように、比呂美のイメージに白いワンピースを着せる眞一郎ですから…根本的に、彼女の嘘というものに思いが至らないというのもあるでしょう。

    眞一郎は次に、切ない結果に終わったその話を切り替える為にも、またある意味本題でもあった、ずっと気にかかっていた「昨夜の疑問」をもう一度ぶつけようとします。比呂美としては、昨晩はすぐ近くにある自室に戻れば話を打ち切れたものの、目的地が同じである今回は使えない手段。ではどうする?…そこで今度は「ありがとう」。一番最初に眞一郎が切り出した「この道暗くて危ないから」を今更肯定する形で、感謝を「笑顔つきで」示します。頭をかく眞一郎。…眞一郎はもう、比呂美の笑顔を見た(生み出せた)だけで喜んでしまっている。ここでCMに入る事が、この夜の会話はここで終わりました、という事を強調しています。…昨夜に続き、まるで会話になっていません。質問は完全に受け流されている。

     この会話切り上げは、相手が眞一郎だから成立しているだけで、傍から見ている分には隙だらけでボロボロです。話の逸らし方といい、実に怪しい。けれど、そこで綺麗な笑顔とともに「完全に騙しおおせた」ような体をとってしまうのが、そしてこれまでとれてきてしまっていたのが、比呂美という少女の難儀で、ある意味不幸で、そして愛らしい所と言えるでしょう。乃絵に見抜かれた時の素直な賛辞にも現れていますが、彼女、どうも「自分なら隠せて当然」と思っているフシがあるんですね。それはやはり、学校でパーフェクト少女を演じてきた自分自身への自信、自負というものでもあるでしょう。物語を覗いている側からすれば、その主な対象が女心に疎く自分の恋心で一杯な眞一郎と、ちょっと大雑把な所のある親友・朋与だから成立しているだけという気もしますが(笑)ともかく、眞一郎相手ならば、こんな苦しい逃れ方でもなんとかなってしまっているのが、CMに「入る事ができた事」で示されている。いわば、CM前は比呂美にとっての逃走サスペンスであり、CMに入る事は彼女の「エスケープ成功」を表しているのでした。
    ・比呂美の深い想いと、それを封じる心の鍵

    比呂美「置いてかないで、置いてかないで眞一郎くん…」

     Aパートで違和を出し、Bパート冒頭ですぐさま答えを出す。2話でも触れた、本作特有の溜めと解放のリズムがよく出ている演出であり、脚本です。AパートとBパートをここで区切ったのは脚本なのでしょうか?それとも、それを見てコンテを切った監督?森田さんでも不思議はないものの、個人的には西村監督だとしっくりくる部分ですね。Aパートのラストを画面左下のタイトル表示で「引き」、Bパート冒頭を画面右下のタイトル表示で切り出す。日本の漫画・小説文化のページ開きにも通じる配置でもって、Aパートの比呂美の複雑な反応の答えをすぐさま見せてきます。

     基本的には2話回想の続きであるこのシーン、2話の時は既に触れたように、BGM(SeLecT)が大きく鳴り響いていました。その時とは違い、今度は遠くの方に、祭囃子が聞こえ、波の音や風の音も聞こえる自然な状況。格好でほぼ確定事項ではあったものながら、今度は音も加えて完全な「祭りの夜」を振り返っています。BGMの有無の差は何なのでしょう?2話回想が、試合中の比呂美の心、その心の揺れを引き継いで生まれたものであるという事をBGMで示したのに比べ、今度はCM明け、どこからでもない一旦落ち着いたニュートラルな状態からの「回想の為の回想」を始めています。






     「わざと」余り枚数を削らず回想を載せました(後述します)。ここで重要な点は3点。眞一郎が比呂美を竹林で「見つけてくれた」事、暗闇は幼い眞一郎にとっても怖かったが、比呂美の為に乗り越えようとした事、そして最後に、右足の下駄を脱いで一緒に歩いた事、です。

    まず、泣いて走りまわっていた比呂美を、颯爽と現れた眞一郎が見つけてくれた。笑顔とともに現れた彼が、「置いてかないで」と不安や孤独で泣く彼女にとって、どんなに暖かで大きな存在に感じられたでしょうか。次に、彼女の痛んだ右足を見て下駄を探しにいこうとしたものの、幼少の眞一郎にとってもこの竹林の向こうは暗闇で、怖かった。下駄を探そうと、比呂美の来た道を見た時=暗闇を映したカット時、風の音が意図的に強まっていて…それが根源的な暗闇の恐怖を煽る演出効果を持っています。それでも、比呂美の為に探しに行こうと決意した。ここで眞一郎の逡巡を一つ挟む事で、単なる「格の高い仲上眞一郎」という描写にならず、彼なりの、少女の為のなけなしの勇気を感じさせてくれます。最後に、比呂美自身が「置いてかれる事」を極度に恐れていたことで、探しに行くのを彼女の為に断念した、その後の眞一郎の選択です。

    共に幼く、体格にあまり差がない彼女を背負うほどの体力は求めにくい。あとは自分の下駄を譲る、という選択もあるように思いますが、サイズも違います。三足あるから二人三脚という手は?何か即席の下駄を作る方法は…と。敢えて色んなアイディアを出しました。ここで眞一郎がとった選択は絶対の案ではない、という風に思いませんか?確かに妥当性の高い行為ですけど…比呂美を泣きやむまで励まし、言い聞かせて、すぐ戻ってくるから!と探しにいくのも、まあ比呂美の状況を見るにとりづらい選択ですけど、やっぱり人によっては選びうる選択であるように思います。…でも、眞一郎が選んだのはこの選択だった。相手と同じ右足の痛みを感じてあげながら、手を繋いで一緒に歩く。この行為を、何の違和感もなく通り過ぎたくはありません。彼がこうやって、ナチュラルに人の痛みを自分の痛みとしてそのまま受け入れてあげられる少年であった事…それが比呂美の心に残したものは、大変大きかったでしょう。

    またこの行為を見た後でAパートラストを思い出すと、眞一郎には、比呂美のお使いを自分がそのまま引き継ぐ、という選択もあるはずなんですよね。実際重たい日本酒は眞一郎が持っていて、比呂美と二人で届けにいく必要は無い。けれど、例えばあそこで比呂美だけが家に残れば、眞一郎母もいる家、大変に肩身が狭い。また、普段から気を使って小さくなっている比呂美の心情を慮っても、眞一郎がそのまま仕事を代わる、というのは比呂美自身が受け入れないかもしれない。そういった事も、また眞一郎自身の「一緒に歩きたい」という打算もありますが、全て合わさった上で「二人で届けに行く」という選択を取るのが、頭で難しく考える前にそう出来てしまうのが、今も昔も眞一郎が眞一郎のままである部分、と言えるのだと思います。

     先ほど、わざと枚数を削らなかったと書きました。それは何故かというと、比呂美の想いの深さをあらわす為。眞一郎に問われた時は一言「覚えてないわ」と答えたのみなのに、その直後に紐とかれる文字通りの比呂美の「回想」シーンは、遠くから聞こえる祭囃子、闇の深さ、竹林を吹き抜ける風の音、そして一挙手一投足に至るまで、その時あった出来事…全てがおどろくほどに鮮明です。そっけない「覚えてないわ」とは、180度違う映像としての詳細さ。この思い出が、彼女にとってどれほど大切か。どれほど彼女に影響を与え続けているか。この少し長めの回想と、音響に至るまでの繊細な映像が、どんな発言よりも雄弁にその事実を物語っています。ましてや比呂美のように心をそのまま表に出さない少女の場合、そうやって演出を掬い上げる事でもって、ようやく見えてくる想いがあるのでしょう。

    全部封印したの。この家に、暮らすって決まった時…
    比呂美「置いてかないで、か…」


     回想を引き継いでの、比呂美のモノローグと呟き。上段部分の声も比呂美ですが、その際は「置いてかないで、か…」と異なり口元が映らない事、回想の最後から声が入ってくる事。これらから、呟きではなく彼女の内心のモノローグと考えた方が自然。ここで初めて、比呂美という少女に備わっている「置いてかないで」の対極、眞一郎に近づくまいとする「封印したの」が登場します。この封印という言葉をさして、比呂美の本心を封じる鍵、と表現しました。眞一郎への執着と、眞一郎への想いの封印。この二つがあって、ようやく比呂美というキャラクターが確立されてきます。

    1話で、眞一郎が「はじめて比呂美が仲上家にやってきた時」を回想しています(シャツが108MA!=富山)。あの時の沈んだ表情は、単純に家族を亡くした悲しみというだけでなく、既にこの「封印」を抱えてのものだった、という事がここでわかります。ただ、それだけでは1話から描かれ続けている眞一郎の母との確執との線が繋がりきらない面があるんですね。最初から眞一郎に近づくまいという決意をもって仲上家にやってきて、そのまま眞一郎の印象どおり、笑わない、小さくなっている。そんな彼女のままでいるのなら、何をもって眞一郎母と比呂美の関係が難しくなるのか、掴めない。…ここはまた、小出しの部分です。意識に残しておきつつも、3話の段階では比呂美の発言にしたがって考える事にします。とにかく彼女は、両親の死という事情でもって、それを利用して眞一郎に近づく事を良しとしなかった。眞一郎に対し、執着心を引きずりながら、近づいてはいけないという決意も持っている。離れたくはない、けれど近づいてはいけない。置いてかないで、封印したの。その比呂美の中にある押しの感情と引きの感情の相克を掴まないと、比呂美という人物はまったくと言っていいほど見えてきません。そして、その感情の争いのスキマを突かれた時、決まって彼女は「フリーズ」するんですね。そこが掴めれば、3話ラストの比呂美の感情は、手に取るようにわかるのではないでしょうか。そこは後編で書く事にしますが、最後に、翌朝の比呂美についてだけ触れておきましょう。

    比呂美「あ、おはよう」
    眞一郎「え、あ…もうそんな時間だっけ」
    比呂美「ううん、私は男バスの試合の準備があるから」
    眞一郎「あ、そう…」
    比呂美「じゃ」
    眞一郎「あ、あの…」
    比呂美「え?」
    眞一郎「あのさ、時間あったら応援にいくよ」
    比呂美「うん」


     朝のなんでもないような会話…ですが、実はここも、物語が始まった段階の比呂美像からするとちょっとした「違和」です。比呂美から朗らかに挨拶をする事自体が、彼らの日常にはなかった。だからこそ眞一郎はすぐ「おはよう」で返す事もできず、咄嗟に言葉が出なかったのです。ここは比呂美の変化で、例えば2話「私、何がしたいの…」での、醤油瓶を取ろうとして手が触れ合った時の視線に通じるものがあります。途中で乃絵を紹介してもらう、という計画の頓挫はあったものの、ここまでの比呂美には実は一貫して「(仲上家では)前よりも積極的にいこう」という意思が見える。それ以上に進むことは「封印したの」が妨げるでしょうが、傾向としてほんの少し踏み出してはいるんですね。勿論「覚えてないわ」というブレーキとワンセットの、本当に些細なものですが…。この変化を彼女にもたらしたものは何か?それは勿論、石動乃絵の出現。前述の「押し」と「引き」の感情という捉え方に合わせますと、これまで一年近く、比呂美にとってはそれなりに均衡の取れた「押し」と「引き」のバランスが形成されてきました。不幸なバランスではありますが、比呂美の無理でもって生まれた、それなりの心の穏やかさがそこにはあった。ただ、そこで眞一郎に近づく石動乃絵、という存在を感じ取った時、彼女の中での調和が乱れ、心が揺らいでしまった。その事が2話の行動につながりますし、それが収まって幾分平静さを取り戻した上でも、3話でこのようなスタンスを取る事に繋がっています。ラストシーンの衝撃でもって、ついつい忘れがちなこのシーンですが、そのラストシーンまでの比呂美の心の流れを追う上では、ここも大事な部分だと思います。石動乃絵と仲上眞一郎の出会いは、こうやって波紋となって周囲の人物に変化を与えていった。結局、核はその2人なんですよね…後編も、そのあたりから触れる事になると思います。
  • {{作品チェック}}P.A.WORKSの青春 投稿者:ルイ <2008/12/02 02:38>
  • #282 {作品チェック} P.A.WORKSの青春
    投稿者:ルイ Hp [2008/12/02 02:38]
    <<<親記事]
     今回は、一度制作会社「P.A.WORKS」(以後PA)の仕事について触れておこうと思います。この作品の作画演出レベルは相当高い所で安定しており、3話だけが特段優れた出来を誇っている、ということはありません。ただ、高校での描写が多いこの回でもって、PAの目指したものが…特に作画演出面で目指したものが、よりハッキリと見えてきます。それがよく現れているのが、いわゆる背景キャラ、モブの描き様です。

     まず本作の視点を支える俯瞰カット。このような遠景では、モブシーンはCGで描かれています。CGと言っても一概に楽な仕事とも言えないし、また楽になるような取り組み方もしていない。上のようなシーンでも静止画ではなく全ての生徒がそれぞれの「動き」を行っていて、走っている生徒も、喋りながら歩いている生徒も、黙々と歩いている生徒も、自転車に乗っている生徒もいる。各々のパターンを数多く作っていく、それはそれで大変な仕事です。こういった小さな部分を積み重ねていくことで、学校という場に血肉が通っていくんですよね。そうすることで、やはり背景や俯瞰に通じる、物語への距離を持った眼差しが浮かび上がってくる。…の、ですが。CGだけに頼ってしまうと、どうしても手描きに親しんだ人は、そこに温かみというものを感じきれない事がある。そこは一長一短で、上画面のような豆粒サイズだと、全ての存在が等価に生命を主張するCGの強みが出る。けれどそれが顔の表情も見えるような距離になってくると、途端にCGの冷たさが先に出てきてしまう。手書きのモブならそのあたりは回避できるけれど、それだと逆に学校という場の大多数の生徒を描くのは大変に辛く、非効率的…そこでPAは、どちらか寄りで妥協するのではなく「手描きモブもCGモブも精一杯取り組む」という力技に出ました。

     3つのシーンを選びましたが、全編に渡りこのモブ頑張りは継続されています。沢山の人がワラワラ動くCGモブに甘えるわけでもなく、手描きのモブも動く動く。一枚目の画面最寄の女の子は自転車通学らしく(丁度通り過ぎざまに、タイヤの音が小さく聞こえる)、このままサッと通り過ぎていきます。携帯を見ている子も、友達と喋りあっている男子生徒もいる。2枚目はロッカーを開けた眞一郎を映すカットですが、そんな中でも走って通り過ぎる生徒がいたり、右側にいる女生徒は靴を脱ぐ動きまでキッチリ描き込まれている。バスケットの試合も、引き気味の撮り方で「バスケットボールらしさ」を描くことがどれほど大変かは、例えばアニメ「スラムダンク」などを思い出してみればわかるのではないでしょうか。ほとんど、足元のカットでドリブルを表現し、局地戦の一対一バトルに特化する事で「全体としてのバスケの試合」は避けていましたよね。勿論毎週描かなくてはいけないバスケアニメと、時たま現れるバスケシーンを単純比較するのはフェアではありませんが…とりあえず、手を抜こうとするカットは何一つないし、作画もそれに応え続けている。

     この体育館のシーンで言えば、乃絵をおぶった眞一郎が体育館に入ってきた時、バスケの試合を見るために二階部分に陣取った生徒たちがいち早くそれに気づき、眞一郎と乃絵の方を覗き込んでいる(左上)。…誰がそこまで見るんでしょう(笑)。本当に、とことん細部にまで力を抜かない作品です。それはもう「元請一作目にしては」という前句を伴う必要もなく、現代のTVシリーズではなかなか見られないレベルの仕事で…この点については、PAワークスの社長堀川さんと総作画監督の関口可奈味さんがインタビューで面白い事を語っています。まず関口さんが語るのは、作画のプロとして非常に真っ当な事。

    「流してやるというような所は一切なくて、1カット1カットをすごく真面目に取り組んで、逆にやり過ぎというか、要らないものが多いくらいでした。そういうところって、ある意味、最近の作画さんには珍しくて、貴重な存在だと思います。あのまま経験値を積んでいけば、すごい制作集団に成長すると思います。ただ、流しでやるのは問題ですけど、数と技も身につけないといけないでしょう。」
    「(12話で)本当に手抜きなしで動かすものですから、踊りの陰に隠れて見えなくなるキャラクターまでも動かしたりしていました。見える部分だけ動かせばいいという計算が、まだできていないんですね。そういう手抜きの無さというか、不器用なところがよいところであり、逆に、これから精進していかなければならない所でもあると思います」(総作画監督・関口可奈味)


     まさにプロダクションIGからフリーアニメーターとなり、攻殻機動隊や鋼の錬金術士など海千山千を生き抜いてきた方ならでは。相手を称えながらも非常に的確な指摘だと思います。彼女の指摘はフィルムから感じられる印象そのままと言っていい。…つまり、不器用な熱意は素晴らしいし、貴重な事だけど、やり過ぎもあるし、それでは数をこなしていけないぞ、と。これは現代アニメーターがまず数をこなしてナンボ、という事実を踏まえても非常に正しい指摘だと思います。PAの作画陣は、この関口さんが指摘された方向に成長していくことでしょう。…ただ。この作品にとっては、その過渡期であった事は決してマイナスでもないんですね。次にPA社長、堀川氏の発言から。

    「CGスタッフもアニメーターも、モブ表現にとどまらず、スタッフひとりひとりがやっていることはたとえ目立たないパートだったとしても、自分に与えられたシーンを、監督の意図を理解して誠実にやってくれる集団を作り上げたいと思っています。全員が女の子の入浴シーンなら描く、格闘シーンなら描く、というアニメーターばかりだと、作画の力配分がいびつな作品になっちゃうでしょう?」(P.A.WORKS社長・堀川憲司)

     過去の自分を省みても、アニメーションを観ていても作画にまで思いが至らない人が非常に多い。次に作画に注目したらしたで、今度は目立つパートにばかり目がいってしまう。それは現場のプロも同様の事らしく、堀川氏が仰ったような入浴や格闘をはじめとする「面白いパート」を渡り歩いていくようなアニメーターさんは何人もいますし、僕らとしても名前を覚える人というのはそういう人なんですね。…でも、堀川氏はそれを目指さない、という事を元請一作目にして高らかに宣言しているし、作画もその方向に全力で取り組んでいる。その姿勢がフィルムから、社長の発言を待つまでもなく溢れ出ています。

     確かにそれは、プロ中のプロから見れば「不器用」なものですし、今後に色々な課題を控えた、過渡期の状態であるかもしれません。でも、この作品にはその不器用さこそが相応しかった。志を高く掲げ、その方向へは迷いなく邁進するものの、技巧が足りずに無駄が多い…そのもの本作と同じ「青春」じゃないですか。関口さんが言うように、PAの作画は「成長」していく必要があるでしょう。その成長がどんな風に結びついていくかは、今後元請2作目3作目、と追っていかないとわからない面がある。…けれど、今回はこれで良かった。いや言い方を変えるなら「これだからこそ良かった」。我々視聴者にとっても、そして送り手であるスタッフにとっても。true tearsがPA第一作だったという事実は、非常に幸運だったのだと思います。制作会社というプロの仕事に対してこんな言い方をするのは失礼かもしれないのですが…やはりここには彼らの初志が詰まっていると思えるから、僕は「とるてあは、PAの青春」と呼びたくなってしまう。今後も、全ての地味なカットにまで目を凝らしてあげてください。PAが目指す三つ子の魂は、この作品に全て込められています。

     眞一郎の近くの少女は手描き、坂の下を歩く生徒たちはCGというモブ融合シーン。こここそが今回「PAの仕事を象徴する一枚」だと思います。なんでもないカットです。誰の顔も映っていないようなカット。でも…このカットを見るたびに、PAの仕事に感謝を捧げたくなるのです。


    ・オマケ〜クラスメイト達〜

    ※予め断っておきますが、これは「とるてあ」を愉しむ上でのメインではなく、あくまでオマケ、脇の楽しみ方です。

     眞一郎が突っ込んできて、三代吉が驚くカット。こんなカットでも後ろにいる女生徒にまでしっかりとした「何か来ると思ってビックリしたらそのまま突っ込んできたので、慌てて立ち上がった」という動きが与えられています。手描きのモブもCGに負けずよく動く、というのは先ほど書いた通り。…しかし、実はここでの画像の少女は、作品に何度も登場してきます。正確には「モブ」とはちょっと違うんですね。

     3話のさまざまなシーンから。髪の色が違ってみえるのは光の加減によるもので、同じ、窓際の一番後ろに座っている女生徒です。ちょっと神経質な、委員長気質の女の子なのでしょうか。眞一郎や三代吉が騒いでる時の「げっ」といった表情や、掃除の時率先して眞一郎に落ちている「赤い実」についての不満を言うあたり、彼女の性格が見えてくるようです。そういった脇の生徒の演出を意図的に積み上げていった場合、それは漫画「スクールランブル」にも似た「脇にいるキャラクター達も注目させよう」という意図が出てくるのですが、本作の場合はそれはずっと控えめ、物語としての分を弁えたものです。あくまで、彼女たちのキャラクターを立てるような事はない。だから、気にならないなら全く気にならないまま観終えてしまう部分です。…でも、モブを気にして観ていたら、気になっちゃったぞと(笑)。

     実は「とるてあ」には、クラスメイトに4人名前を持つキャラクターがいて、クラスメイト以外にも「スペシャルモブ」といいますか、多少特徴をもった女生徒が5人います。僕はそれを「女生徒ABCDE子」と呼んでいます…気付かれたでしょうか?或いはその正確な人数は把握していなくとも、物語を観ていくうちに、その生徒の顔に見覚えがある、と感じる事があるかもしれません。彼女達を追っていくと、物語がより深く…なることはありません(笑)。繰り返しますが、「とるてあ」は「スクールランブル」ではない。物語を動かす主要人物たちをキッチリと定めてあり、それ以外に遊びの芽を残そうとしない、真面目な物語です。…でも、そんな彼女たちを意識して見つめる事で、「とるてあ」の世界観がより明確に感じられるという面はあると思います。名や特徴のある彼女たちが物語にまるで絡まず、しかし日々を過ごしていく様を垣間見る事で、やはり主要人物たちに限らず、学校という場で人は生きている、という実感が沸いて来る。

     学校と言うと狭い範囲に思えますが、一つの場をそうやってしっかりと描くというのは、世界を描くにも似た行為だと思います。この麦端高校が「そうであるように」、富山も、日本も、世界も、そうやって人々がそれぞれの人生とそれぞれの物語を生きているのでしょう。単純に世界スケールの物語を語る事、それだけが「世界」なのか。そうは思わない。一歩間違うとセカイ系論者のようですが…それも込みで、やはり足場をキッチリ固める事には、大きな意味があると思うのです。…まあ、それはそれとして、上の強気そうな少女は「あさみ」ちゃんと言います。声優さんが下田麻美さん(アイドルマスターの「とかちつくちて」の人)なので、安直につけた名前かもしれませんけどね。折角なので、他のクラスメイトも軽く紹介しておきましょう。


     比呂美の後ろの席にいる、読書好きで小さめな、後ろに2つに束ねた髪が可愛い女の子は「真由」ちゃん。繰り返しますけど、覚えても意味ないです(笑)。

     実は!彼女、1話で朋与と一緒に比呂美を心配しています。走る時少し遅れ気味なのも彼女です。運動が苦手なのでしょうか…繰り返しますけど覚えても(略)。また、真由ちゃんのとなりで走っているちょっと今風の少女が「美紀子」ちゃん。あとは

     眞一郎が登校してくるまで、眞一郎の席で三代吉と仲良さそうに話していたショート且つアシメな少年が「新川」くん。結構さわやかで格好いいですね〜。…覚えても(略)。まあホントーにオマケな部分ではあるんですが、そんな名のあるクラスメイト達を覚えておく事もまた、一つの愉しさではあります。

     最後のトドメ、オマケオブオマケ。左から、デコ出しB子とA子、ロングで真ん中に髪ハラリのC子とそろえた前髪と赤縁メガネのD子、最後に髪を後ろに編んであるE子(笑)。彼女達が他クラスの生徒を代表する、レギュラーモブというのは本当の事だったりします。だから何だと言われたら、やっぱり何もないんですけど…まあ、PAの作り込みはそんな所まで到達しちゃってるんですよ、と。とりあえず酒の席で「true tears、誰が好き?」「やっぱ乃絵だろ」「わかってないな、比呂美だよ」「愛ちゃんカワイソス」…などという話題が行き交う中、「俺は真由ちゃんが好きだな」などと言い出せば、とるてあ通っぷりがアピールできるかもしれません。…まず間違いなくただのニッチ気分なヘンタイとして処理される、何のメリットもないトライですけどね。でも、僕はメインキャラはメインキャラなりに、脇のキャラは脇のキャラなりに…あくまでその位置を混同しない上で、全員大好きです。

    ※EDにはあさみ、美紀子、新川、B子、C子、D子が登場。なお最終回後更新された公式サイトのトップページhttp://www.truetears.jp/には、EDに出さなかったお詫びとばかりに名のある最後の生徒、真由も登場)


    補足〜名前に見る、truetearsの送り手としての姿勢〜
     あさみ達に触れる事になったので、ついでに書き残しておきましょう。truetearsには「名前という順位付け」が存在します。正確には「フルネーム」「名字(名前)のみ」「名無し」の三段階がある、という事です。石動乃絵や仲上眞一郎といった主要人物は当然フルネーム、今回紹介したような生徒達や、眞一郎と共に踊るメンバー達は名字或いは名前のみが付けられています(女性は名前、男性は名字)。それらにも当てはまらない人物達は、名字も名前も存在しない。…こう言っただけだと、それはどんな物語でも不思議な事ではないように思えます。主要キャラには詳細な情報、そうでないキャラには少しだけの情報、それにも当てはまらないなら「○○A」といった扱い。それのどこがおかしいのか。…それらとの大きな違いは「眞一郎の父」「眞一郎の母」。

     この両親、岡田磨里さんの初稿時点では名前が存在しています。眞一郎の父の名前は「宗弘」。母の名前は「しをり」。比呂美の両親にも「篤」「涼子」という名前が存在していました。比呂美の両親は登場すらしないので設定だけの存在とはいえ、眞一郎の両親に関しては、作中でも重要人物としておおいに物語に関わっています。眞一郎の母はその行い自体が物語の展開に影響を与えていくし、眞一郎の父は登場・発言数自体は少ないものの、その一言一言に作品を支配する楔のような重みがある。単純に「重要度」という点で主人公・仲上眞一郎を中心に円を描いていくなら、間違いなく眞一郎の父と母は中心に近い、重要な所にいるはずです。それこそ黒部朋与などよりも重要でしょうし、あさみ、真由といった名のあるクラスメイト相手では、比較にならないほど。…なのに、彼らは「意識的に名前を削られている」んですね。それはきっと「乃絵のおばあちゃん」「酒蔵の少年」にも言える事なのでしょう。以前、「とるてあ」のネットラジオで、ナガッチョP(永谷敬之プロデューサー)が「酒蔵の少年にも名前はある」という話をされていました。

     何故すでにあった名前を、わざわざ?その理由は、どこにあるのか?その答えは「作中の全てのシーンにある」と僕は思います。全てのシーンに存在しているもの…それは美術です。美術監督、竹田悠介さんの発言を抜き出しましょう。

    「柔らかい水彩画調の絵で、画面の見せたい所はしっかり描いて、あとは色の変化だけで見せる。時にはわざと色を塗らない所を作ったり…」(美術監督・竹田悠介)

     このインタビューを読んだとき、「これは名前にも通じている考え方だな」と感じました。本作はしっかりしたロケハンを伴い、緻密な背景美術によって成り立っている…というのは以前書いた通りですが、それなのに映像は、以前書いた表現を再び使うと『かすかに靄がかかったような優しい色彩』でもって、ディティール勝負に徹さないようにしている。インタビューの「見せたい」という発言が肝で、画面の端の端のような部分まで拾い上げ、視点が脱線しないように、その画のポイントに誘導させようという効果があるんですね。…それはまさに、名前にも共通して言える事だと思うのです。背景美術の「緻密」同様、ちゃんと作りこまれた眞一郎の両親という人物。彼らには元々存在していたのに、敢えてその名前を与えない。何故?その意味は、やはり「見せたい所をしっかり」見せる為にあるのでしょう。しっかり見せたいもの…勿論眞一郎や乃絵、比呂美、愛子といった少年少女たちの青春群像劇であり、成長の物語です。青春を生きる少年少女達、もっと言うなら「これからtrue tearsを流す人たち」。だからこそ、乃絵の祖母や眞一郎の父母には名前がないし、既に己の人生をこれと定めた「酒蔵の少年」にも名前がない。彼の場合、仲上酒造に来ると決意したその瞬間が成長の瞬間であり、その時流したのならば、その涙こそが「真実の涙」だったでしょう。

     作りこんでいない事の言い訳ではなく、充分すぎるほどの存在感があるのに、名前を与えない。あるいは名字・名前の片方しか与えない。本作の物語としての有り様がよく見えてくる、大変興味深い点だと思います。最初に僕は「名前という順位付け」と書きましたが、正しくは視聴者の視点を誘導する為の、わき道に逸れない為の配慮といったものですね(だから今回の「オマケ」は、本当に意識しすぎない方がいいのです)。ちなみにそう考えていった場合、女子バスケ部の「高岡ルミ」キャプテンこそが、まさに境界線上の存在なのでしょう。彼女が「高岡」でも「高岡ルミ」でも、物語には差はありません。比呂美や朋与を、少し離れた所から厳しく、そして優しく見守る高岡キャプテン。彼女は作り手の一種の恩恵によってフルネームが与えられた、ぎりぎりの人物だったのでしょう。…おそらく、女性は名前、男性は名字という徹底ありきで考えたものの、年長のキャプテンを名前で呼ぶわけにはいかない、という所から生まれた、イレギュラー存在だと思うんですけどね。

     ちなみにこの作り手が定めた物語のマナーは、あくまで視聴者の視点を誘導するためのもので、作り自体は「この人物には名前がないから」といった差は設けず、しっかりと、万遍なく作りこまれていきました。だからこそ物語が終わった時、そこには酒蔵の少年にまで至る、優しいまなざしが感じられたのでしょう。ちゃんとした理由があって名前の段階を設けたのに、自らの充実した作り込みによって、意図を超えた範囲にまで物語がきっちりと広がっている。truetearsが優れた作品だからこそ生まれた、楽しい「誤算」。誤算に従うなら、最終回だけ「酒蔵の少年」や「眞一郎の母」に名前を与える演出というのも、ありえたと思いますね。最終話のフィルムは、当初存在したであろう意図すら超えて、彼らの成長記録にまでなっているのですから。








    …しっかし可愛いなあ、丁稚くんわ(´Д`;)…

    #276 作品チェック 第2話「私…何がしたいの」
    投稿者:ルイ [2008/10/30 06:04]
    <<<親記事]

    湯浅比呂美の迷走が牽引する物語
     2話が1話のサブタイトルである石動乃絵「私…涙、あげちゃったから」を受けて進む中、この回ピリリと効いているのは湯浅比呂美の行動・発言。その事を強調する為、またヒロインとしての「格」のバランス問題から、2話のサブタイトルは比呂美の自問から。また、脚本は1話の岡田麿里さんから監督・西村純二さんへとバトンリレー(脚本時は「西村ジュンジ」名義)。西村監督が元来演出畑の人である事も影響して、ただでさえ脚本以外の情報が多い作品であるのに、西村脚本回は他の回にも増して脚本が絞り込まれており、映像や音響…あらゆるものを総動員して「空気を嗅ぎ取る」必要のある映像作品になっています。岡田さんと西村さん、更には3話で参加する森田眞由美さん。この脚本家3人のローテーションの中でも、西村脚本回を「読みこめるかどうか」を、自らのとるてあ読みの、中間テストのように捉えてみると面白いのではないでしょうか。

     別の項で「肉体と精神」という湯浅比呂美と石動乃絵の対照的な関係に触れました。それは言葉を変えると具体と抽象。仲上眞一郎と石動乃絵の関係は、言葉にするのも困難な、大袈裟に言えば魂の関係。その為、物語の駆動をそこだけに任せるのは少々難しさが伴います。背景美術レベルから、ある程度の「リアリティ」を基盤に描こうとしている物語なのに(1話で「ファンタジー」を強く観た人は、感情の綺麗な流れや背景美術といった部分の見落としが多かったのでしょう)、リアルとファンタジーの配分比で、ファンタジーが強くなりすぎてしまうんですね。その点において、「肉体の比呂美」の貢献度は本当に高い。特に、キャラクター達の言動が積みあがり足場が固まるまでは、湯浅比呂美、もっと言えば彼女の「生々しさ」こそがこの物語を牽引していた最大の要素、と言っても過言ではありません。

     湯浅比呂美の行動が与えてくれるのは、視聴者への程よい「?」。そのままただ観るには引っかかる部分として、違和感を覚えずにはいられません。これは1話にしてある一定のキャラクターを成立させたからこそ可能な手法で、キャラクターが仮初の型も持っていない段階で「?」を乱発されても、そこに視聴者の視点が追いつく事は望めません。作りが荒い、キャラが練りこまれていない、或いはシンプルに「変な人(芯のない人)」といった感想に直結しがち。しかしこの作品は、ティッシュ箱のニワトリをはじめとして、1話で既にしっかりと意図に満ちた感情の演出を組み上げ、その実績でもってなお「裏切り」を行い続ける。そんな時、受け手はどう考えるか?実績や信頼が伴った相手の裏切りには、人間は「理由」を求めるもの。そして、そこに実際に意味・理由を感じた瞬間の、「?」という感情の溜めが「!」という感情の解放・納得に変わる瞬間。この瞬間の快感こそが、本作の魅力です。

     今回は、湯浅比呂美がその最大の対象。それは今回だけに限った事ではなく、実際の所、全編通して比呂美こそが「?」→「!」の代表格です。安藤愛子は(それでも十分深いが)かなりわかりやすくて、わかった瞬間の快感には少し欠ける。石動乃絵は逆に相当踏み込まないと難しい。難しい分快感はドカンとやってくるものの、結局言語で収めきれないゾーンでもある為に、確認しきれない上に、人に伝達しきれない面があるんですね。それらと比べて比呂美は絶妙です。感情の揺らぎを言葉に変換する愉しさにおいて、比呂美ほどのキャラクターはそういない。湯浅比呂美を味わう事ができれば、一定以上の愉しみには確実に到達できると思います。…では、そのあたりを中心に2話のポイントを。


    ・演出の仕事〜確認・ズレ・情報提供
     第2話は脚本だけでなく絵コンテも西村純二監督という事で、シーンのセレクトからその中でのカメラの映す対象まで、監督の演出意図がほぼそのまま出ていると考えて良いでしょう。そう考えた上でこの回の比呂美を見ていくと、地味に効いているのがある意味何でもない序盤のシーンだという事に気付きます。

     まず、先週ラスト「私…涙、あげちゃったから」を繰り返す所から始まる2話にあって、その前にコンテは敢えて仲上家と、そしてPCで帳簿を打つ比呂美、という既視感のあるカットを挟む。このカットに何の意味があるのでしょうか?これらのカットは、仲上家という変わらない建築物と、1話冒頭と同じ作業をしている比呂美をともに映す事で、今まさに眞一郎と乃絵の物語が動き出すという瞬間に、まるで比呂美は感知できる立場にない、そして昨日と同じ日常を繰り返している、という事を演出しています。それはつまり、比呂美というキャラクターは1話から変化はない、という事の宣言なんですね。

     眞一郎帰宅後の夕食時も同様。このシーン自体、会話だけを取ってみれば眞一郎にとっての親、というものが描かれていて、その為のシーンの筈なのに、カメラは一言たりとも会話に参加しない比呂美を映します。眞一郎の様子を気にしながらも、何も言わない比呂美。そしてその表情は、1話と同じ線上にある憂いを含んだ暗い顔。ここまでの比呂美は1話で見せたままに「眞一郎の前(仲上家)では暗く、静かで、控えめな少女」という像を崩していない。その事を視聴者全員に確認させ、強調する為に、これらのカットを挟んでいたというわけです。

     ところが、そんな受け手の「仮の比呂美像」は、翌日の放課後いっきに破壊されてしまいます。

    比呂美「路眞一郎くん、知り合いなんだ…石動乃絵。
    あの子、変な噂がいっぱいあるの知ってる?」
    眞一郎「あ、ああ…野伏から聞いたよ。あれだろ、地底人とメル友だとか…ったく、バカだよな…」
    比呂美「授業が終わると、木に登って通りかかる男子生徒を逆ナンしてるんだって」
    眞一郎「え…あ、あの」


     まず、予想外の口撃。この言動について、耳だけでなく目も使って観賞した上で「比呂美が眞一郎の事を心配して教えてあげた」というニュアンスを嗅ぎ取る人はほとんどいないでしょう。そう読むには、あまりに表情・声色ともに作った冷淡さに満ちている。これは一種の陰口とも受け取れてしまうもので、そもそも比呂美の言う「木の上で逆ナン」という噂自体があるかどうか疑わしいものです。確かに、乃絵にナンパ意図はないながらも、毎回木から降りる際、下を通り過ぎる生徒に声をかけていたかもしれませんから、ここは断言できる所でもありませんが。どちらにせよはっきりしている事は、そんな事を眞一郎に言う比呂美が、親切心から言っているわけがない、という事です。そしてその暗い感情は、1話の比呂美からは全く窺えないものでした。

     帰宅後も比呂美のイメージにない行動は続きます。夕食時、醤油の瓶を取ろうとして手が触れ合う2人。ここまでの比呂美の積み上げに従って考えるなら、比呂美は「ごめんなさい」と言って俯くはず。そう思わせる為にこそ、1話の演出はあった。ところが、比呂美は笑顔といかないまでも表情を柔らかくしながら、眞一郎をじっと見つめてくる。眞一郎はその反応にただ喜びますが、この反応も明らかな「ズレ」です。特に学校での(女生徒たちといる時の)比呂美との対比として、仲上家での比呂美というものをどれだけ念入りに積んだのかは、既に1話で述べた通り。その仲上家でのこの行動。意図的に積み上げた(更には2話冒頭で再確認した)比呂美像を、一気に崩してきたわけです。

     以降も、後述しますが乃絵との「お墓争い」、更にはその乃絵を紹介して欲しいと眞一郎に頼むなど、比呂美の一見不思議な行動は続いていきます。その視聴者の感情を肯定してくれるのが、比呂美本人の「私…何がしたいの」。比呂美が自問する事によって、視聴者は確信をもって「ああ、やっぱり“変”と感じていいんだ」と安心して、この回の読み込みを始める事ができる。このあたりの、カードを提示し、それを崩して、(作劇のミスではなく、意図的に)その上で崩しましたよ、理由もありますよと宣言するテクニックが「とるてあ」の基本的な演出の間、溜めと解放のリズムです。

    ・比呂美の根


    眞一郎くん、どこ…?
    置いてかないで!


     これが彼女の「理由」にあたる、幼き日の回想シーン。終盤のバスケ試合シーン中「私…」に続いて流れます。回想時のBGM(SeLecT)がバスケの試合中から鳴り出す事、そして試合中の比呂美の「走り」と幼き日の比呂美の「走り」をカットとして繋げる事で、比呂美自身の感情の繋がりを強調しています。

     その直後、試合に映像が戻った時、比呂美は「私…何がしたいの」と頭の中で自問する。その映像順序によって「何がしたいの」の答えが直接的に「ここ」にあるということを演出できるんですよね。(更に言えば、回想の呼び水として高岡キャプテンの「比呂美、何やってるの!」を入れてくるのが技。高岡キャプテンのバスケのプレーに対する叱責を、近い言葉での自責へと繋げています)この回想を挟む位置がまさに西村コンテで…まず、比呂美の「違和」を全部出し切って、その後で答えをチラッと見せてくる。この映像が本編の序盤にあるだけで、この回をはじめて観る時の喉ごしの良さはまるで違ってくるはずなのに、敢えてそれをしない。余り大袈裟にではなくとも、物語を越えない程度に思考の刺激を与える為に、西村監督はこの、時系列から、あるいは感情の順序から、ほんの少し外れた順序で物語を組む事が多いです。

     このシーンによって比呂美の根には「置いていかないで」という、一種の「執着」があるという事が理解できると思います。「置いてかないで」をリフレイン(反響)させそこから試合シーンに引き戻す演出をする事によって、「置いてかないで」の支配力を強めている。この「置いてかないで」によって、1話と、更に2話冒頭で強調された「物語開始時点での比呂美」からのズレが生まれた、という「違和」への「納得」がここで与えられ、そしてその比呂美の変化のスイッチはどこだったか、と考える事で、遡って


     比呂美が放課後に乃絵の噂を告げる日の、朝から昼にかけて。この2つのシーンだった、という事がよくわかると思います。コンテはきっちり、比呂美の視点を押さえてある。乃絵と眞一郎が比呂美の目に見える所で接近しているのを観て生まれた行動だった、そしてそれは彼女の中にある「置いてかないで」が刺激されての事だ、というのが、極めて綺麗な一つの流れとして見えてくる。このあたり、台詞を追うだけでは届かない、映像作品としての味わいがあります。

     ただし、素直に「置いてかないで」に従うならば、そもそも1話の比呂美の反応自体がありえない話で、それならもっと積極的に眞一郎に近づいていけば良いのです。何故、それをしないのか?…その理由に繋がる部分はこの時点では提示されていません。ここが小出し演出のポイントで、比呂美の「2話の行動」には理由を全て提示しているものの、その2話に繋がる、開始時点=1話の比呂美については、まだカードは伏せられている。だからこそ視聴者は毎回、一つ一つのシーンを念入りに追っていくしかないんですね。いつ、次の開示があるかわからないのですから。

    ・「雷轟丸の墓」にみる、比呂美と乃絵の視点の違い

     そんな比呂美の揺れる行動の中の一つに、1話で非業の死を遂げた黒いニワトリ、雷轟丸の墓を巡るシーンがあります。ここを先ほどの流れに加えず独立させたのには理由があって、他の比呂美の行動がシンプルに「眞一郎の関心を引きたい」であったり「乃絵を追い落としたい」という一つの欲求からであるのに対して、このシーンの比呂美にはそれだけとは言えない複雑なものが感じられるからです。更に、比呂美と乃絵のそれぞれの個性や、2人の相性を追う上でも面白いシーンなので、単に「乃絵への嫌がらせ」では終わらせたくない部分です。

    比呂美「この間、ここのニワトリがタヌキに襲われたって…」
    乃絵「…」
    比呂美「…このお墓って、ニワトリの…」
    乃絵「雷轟丸。」
    比呂美「…あ、でも、このお墓って、中にまだもう一羽…」

    乃絵「じゃ。」


     この短い会話にも湯浅比呂美と石動乃絵の生来の相性の悪さ、或いはスタンスの違いが見えて興味深いものがあります。比呂美が2枚目のカットで「この間、ここのニワトリがタヌキに襲われたって」と口にした事に対し、それに対して乃絵を3枚目のカットで捉えながら、無言。「ええ」とすら言いません。この脚本・コンテが組み合わさると…敢えて映像として無言の乃絵を捉える事で、「そんなことは聞いてないわ(言いたい事はそんな事じゃないでしょう)」と言わんばかりの乃絵の感情が見えてくる。比呂美が変化球ピッチャーなら、乃絵は剛速球ピッチャー。第三者が行動だけを見れば乃絵も立派な変化球使いに見えますが、彼女は彼女自身のポリシー以外に全く興味のない、ド直球人間です。ここでも、比呂美自身が「言おうとして言っていない」(と、乃絵が判断した)前置きにまるで興味を示さない。それでいて自分が気になる「ニワトリ」呼ばわりには「雷轟丸」(ただのニワトリじゃないわ、雷轟丸よ、の意)の一言で一閃。言葉を繕う比呂美とコアだけを求める乃絵の噛み合わせの悪さは、既に初対面時に現れています。

     さて、この後比呂美は、乃絵がニワトリ小屋に打ち立てた雷轟丸のお墓を地面に移します。確かに、比呂美も「乃絵が大事にしていたであろう鳥」という事はわかっているはずなのに、乃絵に何の断わりもなく墓の場所を変える行為それ自体は、ある面で攻撃的な行いと捉えられうるものです。比呂美自身、乃絵が放課後会いにきた時も、その行為に潜みうる攻撃性を自覚していたからこそ、「勝手にやってまずかったかなと思ったんだけど」と口にした(まぁ、そう口にしながら「じゃあやらない」選択肢がないあたりが比呂美です)。だから、行為それ自体だけを取れば、確かにここも「眞一郎と乃絵の接近に焦った比呂美の行動」という流れに沿っています。ただしこの行動には、それだけには留まらない比呂美の内に向かう心情と、ある種の「正当性」が存在していて面白い。そこを描いているのが、ニワトリ小屋での乃絵との会話直後の親友・黒部朋与とのシーンです。

    朋与「雷…」
    比呂美「雷轟丸。」
    朋与「…の墓…って、これニワトリ小屋まんまじゃんか…だって、まだ中にいるし」


     比呂美と朋与が口にした内容自体には大差ないものの、口にするのが誰か、という点で差が出る部分です。つまり、比呂美が乃絵に口にしただけなら、それこそ「乃絵の考えを否定したい」(と言うと強すぎるとは思いますが)、彼女の認識に物申したい、そんな比呂美の反発心といったような私情がどれほど関わっているか、判断がしきれない部分になってしまう。そこに朋与という「第三者」が素直な感想としてほぼ同じ内容を口にする事で、視聴者の認識としても「(この作品世界でも)小屋に墓を打ち付ける行為は、やっぱり私情無関係で、大多数の人間にとってはおかしい行為なんだ」という同意が取れるんですね。それに加えて、2枚目の比呂美の表情。朋与の表情に特別な意味を持たせていないだけに、この比呂美の表情は強い。朋与が前カットと同じで「なんだこれ」という表情を変えていない事によって、尚のことカメラの中心でもある比呂美の表情に情報が一本化され、目が釘付けになるという作りです。そこで仕上げに3枚目のカットが続く事で、比呂美の表情・視線は全て小屋の中のニワトリ=地べたに向けられている事が念押しされる。

     このシーンでの比呂美の表情を言葉にするなら「慈しみ」が最も適しているでしょうか。憐憫と言う言葉で表わそうにも、その口元にあるのは微笑。そしてその対象は「地べた」。ここで、比呂美の持つ感情に、乃絵と眞一郎に関係する嫉妬心とも、朋与が示してみせたような一般常識とも違う、彼女だけの心が見えてきます。それは乃絵に話しかけた、彼女の本音(乃絵に沈黙で返された後、そこからが彼女の「本題」と取れると思います)である「…あ、でも、このお墓って、中にまだもう一羽…」に現れています。

     ここは乃絵との対比として捉えたい部分で、乃絵は「亡くなった雷轟丸」への想いのみでもって、小屋に墓を打ち付けています。勿論朋与が言ったように一般常識から見ても「まだ生きているニワトリもいるのに、小屋ごと墓にして、網に打ち付けてしまう」のはおかしな事なのだけれど、乃絵がそんな常識で生きているわけもない。そもそも「雷轟丸」と「地べた」という両ニワトリの命名、そこから窺い知れる思い入れのギャップにも出ている事ですが、石動乃絵という少女は、自分の興味の及ばない所にはほとんど無関心な少女なんですね。乃絵としては本当に、心の底から雷轟丸の事しか考えていないわけです。何故小屋そのものを墓に?→雷轟丸が、小屋の中で(おそらく)亡くなったから。また、網に打ち付けているのは、雷轟丸が「飛ぶもの」だから、地面に触れさせたくなかったのかもしれません…こんな、言葉にすれば単純な感覚でもってのみ動いている。残った地べたに対しては、悪意の欠片すらないのでしょう。墓を打ち付ける際まったく認識していない、と言っていいかもしれません。それは、乃絵が「空を飛びたい」としていた黒いニワトリ、雷轟丸にこそ自分を投影もしていたし、思い入れを持っていたという事でもあります。

     では比呂美は?その答えは、比呂美の目にある。乃絵とは対照的に、比呂美はここで「地べたに自分を投影している」事が見えてきます。自分の環境に照らし合わせてみれば、ニワトリ小屋は仲上家を示し、雷轟丸は亡くなった両親を示している。そう捉えた場合、この閉じ込められたニワトリは、比呂美自身に立場が似ていた(と、比呂美は思った)。だからこそ彼女は、死んだ存在に支配されて、墓で住まわされる地べたを、墓を移す事で救った…つまり比呂美は乃絵とは正反対に、地べたの事(自分の事)を考えてこの墓移しを行ったという事です。勿論、比呂美と雷轟丸は作中顔を合わせてもいないので、それは責められるような事ではありませんし、何度も引き合いに出しますが、朋与が示してみせたように、その行為自体は「結果的に」一般常識にも合致するものだった。…敢えて「結果的に」と書きました。比呂美は乃絵とは違い、全く周りの事を考えず動くような少女でもないのですが、ここにある程度の「結果的に」は見ておきたいと思います。全く乃絵を意識しなかったわけではない。全く常識を考えなかったわけでもない。但し、彼女を直接的な行動に走らせたのは、亡くなった雷轟丸が不憫だからでも、乃絵の身勝手なルールに文句があったからでもない。それらは複合的な要素のうち一つに過ぎず、あくまでポイントは、地べたに自分を見たから。ここは押さえておきたい所です。

    ・比呂美への言葉にみる、石動乃絵

    比呂美「あの…」
    乃絵「お墓。あなたでしょ。」
    比呂美「あ…うん。やっぱりお墓はちゃんと作ってあげた方がいいと思って。
     勝手にやっちゃって、まずかったかなって思ってたんだけど…」
    乃絵「その通りよね。私が間違ってた。」
    比呂美「あ、間違ってたとかそんな事じゃなくて…」
    乃絵「あなたが私と友達になりたいって、仲上眞一郎が。」
    比呂美「…そう…あの!」
    乃絵「嘘でしょ。」
    比呂美「…え」
    乃絵「あなた、仲上眞一郎に嘘ついたでしょ。」
    比呂美「…嘘って…どうして、そんな…」
    乃絵「だって、あなた私の事好きじゃない。」
    比呂美「あ…」
    乃絵「大丈夫。私、怒ってないわ。」


     このシーンは石動乃絵という人物の確認シーンです。比呂美が迂遠な会話を行おうとした矢先からズバズバ切り込む、鋭いながらも多分に自己完結的な洞察力、と石動乃絵らしさに溢れたこの会話、主導権は完全に乃絵のもの。このシーンの会話と表情を照らし合わせながら、乃絵はどこまで気付いて・考えて言っているか?と念入りに読んでいくと彼女の人格、思考がよく見えてきます。
     
     つまり「嘘ついたでしょ」という発言を深く取ると、視聴者の持つ情報としては嘘をついた理由=眞一郎への執着というものを知っているだけに、乃絵も比呂美の眞一郎への感情に勘付いたのか?とも捉えたくなるのですが、それは続く乃絵のセリフ自体が否定しています。それなら「仲上眞一郎が気になるから私に近づきたかったんでしょ」…そこまで直接的でないにしろ、眞一郎という存在を意識しない発言は考えにくい。乃絵のセリフは「あなた私の事好きじゃない」。乃絵の場合は、比呂美と違って言葉の裏を意識する必要はほぼありません。言葉通り、眞一郎は関係なく、比呂美の乃絵に対する好感情の無さ、それ一点でもって「好きじゃないのに友達になりたいわけない」とシンプルな論法でもって嘘と看破してみせているわけです。そう断じさせたのは何か?それは勿論、雷轟丸の墓の移動。…但し、墓の移動それ自体は、やはりここで乃絵自体が正当性を認めています。ここも言うまでもない事ながら、乃絵は皮肉や何かでそんな事は言わない。心から「比呂美の方が正しかった」と思っている。でなければ、乃絵は墓をまた元に戻すだけの事でしょう。

     では、何をもって比呂美の正しさを認め、何をもって比呂美が自分の事を好きではない、と考えたのか。普段自分の行動を貫いている事からわかる通り、ただ一般常識にそちらがより近いから、という理由で「私が間違ってた(あなたが正しい)」という判定をする少女ではないわけです。眞一郎は比呂美によって移しかえられた後の墓を見て、乃絵がそれを最初から行ったと思い「お前もちゃんと、人並みの事するんだ」と言うのですが、しかしそう言われて「ああ、これが人並みなんだ」と気付いた…とは考えにくい。やっぱり眞一郎がそう言った時、乃絵は無言、視線や意識を彼に向ける事もなく、小屋を真っ直ぐ見ているからです。眞一郎がどう言ったかではなく、地面に立てられた墓と、小屋の中の地べたをじっと見て自分で考えている。

     つまり乃絵の「私間違ってた」は、常識云々よりも比呂美の真意そのものを指しての発言であると考えた方が自然でしょう。地べたもいるものね、と気づかされた…とでも言った所でしょうか。その事自体は確かに気付いてみれば正しいし、認める。もちろん眞一郎の反応にもある通り、常識という見地からも正しいようだ。けれど、何も言わないで移し変えるその行い自体には、自分への好意が感じられない。…そういう乃絵の思考が見えてきます。加えて、行動だけでなく初対面時の会話、あの時の比呂美をじっくり見つめて、その時の比呂美の言葉や視線の遠慮具合でもって判断した可能性もあるでしょう。比呂美は意識していないでしょうが、会話中に後ろを振り向くのは視点としては「逃げ」ですしね。

     但し、比呂美が自分の事が好きではないからといって、乃絵は不快でもなんでもない。ポイントとしては3枚目の表情に支えられた「怒ってないわ」。乃絵はウソの表情を作るような子でも、思っていないような事を言う子でもない、という人格描写に従って考えれば、乃絵の表情は本物以外ありえない=晴れやかな表情でもって、嫌味でもなんでもなく、本当に怒っていないという事になります。そして、それは何故か?寛容だから?…多分、違います、ここも先ほどの「雷轟丸の墓」を照らし合わせてみれば良いと思います。墓を打ち立てた時、地べたの事などまるで考えていない…そう、「無関心」です。

     この時点で、石動乃絵にとって湯浅比呂美は関心の対象たりえていない。でなければ、「仲上眞一郎に嘘をついてまで、好きでもない自分と友達になりたい」という比呂美の行動自体、不思議の塊です。ただし視聴者がたどり着けたように、比呂美の心情を理解していれば、それは不思議ではなくなるので…だからこそ視聴者としては、乃絵も勘付いているのではないか?と思いたくなる所なのですが、それは乃絵という少女を実像よりも大きく捉えてしまっているように思います。乃絵は、比呂美の感情など知らない。知らないままでは、比呂美の行動は謎に満ち満ちているのに、乃絵は理由を求めるでもなくただ「大丈夫。私怒ってない」。謎を謎と意識しない…つまり、興味がないのです。比呂美自身が自らを照らし合わせた通り、乃絵にとっても比呂美は地べたのようなもの。嘘をつこうが、知った事ではない。それぞれが地べたに見ているものはまるで違うものの、ここでの地べた=比呂美の認識の一致は面白い所です。


     この作品は、シナリオなどで極端な対比や反復を明示はしてこないものの(例えば「コードギアス」のように)、映像としての佇まい、会話の余白といったところを丹念に読み解く事で、控えめな、あまりシステマティックに見えない、潜在的な対比や反復が数多く観られます。そのあたりも、本作を味わう上では意識したい所ですね。
  • 石動乃絵と仲上眞一郎 投稿者:ルイ <2008/11/23 06:18>
  • #278 作品チェック 石動乃絵と仲上眞一郎
    投稿者:ルイ [2008/11/23 06:18]
    <<<親記事]

    俺は…木の上の石動乃絵を見つけて…
    ニワトリがタヌキに襲われて…
    赤い実もらって…
    比呂美が話しかけて…
    朝、目があって…
    アブラムシ…アブラムシ…眞一郎の靴の底にもアブラムシ♪…



    石動乃絵と仲上眞一郎、静かに進む2人の物語
     2話や3話を愉しむ上での中心は、確実に湯浅比呂美です。彼女の心理を追う事が、そのもの作品の見所と言ってもいいでしょう。ただ、それとは別に登場人物達はそれぞれの道を歩いていて、各自に味わいと、読み込む価値が存在します。第三のヒロイン「安藤愛子」にもそれは言えるのですが、彼女は次回にでも纏める事にして、今回は1話に続く、石動乃絵と仲上眞一郎の物語を押さえておきたいと思います。1話でも少し描かれていた「2人の近さ」、大袈裟に言えば「魂の近さ」が、2話では個々の描写とともに、更に深く描写されています。
    ・海岸線での会話〜仲上眞一郎は「信じた」か?〜

    乃絵「この話をするのは、仲上眞一郎がはじめて。
     話したからには、信じてもらわなくちゃ。」
    眞一郎「え、あ…ああ、うん、信じ」
    乃絵「何を?」
    眞一郎「え?」
    乃絵「涙って何?」
    眞一郎「え…だから、悲しいときに」
    乃絵「そうじゃなくて。涙って何?」
    眞一郎「…ええっと、眼球の洗浄と保湿のために涙腺から分泌される…」
    乃絵「あなた、見込みある。」
    眞一郎「え?」


     このシーン、乃絵は「涙を集める」であったり、その為の瓶であったりといった、様々な情報を出してきます。ただし、その内容自体は2話の時点では情報が全くなく、乃絵の言った事をそのまま受け入れるしかない状況。この段階では敢えてそういった設定面にはあまり触れず、それ以外の面をチェックしておきましょう。まずこの会話、初見ですんなり呑み込めた人はあまりいないのではないでしょうか。僕は最初、意味がわかりませんでした。乃絵が「見込みある」と言った根拠はどこにあるのか。眞一郎が答えた内容が曲者で、「涙あげちゃった」というファンタジックな響きからも、寧ろ乃絵が求めているのは前半の回答の方であり、後半の回答は答えから遠ざかる、余計なものとすら思えます。でも「そうじゃなくて」。…何故、後者の夢のない内容まで聞いた上での「見込みある」なのだろう?乃絵は何が聞きたかったのでしょう?

     しかし、この話の最後までを読み込んだ上で考えると、そんな考え方自体が乃絵という人格を掴めていないからこそ出てくるものだと気付きます。別項でも触れた通り、乃絵という少女は会話も言動も「コア」を求める少女。興味がある一点にのみ向かっている。それが演出として現れているのが、乃絵の「相手の目をじっと見る」という動作。これは彼女の基本設定とも言えるもので、乃絵が作中で目を逸らす事はほとんどありません。相手の心を覗くように、相手の目を見る。前回触れた比呂美との会話でも、比呂美が乃絵を好きじゃない、というのは何より目で感じ取ったのかもしれません。つまり、前段の問い「何が聞きたかったのだろう?」に対しての答えはおそらく「何かを聞こうとはしていなかった」。堤防の上を歩いていた乃絵が、地面に降りたのは何故?…後に出てくる「見上げるのが好き」という目線でもって、下から眞一郎の顔を目をじっと見つめる為です。質問の答えそれ自体が目的なら、乃絵が動く意味なんてありません。結局、乃絵は眞一郎の答える様、表情…それ自体をこそチェックしていたのでしょう。だから乃絵が「見込みある」としたのは、当然涙腺から分泌だのといった涙知識にではなく、突拍子もない「涙あげちゃった」→「涙って何?」という流れに対し、笑わず逃げず、真面目に考えて答えを捻り出そうとした眞一郎の態度、それ自体だったというわけです。

    乃絵「この事は、2人の秘密ね」
    眞一郎「喋ったら、俺を頭から喰うってか」
    乃絵「…」
    眞一郎「…何か言えよ」


    乃絵「あなたなら、信じてくれるって思った。」
    眞一郎「あのー…」
    乃絵「明日学校で!」
    眞一郎「俺…信じたの、かぁ?」


     眞一郎自身にはそんな理解があるわけではないので、乃絵がどういう理由でもって、自分が乃絵の話を信じている、としたのかはよくわかりません。彼自身は寧ろ「喰うってか」と、茶化してすらいる。そんな彼が乃絵の「信じてくれると思った」に対して半信半疑なのは当然…なのですが、この後、眞一郎自身が確信を持てなかろうが、彼の心の根っこ、魂がその話を信じてしまっている事が描かれています。


    涙をあいつにやったら、俺はどうなる?
    やっぱ泣けなくなるのか?
    …どうでもいいけどな、そんなの!


     その日の夜、入浴時のシーン。天井から落ちてくる水滴を涙と解釈して自分の思考を重ねる、映像としても綺麗なシーン。全く信じていない人は、こんな事実かどうかすら定かではないファンタジーについて、その「先」を真面目に考えたりしません。ちなみに、最後の画像(と、最後の発言)にもある「照れ」が、眞一郎たる所以。これは乃絵には全くない感情で、夕方「喰うってか」と口にしたのも、同じ感覚からきています。…でも、乃絵からしてみればその眞一郎は「眞一郎のコアではない」ので、興味を抱く必要はないんですね。だから先ほどのシーンでも、何も言わなかった(2人が向き合うシーンの、2枚目が丁度「…」にあたります)。ただ、発言内容を気に止めず、相手の目をまっすぐ見ているだけです。「こんな場面で茶化すような仲上眞一郎は、やはり信じてくれていないのではないか?」そういう懸念にまるで到達しないあたりが石動乃絵であるし、そんな自分を誤魔化すような言動をとりつつも、折に触れては真面目に考えてしまう。そんなあたりが、仲上眞一郎であったのでしょう。

    ・石動乃絵の影響

    僕は、その瓶を太陽の光に透かして、中のきらきら光る液体を眺めていた。
    と、あたりが急に暗くなって、はっとして目を上げると…


     乃絵の独自の世界に戸惑っているように見える眞一郎が、その魂の底では極めて自然に彼女の在り方を受け容れてしまっている事。それは、眞一郎の直接の言動以上に、時折挿入される彼の創作絵本にこそ如実に現れています。瓶、そしてその中できらきらと光る液体。乃絵の発言から、自然と(直接そうは言っていないのに)「涙を集める瓶」という考えに至っている事がわかります。1話冒頭(君の涙を、僕は拭いたいと…)からも明らかな通り、彼の心が最も素直に出る「絵本」の世界。口でなんと言おうが、その世界が彼女を、彼女の世界を認めてしまっているんですね。

    天使に化けていた怪物に、瓶の中に閉じ込められ
    途方にくれていた僕は、となりの瓶にも同じように閉じ込められて
    泣いている女の子を見つけた


     これももう一つの創作物語。最初のアイディア同様に、「瓶」という道具立てが共通しているのが石動乃絵の影響部分です。ただしストーリーは眞一郎の気分を受けて、少しタイプが異なってきています。「天使に化けていた怪物」とは誰をさしているか?これは、シンプルに取るならば「天使のイメージとして出会ったが、通りかかる男子生徒を誰かれ構わず逆ナンしていたという石動乃絵」。比呂美の揺さぶりが、それなりに効いている事が感じ取れます。最初のアイディアでも「あたりが急に暗くなった」のは、この逆ナンという話が受け容れ難いという所から来ているのかもしれません。面白いのが

    地底人とメル友だって噂は信じてやるからさぁ
    ニワトリの代わりに逆ナンされたって話はナシに…


     最初のイメージの直後に入ってくるこの独り言でしょうか。「地底人とメル友」は信じてやれても、「逆ナン」は信じたくない。…勿論単純に、雷轟丸の代わりにされている事への戸惑いもこの発言は映しているものの、「逆ナン」という言葉自体が示している通り、その日の放課後比呂美に言われた事それ自体が眞一郎にとって引っかかっているんですね。雷轟丸と括られる事への違和感は、海岸での会話から翌日の昼まで、比呂美に何か言われる前から持っていた。それと比呂美が口にした事との最大の違いは「男子生徒を逆ナン」。比呂美の言に従うと、眞一郎と乃絵の出会いは沢山ある逆ナンのうちの一つに過ぎなくなってしまう。そうなると、昨日の乃絵との会話も、一つの逆ナンの手段に過ぎなくなってしまう。そんな石動乃絵像だけは、眞一郎としては受け容れ難い、という思いが感じ取れるシーンです。西村純二脚本は、そのあたりを明確な言葉として残してはくれませんから…映像として、全てを含めた上での、心を見て取るしかない部分でもあります。

     2つ目のイメージに話を戻しますと、興味深い点として、眞一郎自身も瓶に閉じ込められている、という事実があります。少々裏読みになってしまいますが、一応触れておこうと思います。1話の「天使に拭ってもらう」という他人任せな思考同様、自分では比呂美をどうともしてやれない、という諦めに似た感情が「瓶」という2人を隔てるものとして機能している。それは確かながら、それを描きたいだけなら眞一郎まで瓶に入っている必要は特になく、瓶の中で泣いている比呂美を眞一郎が外から観ている…それで足りるわけです。であるなら、比呂美同様に閉じ込められた眞一郎というものも、眞一郎自身の心情を映していると考えた方がよさそうです。そうして2話の眞一郎を振り返ってみた場合、彼にとっての抑圧の対象として、両親という存在が浮かび上がってくる。特に眞一郎の父との静かな会話シーン、その場面でのやけに丁寧な言葉遣いが印象的です。

     上段は、進路について父に尋ねられた時。父は特に詰問口調というわけでもないのに、眞一郎の父への態度は「まだです。」「今度聞いときます」。と、母親へのそれとは比べ物にならないくらい萎縮しているんですね。父は1話の母への発言「眞一郎は眞一郎」でも明らかなように、かなり眞一郎の自由意志に任せている部分がある。それなのに、それが眞一郎にとっての安心として機能していません。そして下段は別のシーン、食事の時母の方にわざわざ視線を向けて、様子を窺っている。不採用通知を勝手に見た母への、眞一郎曰く「大人気ない」対応をした事を気にかけて、様子を窺っているのでしょうが…眞一郎自身も仲上家にあって1人息子として安穏と生活しているわけではなく、彼には彼なりの「瓶」がある。そのあたりの心象を読み取ると面白い部分です。その場合、「天使に化けていた怪物」は、単純に石動乃絵だけの事とも言えない、複雑な「眞一郎を取り巻く現状」そのものの事を指すようになります。

    …さて、では最後にこの回の石動乃絵と仲上眞一郎、その関係を象徴する出来事。そして「乃絵にとっての眞一郎」に触れておきたいと思います。

    乃絵「あげる」
    眞一郎「あ…あげるって、でも、これ、鳥のエサだろ?」
    乃絵「いらないの?」
    眞一郎「…ああ、いらないよ!」
    乃絵「私、眞一郎を見上げるのが大好き!」
    眞一郎「ん?」
    乃絵「それって、空に近い所にいるって事だもの」


     乃絵と比呂美との会話同様に、乃絵の一方的なやり取りの中、(いらないよ!が機能すらしない)、乃絵が眞一郎に、雷轟丸にあげていた「天空の食事」を差し入れるシーン。そもそもこの赤い実が「天空の食事」である理由自体、「雷轟丸は飛びたいのに小屋の中で可哀相」→「じゃあ、天空に近い所の食べ物をあげよう」という乃絵独自の思考に支配されたものなのですが、それをそのまま人間・眞一郎に移している事が見て取れます。このシーン、乃絵は言うだけ言った後走り去ってしまい、途中から手元にカメラがいく事はないものの…後のカットと画像を並べてみると一目瞭然。

     10粒と10粒。眞一郎は自分で赤い実をとってきてはいないので、これは上記の会話時に差し出された赤い実そのもの。結局「いらないよ」と言いつつも受け取り自室に持ち帰っている、という事になります。だから実の数も同じなのですが、それはつまり、全粒大事に持ち帰っているということですね。「いらない」と言われても「コア(本意)じゃない」と勝手に断じ、そのまま眞一郎に押し付けたであろう乃絵(おそらく「見上げるのが大好き!」と「それって」の間あたり)と、「いらない」と言った割には、直接受け取ってしまったからか義理堅く全粒受け取り、自宅の創作机の上に置く眞一郎。言葉は一方的であるし、乃絵の不思議さに戸惑いっぱなし。それなのに、このキャッチボールが不思議と成立する関係が、石動乃絵と眞一郎の2人だけの関係なのでしょう。

     眞一郎の心そのものとも言える「絵本」にまで影響を与えていく、仲上眞一郎にとっての石動乃絵。一方、雷轟丸の後を継ぐものとして大切な存在である、石動乃絵にとっての仲上眞一郎。乃絵にとっての眞一郎、というものは未だファンタジーの域を超えませんが、比呂美にとっての「置いてかないで!」同様の、彼女にとっての「根」が垣間見えるシーンも、2話の中でしっかりと配置されています。


     乃絵の自宅にて、彼女がいとおしむように、大事に扱う祖母らしき女性の写真。机の上に、その写真と一緒にティッシュ箱ニワトリを並べる事で、石動乃絵にとっての仲上眞一郎(と、ティッシュ箱ニワトリ)の持つ意味が感じ取れると思います。表情という演出を意識した場合、一番頭にある眞一郎に微笑みかけたハーモニー演出のカットと、写真を見つめる彼女。両方とも目を細めて笑っている映像を反復させる事で、どちらも彼女にとって共通した大切なものだ、ということ伝わる事と思います。本当に大事なものと唯一並べてみせる事で、ティッシュ箱のニワトリが、いかに乃絵にとって素晴らしいもので、希望に満ち溢れたものだったかがよくわかる、セリフは少ないながらも良いシーンです。比呂美と眞一郎の物語がそうであるように、乃絵と眞一郎の物語も、そうやって情報を出しつつ先へと進んでいきます。季節が移り変わるようにゆっくりと、しかし確実に。

    #273 作品チェック 第1話「私・・・涙、あげちゃったから」
    投稿者:ルイ [2008/10/20 02:37]
    <<<親記事]

    涙を「拭ってあげたい」少年と、涙を「あげちゃった」少女の出会い
     truetears(以下とるてあ)の物語は、仲上眞一郎という少年と石動乃絵という少女の物語です。ここはもう大前提の部分なので、どのヒロインが好きだといった話とは全く関係のない、ほぼ「事実」として話を進めさせてもらいます。そうまで言い切れる理由は何か?それは、この2人の物語こそが「とるてあ」にあって、その全てを使って始まり、終わった物語だからです。これは作品のテーマ或いは描き方の根幹にかかわる部分だと思うので、何度も触れる事になるかもしれませんが…人生という名の物語は、たくさんの物語が織り成すタペストリーのようなものです。ある物語においては主人公であっても、ある物語にあっては脇役Aかもしれない。誰を主人公と捉えるかによって変わる部分ですが、それを呑み込んで歩いていかなくてはいけない。自分が深く関わる事ができる物語があるという事は、どうやっても立ち入れない物語もあるという事と同義で…それを受け止めて人は歩んでいく。僕は「とるてあ」の核はそこにあると信じて疑わないのですが、その観点から言っても、この物語は眞一郎と乃絵の物語だと言い切れる。流れる時間の中で、この時期を抜き取った理由は何か?それは、この時期が完璧に「眞一郎と乃絵の物語」が紡がれていた時期だからです。その純度の高さでもって、「とるてあ」は彼らのものだと言い切れる。

     …こういうと、比呂美が嫌いなのか?であるとか、変な事を言われる事もあるのですが…全く無関係な話です。石動眞一郎と湯浅比呂美の物語も別個に存在し、それもまた芳醇な物語を紡いでいる。けれど、それは「とるてあ」に全てを負うものではない。これまでも続いてきて、これからも続いていく物語であって、その中でこの時期は「ある激動の一時期」なんです。…どちらの物語が優れているだとか、価値があるという話ではなく。単純な事実として「とるてあは、仲上眞一郎と石動乃絵の物語」という事なのです。勿論、その最中にも他の様々な物語も激動していくので、そちらも見逃さないようにしなくてはならない。ただ、まずは始める前の確認点、絶対のポイントとしてここは押さえておく必要があります。それを踏まえてさえおけば、そんなに読みを混乱させる事もないのではないでしょうか。

     では、いくつかの注目ポイントに触れておきます。ちなみにサブタイトルは、話の最後に石動乃絵が口にしたセリフ。物語は仲上眞一郎が既に抱えていた物語によって幕を開け、石動乃絵が既に抱えていた物語によって次回へと続いていきます。ともに、閉塞的なその物語に光明を見出す為に。そして、2人の物語を始める為に。


    ・仲上眞一郎の願う事

    僕の中の君は、いつも泣いていて
    君の涙を、僕は拭いたいと思う。
    でも、拭った頬の柔らかな感覚を、僕は知らなくて…


     物語がこの仲上眞一郎の独白から始まるというのは、非常に美しい。言うまでもなく「君」=泣いている少女がすぐ後に出てくる、同居中の少女=湯浅比呂美である事はわかるのですが、その彼女の事が気になるものの、どうすればいいのかがわからない。踏み込む自信がない。そんな様子が、この冒頭モノローグと、繰り返しとしての帳場での会話でしっかりと積み上げられています。一般的に物語において最も重要なものの一つは、主人公(できることなら、なるべく多くの登場人物)の「目的」です。その目的の壮大さや矮小さに関わらず、とにかく何を基準に感情や行動が決められていくのか、という基本が受け手に伝わっていないと、人物の行動は何を行っても上っ面をなぞったものとして捉えられてしまいがちなんですよね。納得も、意外も伴わない。その点でもって、作品の第一声が主人公の目的、核だというのは、大変に直球な演出であると思います。

     因みにこの眞一郎の絵本の中にいる少女は、白いワンピースを着ていて、眞一郎が彼女に見ている清廉さ、潔白さのようなものが観てとれます。実際の湯浅比呂美は、その複雑な性格ゆえに視聴者を喜ばせるなかなかの難物だったわけですが…(笑)心根は非常に素直な少女でもあり、何一つ彼女の厄介な部分を知らない眞一郎でも、いや寧ろそれゆえにか、彼女のある一面を確実に捉えていると言えそうです。

    ・「いつも泣いている」少女、湯浅比呂美


    父の知り合いが死んで、その娘の比呂美がうちに引き取られることになったのが去年。
    あいつとは、小学校の頃から同じクラスだった。
    驚いたんだ、比呂美はいつも明るくて、その笑顔が気になっていたから。
    …気になってたから。

    うちで、比呂美を預かってる。
    でも、あいつはいっつも小さくなって…


     絵本で「いつも泣いている」と表現されたにも関わらず、学校での比呂美(上段)は非常に快活な表情を振りまいている。ところがそれが仲上家に所を移した途端、下段の表情。この対比は1話が断トツで強調されており、意識させようとしてコンテを切っている事が窺えます。下段左は仲上家に引き取られた際の比呂美ですが、この時点で「いつも明るくて」とはほど遠い。右は着替えを眞一郎に見られた直後、眞一郎が謝ろうとした途端「ごめんなさい」を繰り返す比呂美。勿論比呂美には比呂美なりに、両親を失ったりといった出来事が影響している可能性も否めません。しかし、その割に上段の通り、学校での比呂美は元気そのもの。比呂美の事情は2話以降で描かれるので、ここでは眞一郎が「そんな状況に、何を考えるか」を意識して欲しい所です。

     比呂美は、家の中で縮こまっている。彼女をなんとかしてあげたいが、自分が話しかけても暗い反応ばかり。学校ではあんなに元気なのに…。ここで、眞一郎が比呂美に対してのある種の「無力感」を抱いてしまうのは致し方ないのではないでしょうか。「俺じゃダメだ」と考える材料は揃っている。寧ろこんな状況が一年続いているのに、いまだ彼女への想いを抱いている一途さの方を評価した方がいいのかもしれません。…勿論、積極性には欠けるんですけどね。半端に彼女の事を慮ってしまうがゆえに、勝手に色々考えてしまい、動けなくなる。そんな「三分の一の義憤」(西村監督曰く)を持った少年、仲上眞一郎が既に見えてきています。

    ・仲上眞一郎と石動乃絵の「魂の近さ」と、ティッシュのニワトリ

    バッチコーイ!

     この部分は2話で特に描かれるものながら、1話で既に片鱗を見せ始めています。また、そこを理解した上でないと、キャラクター理解の上でのこの回最大のポイントとも言える、ティッシュ箱で作ったニワトリの「流れ」が掴み切れないのではないでしょうか。こういった部分を逐一「なんとなく」で受け止めず、しっかりと追求していくことで、「とるてあ」はその魅力を露にしていきます。まずは先に、ティッシュ箱ニワトリを作った後のコミカルシーン「バッチコーイ!」。

     ここは物語慣れしていると自然に見える所で、特に気にかける必要はないかもしれません。しかし、やはり眞一郎と乃絵間には、何か通じている感覚がある。それを窺わせるシーンでもあります。乃絵が無言で手を広げただけで、眞一郎も同様に手を広げ、ただ一言「バッチコイ!」。この一般常識とはほんの少しズレた所にある、2人だけに通じるライン。それがここで言う、眞一郎と乃絵の「魂の近さ」です。幼き日のアン・シャーリーのように空想に生きる少女と、絵本作家を目指す少年。そう言葉にしてみれば、自然な結びつきとも思えます。ともに相手の中にあるファンタジーな要素を一笑できるような人間ではなかった。だから、2話の話にも繋がってきますが、眞一郎は乃絵の「涙」の話を受け止める事が出来たし、乃絵は眞一郎のティッシュニワトリや絵本といったものに、まっすぐな賛辞を送る事ができた…本当に、あらゆる意味で、この2人は「相手が彼(彼女)でなくてはいけない、進めない出会い」でした。

    あなたに、不幸が訪れますように!

     では少し戻って、前日へ。眞一郎がティッシュのニワトリを作り、届けるまでの「流れ」をキッチリ押さえておきたいと思います。まず、ニワトリ小屋にいる黒いニワトリ=雷轟丸を「空を飛びたいのに可哀相」と愛で、白いニワトリ=地べたを逆に威嚇する乃絵。その白ニワトリと同じで「飛ぼうとしないニワトリ」と言われた眞一郎はムッとして、乃絵に「頭が軽そうだからお前は飛べそう」と返す。そこでの乃絵の一言が、「あなたに不幸が訪れますように」。

     親友、野伏三代吉との会話で石動乃絵の「呪い」について教えてもらう眞一郎。脚本の岡田磨里さんが、女性なのに「小さくなりますようにって呪われてマジ使い物にならなくなった奴がいるらしい」という脚本を書ける事自体に妙に感心してしまいますが(確かに、この時期の少年にとって「小さくなる」はかなり怖いが)…とはいえ、とてもリアリティのある呪いとは言えない。この時点で、三代吉の会話シーンでだけ「ゲ」と言ってみせ、後は気にしない、という流れが自然だ、と思う人は多いでしょう。けれど眞一郎は、自らも空想の世界に身を置く絵本作家志望者。…だからそのまま「呪い」を信じる、という話ではなのですが、「呪い」は彼の意識の中で残っています。このあたり、呪いを大きく受け取りすぎず、小さく受け取りすぎない絶妙な解釈が求められます。

    おかえり…。
    …ただいま。
    …あなたに不幸が訪れますように…。


     帰宅時。比呂美の変化について改めて想いを馳せていた時、丁度帰宅してきた比呂美。表情を不器用ながらも作りつつ「おかえり」と言ってみたものの、返ってきたのはとても暗い「ただいま」。(その後の、玄関に入る時の「ただいま」とも比較にならない弱々しさ)ここで思わず口をついて出てきたのが、石動乃絵の呪いの言葉…なのですが。このあたりから、眞一郎という人物の面白さが既に現れはじめています。ただのハーレム主人公には無い、個性が窺えます。単純なしかし確実な話、「比呂美がよそよそしくなったのは昨日今日の話ではない」わけです。だから、比呂美のこの態度と乃絵の呪いに因果関係を見出そうとする方が無理がある。そんな事は一年もこの生活を続けている眞一郎は重々承知の筈なのですが、とりあえず人の呪いを受けたという事実は頭にある為に、どうしても嫌な事があると、そちらに線を引いてしまう。本当に、絵本作家志望という設定一つあるなしで、このあたりの性格への許容値がまるで違ってくるのが面白い所です。ただ注意点として、まだティッシュ箱ニワトリには直通の線は引きません。そこまでファンタジー世界に生きている訳でもないのですね。本当に微妙な所で、だからこそ面白い所です。

    キャ!エッチ!
    はぁ…野伏じゃないけど、普通の反応はそうだよなぁ…
    キャア…エッチ…


     脱衣所で着替えを覗いてしまったのに何度も謝られて、その「小さくなっている」要素が腹立たしいやら裸の興奮やらで複雑な表情をしているのが一枚目。動作は「怒り」を示しつつも、顔の紅潮は押し隠せないという、思春期全開ぶりです。自室に戻った後、独り言から比呂美の入浴シーンを想像(単に比呂美の入浴カットを挟んでいるという捉え方では、ちょっと映像の意味として弱い)。そこからティッシュを手に取る、というシーンですね。言葉は真剣に比呂美の現状を憂いているのだけれど、脳裏からは入浴中の比呂美の艶かしい姿が離れない。そんな眞一郎が手に取ったのはティッシュ・・・!

    …ティッシュ箱でニワトリを作ったのでした。
     と、ここは放送当時から僕自身もそう読んではいたのですが、最近西村監督がインタビューでまさに、という事を仰っているので書いておきます。

    第一稿では、じつは眞一郎がオナニーをするという展開だったんです。ただ、スタッフからはそれだけはファンが引くからやめてくれという話が出て、岡田さんが渋々とティッシュペーパーをハネに鳥を作るというのに変えてくれたんです。ただ、決定稿がそうなって、僕がコンテを切るわけですけど、やはりそのシーンになると岡田さんの思いが乗り移るわけですよ。だから箱で鳥を作る直前までは「もしかして…」みたいな気分が映像に残っているんです(西村純二監督)

     小さくなる呪いといい、結構お若いのに短小やオナニーに突き進もうとする女性脚本家、岡田磨里さんはどうなってるんだ、と思わなくもないですし(笑)基本的にこういう「ブレーキ」は、表現の邪魔になる事が多いので「止めたスタッフわかってない!」と言ってやりたくもなるのですが、この場合一稿から知る西村監督がコンテを切ることになったお陰で、映像にその「匂い」を残しつつ、結果として眞一郎の人物が更に深まる事に寄与した、という、超がつくレベルでの結果オーライが行われているので、今回に関しては問題ないどころか寧ろ奇跡のプラス効果なのでした。特に1段目の3枚目、ティッシュ箱をハァハァ言いながら手に取る眞一郎と、2段目2枚目の背中を向けた眞一郎のポーズにそのあたりの残り香が色濃く漂っています。本当に、これが集団作業の、総合芸術のマジックで・・・このような紆余曲折を経た事によって、眞一郎の感情の「流れ」がこれ以上なく見えてきます。

     つまり、眞一郎は呪いを解く為にニワトリを献上しよう…などというファンタジーな選択には、直線的には向かわなかった。しかし夕方のシーンで呟いたように、意識としては残っていた。そんな中脱衣所で半裸の比呂美を見てしまい、その遠慮具合にイライラするやらムラムラするやらで大変な状態に。そこでティッシュを手に取ったものの、思春期的な感情として「気になるあの娘をオナニーネタにする事の背徳感」のようなものgが起こり、咄嗟に性的な欲求を創作意欲に転換し、感情を「逃がし」た。その際、脳裏にずっと残っていた「呪い」→「ニワトリ」というのが影響して、ティッシュ箱をニワトリにしてしまった。

     …と、言う事になります。これ以上自然な解釈はちょっと思いつきません。この「読み」は西村監督のインタビューを読む前からしていた読みではあるのですが、そんなに選ばれたものだけができるヘンタイ妄想だ!というわけではなくて(笑)一部ではこのティッシュ箱ニワトリ「オナバード」などと呼ばれて親しまれているそうです。その深い所の意味まで探ったかはさておき、結構そこらで脊髄反射みたいな事言ってる方たちも(その愉しみ方もアリです、念の為)鋭いものです。或いは、これこそが映像の力と言えるかもしれません。監督言う所の「気分」が、ずれなく伝達されているのですから。

    更に翌朝。

    眞ちゃん、これなあに?東京の出版社って…
    中、見たのか!
    …あなたに不幸が訪れるように…


     これがダメ押しのダメ押し。東京の出版社に投稿していた絵本の結果通知を勝手に見られてしまい、激昂する眞一郎。しかも結果は不採用。再び「呪い」を思い出した眞一郎は乃絵の元へと向かい、「バッチコイ!」へと繋がっていきます。このシーン、眞一郎の父という作中影のボスとでも言うべき巨大な存在がその格の高さを見せ付けるセリフを吐いたりもしているのですが、それは父の事を触れる時があったら、その時にでも。とりあえず眞一郎の心の動きを追いかけるのに簡単に見過ごしてはいけないのは、「眞一郎は、食事をしに居間に降りてきた時点でティッシュ箱ニワトリを袋に入れている」という点。

     不採用通知は登校してから、校門のあたりで開いて確認している(2枚目のレイアウトとモブ、大変な作業ですね)。つまりこれ自体はティッシュ箱ニワトリを渡すか否かではなく、その際の声の強さ程度にしか影響していない。ニワトリティッシュを作ってしまったその時から、作ったならこれはあいつ(石動乃絵)にあげよう、そして不幸になる呪いを解いてもらおう…と考えている事が見える。繰り返しますが、本当にリアリティの無い呪いです。アレが小さくなる呪いは伝聞に過ぎず、比呂美の反応はおそらく一年ずっとそうで、採用不採用も呪いを受ける前に発送が終わっているもの(ここは、母への怒りの不条理さを自分で指摘する形で、2話で「眞一郎だって気付いてる」事を示しています)。なのに、呪いを解いてくれ!と乃絵に迫る。それでいて面白いのが、じゃあ「バッチコーイ!」で乃絵を受け止めた後、呪いを解いてもらったような描写があるかといったら、そんな描写は全くない。勿論そんな呪いは存在しないですから、呪いを解くシーンなんて作りようがないけれど、では眞一郎はどう考え行動していたのか?という点が注目ポイントです。全く、複雑かつ曖昧、言葉では正確な所は突ききれないゾーンなのですが…。懸命に、言葉で追いましょう。

     眞一郎は、呪いをそのまま信じてはいない。けれど、呪いを忌むべきもの、縁起の悪いものとして捉えてはいる。更に加えて言えば、眞一郎は「乃絵に呪いをかけさせた自分自身」のミスを認めているフシがある。つまり「頭が軽いから飛べそう」も、十分呪いを蒙るに足る失礼ではないか、と。…そういう思考がないまぜにならないと、ティッシュ箱でニワトリを作った後、即乃絵に送ろうと発想し、しかも送った割に見返りの、最重要目的ですらあるはずの「呪いを解く」にはそこまで執心しない、という不思議な立ち位置は理解できません。最初に書いた通り、このあたりの絶妙な眞一郎と乃絵の「魂の近さ」(あるいはこの場合、「呪い」周辺を捉えた、ルール作りの近さとでもいうべきか)は、2話へと続いていきます。


     こういった端から見て瑣末な事とも取れる、曖昧なまま流せそうな部分にまで「理」を求める事が、「とるてあ」のポイントです。何故ならスタッフが一丸となって同じ方向を向いた作品は、個人の思惑を超えた所で、揺らぎやブレを含んだ所での一段上の「個人」を形成することがあるから。実際、こうやって問い掛けていけば、多くの場合それに見合うだけの答えはフィルムの中に存在するわけです。物語が人の生き死にやスケールが広大な作品になれば、自然と意識を集中する人が増えるような印象がありますが・・・この地方都市での小さな物語は、全神経を注いでこそ、ようやく愉しみきれる作品だ。そこだけは、断言しておきたいと思います。
  • 湯浅比呂美と石動乃絵 投稿者:ルイ <2008/10/22 03:24>
  • #274 作品チェック 湯浅比呂美と石動乃絵
    投稿者:ルイ [2008/10/22 03:24]
    <<<親記事]

     第1話では湯浅比呂美と石動乃絵という2人の少女、その違いが明確に演出されています。それは体型や性格といったパーソナリティ、記号によるものというよりは、主人公、仲上眞一郎にとっての2人の少女、それぞれの根本的な違い。この後、お互いに相手の領域に踏み込んでくる事はあっても、基本この「違い」は一貫して存在しています。第1話はとりわけ眞一郎視点を意識させるカットが多く、このあたりは物語のはじめに意識的に組まれたものなのでしょう。上の2枚はどちらも彼女たちの登場シーン、画面下から上にPAN(カメラ移動)していくカット(加えて言えば、どちらもその前が眞一郎のカット。眞一郎カットから移行する事で、眞一郎の主観視点である事をアピールしている)なのですが、この明暗の対比がとられたような2枚でもって、視点の違いを感じ取れるでしょうか。とりあえず、しばしお付き合い下さい。


    肉体の比呂美

     冒頭、帳簿を打っている比呂美を上PANで捉えた直後の2枚。ここはPANではなく連続したカットであり、そのこと自体に意味があります。一枚目の唇の艶かしさが注目ポイント。この場面、比呂美は眞一郎に気付かず、一人PCで帳簿を打っている。つまり、彼女が唐突に独り言を呟くような可能性は極めて低く、物語的な意味で「唇に注意を寄せる必要」は皆無です。それなのに、唇→目と彼女を見つめる眞一郎の視点は、彼女の「女」、ここでは乃絵との対比の為にストレートに「肉体」と言っていますが、そのあたりを見つめています。静止画ではわかりませんが、画面をほんの少し揺らしているのも、眞一郎の感情を込める演出として機能しています。これを踏まえると冒頭の上PANも、眞一郎の「なめるように見る」とでも言えそうな、男としての視点が感じ取れると思いますが、敢えてPANにしない事で眞一郎の視点を明確にしているわけです。

     脱衣所にて眞一郎と遭遇。ここは眞一郎視点というより、事実として起こってしまった事をそのまま客観的に描いているようなコンテ。ただし、これは作劇として、やっぱりこういうシーンを担当するのは比呂美、なんですよね。眞一郎から見た比呂美、作品から見た比呂美というものの共通性が窺えると思います。

     こちらは脱衣所のあと、自室に戻った眞一郎が比呂美の事を考えている時の、彼のセリフを流しながらのカット。事実比呂美はこの時入浴中のはずであり、先ほど同様「事実を描いただけ」ととる事も可能なのですが、それにしては浴槽を上から俯瞰する描き方、視点はあまりにも意図的です。事実としての入浴と同時に、今2階にいる眞一郎の意識が「透視している」というか、上からの視点でもって今の比呂美を想像している。これくらいの読み方をした方が丁度いいでしょう。2枚目のブラジャーをつけるカットは、それとは少し意味合いが異なってきますが、今度はストレートに、視聴者に向けての比呂美の肉体性の強調である事は疑いようがない。

    ※細かく解釈すると、この2枚目は眞一郎が己の情動を恥じ創作行為に「逃げ(向かっ)」たカットであり、ティッシュ箱にカッターを入れたカットと、ニワトリティッシュが完成するカットの間に挟まれています。正しくは、比呂美がブラジャーをつけ、パジャマ姿で脱衣所から出てくる所まで描かれているのですが…これによって、ニワトリ製作中に比呂美は風呂から出た=眞一郎の「欲情」に向かいかけた精神状態が創作中に通り過ぎた事を演出しています。また、比呂美に注目してこのカットを眺めると、脱衣場から自室までの距離は余り無く、もう家人と顔を合わせる可能性も極めて低いにも関わらず、パジャマの下に再びブラジャーをつける、というのは一つの演出であると捉える事ができると思います。ここに、比呂美の仲上家での肩身の狭さを感じ取るか、或いは数分前眞一郎に見られてしまったような事を意識して、「女として」ブラジャーをつけたという点に着目するか。ここも、単純に通り過ぎるようでは「とるてあ」の深遠には辿りつけないのではないか、愉しみきれないのではないかと思っています。セリフを削ってある作品だけに、意識しすぎるという事はないんですね。

     翌朝、朝食を取るべく居間に現れた眞一郎が、既に食事中の比呂美を立ったまま見つめるカット。うっすらとではありますが、徐々に服が透けていっています。これは注意深い視聴者へのサービスカットなのか?そうですけど(笑)それだけではありません。やはり、一度創作活動で「流した」部分とはいえ、根強く眞一郎にとっての比呂美というものが肉体性とともに存在し続けている、という事の演出です。

    ※野暮かもしれませんが、一つ突っ込んでおくと…比呂美を裸にしたいのであれば、パンティは邪魔です。一方、下着姿を意識したいのであれば、胸にブラジャーがないのは不自然です。比呂美はまず間違いなく、この時ブラジャーをつけています。…更に、比呂美が今身につけている下着が、このストライプ柄であるとは限らない。眞一郎が透視能力者ではない、という仮定(そして、その仮定は100%の事実です)に基づくなら、彼は今の比呂美のパンティ柄を見ているわけではない。では、というと、これはそのまま昨晩脱衣場で目撃した比呂美の姿そのままなんですね。ブラジャーをしていないのは、あの時比呂美がしていなかったから。ストライプなのは、あの時の比呂美がそうだったから。つまり、あの一瞬で、即脱衣所から飛び出た割に、眞一郎は比呂美の全身をバッチリ見て、記憶しているのですが…入浴前の下着を翌日そのまましている可能性の低さを考慮に入れても、このシーンの「透視」はこのあたりまで組み込む必要があるでしょう。

    勿論物語が始まった直後の絵本が物語っているように、眞一郎にとっての比呂美はただの「体」ではありません。彼は比呂美の涙を拭ってあげたいと思っているし、笑顔や明るさを見せて欲しいと願っている。けれど、それとは不可分な所に、湯浅比呂美の肉体が持つエロスというものもある。それは単純に乃絵より女らしい体型であるといったような、フォルムなりの問題ではない。眞一郎にとっての「女」が誰か、という話です。1話はそのあたりの強調が明確。軽く「比呂美はお色気担当である」といった触れ方もできる部分ではありますが、そこにも「何故」を問い掛けることで、作品が見えてくるのであり、これが「とるてあ」で常時怠ってはいけない部分だと思います。


    ・精神の乃絵
    一方の石動乃絵は、1話では「これから」という所で2話に引く事もあり、比呂美に相当するほどにはキャラクターが描かれていません。但し、既に眞一郎と乃絵の関係というものは、1話で見えてくるようになっています。一番最初の2枚、比呂美の上PANに対しては唇や目といった「身体のパーツへの視点」が加えられ、眞一郎の男性視点が強調されている、というのは書いた通りですが、では一方の乃絵はどうか。乃絵の場合は唇や、あるいはこの角度からだと意識されがちなスカートなりに目線(カット)が集中するような事もなく(比呂美のケースと比べても、乃絵が「何を言うか」は注目してもおかしくない所なのに)それどころか、上PANの前に全体を捉えたカットが描かれています。

     ここに肉体を感じ取る事ができるでしょうか?後ろから射す光の神々しさも含め、まるで絵画。上PANは、このよく見えなかった部分を「目をこらして見た」為のもので、比呂美とは正反対に、全く肉体を意識していない事がよくわかるカットになっています。何せ、唇、パンティの相手に対し、こちらは「アブラムシ」に「呪い」ですからね。いかに抽象的な所から始まった関係なのか、という点において、直接的すぎるほど直接的な比呂美との鮮やかな対比が見て取れる。更に面白いのが、眞一郎は乃絵に出会う前に、既に乃絵をイメージしているという事実。

    どこかに天使がいて、君の涙を集めてくれればいい。
    そして、その涙で首飾りを作って、木に飾るんだ。
    キラキラ光る、涙の木…


     冒頭、比呂美に話しかけてから夕食を食べた後、自室に戻って絵本を再び描き出した時のイメージ。比呂美に近づきたい、救いたいと思いながらもそこに踏み出せない眞一郎が、他力に縋っている事を、この「天使に涙を集めて(拭って)もらう」発想からも読み取ることができます。今の自分ではムリだから、という思考。そして、その際「涙の木」の下にいる、それこそ眞一郎にとっての「天使」としてイメージされている少女が、この時まだ面識が無いにも関わらず、そのもの石動乃絵。

    眞一郎が木の上の乃絵を見て驚いたのは(そしてじっくり目を凝らしたのも)余りに自分が想像した「涙の木と、そこにいる天使」のままだったから、という事が無意識下に存在するのでしょう。つまり、乃絵はスタート地点からして、眞一郎にとっての「天使」を体現しており…それは一言目で一旦瓦解するのですが(笑)全体通しての読みとしては、極めて正しかった。のちに「乃絵にとっての眞一郎」が徐々に見えてきますが、この第1話の初遭遇という段階ですら、既に「眞一郎にとっての乃絵」は、心が求めた、まさに運命的な出会いだったということが見えてきます。心が求め合った関係に、肉体の割り込む余地はないという事。少なくとも第1話では意識的なまでに、肉体=比呂美との対比がとられています。
     第1話のラスト、サブタイトルにもなった「私…涙、あげちゃったから」と乃絵が呟くシーンも、最初の画像同様に上PANであるにも関わらず、やはり比呂美とは違い肉体性とはかけ離れた、出会いのシーン同様の絵画のような抽象的な美を誇っています。しかも、ハーモニー演出によってそれが強調されている。神秘的な美しさは、例えば彼女の容姿なり体型によって生まれたものではない、という事が感じ取れるでしょうか。それは仲上眞一郎と石動乃絵の、心と心の共振が生み出したものなんですよね。

    最後に一つ余談というか、比呂美との対比と無関係な部分なのですが、出会いのシーンといい、このシーンといい、1話には乃絵と眞一郎の目線が同じ高さに揃わないカットが多い(※)事は、注目して良い部分だと思います。逆に眞一郎と比呂美の場合はほぼ同じ高さで会話する事が多いですね(その代わり、こちらは眞一郎が遠慮したり比呂美が目線を逸らしたりして、会話が打ち切られてしまう)。…乃絵との出会いは木の上と下。このシーンでは、堤防の上と下。他にも、ニワトリ小屋での会話の多くはどちらかがしゃがんでいる形で行われており、ティッシュニワトリを乃絵に渡した時も、乃絵だけは座っています。目線を安易に揃えない事で、眞一郎にとっての乃絵、とくに出会った直後の乃絵が、いかに掴みどころがなく、不思議な存在か。その距離が演出されています。

     更に物語全体を眺めた上で言うのなら、この2人は「並んで歩く存在ではない」事を既に暗示していると取る事もできる。2話で出る部分ですが、乃絵は「眞一郎を見上げるのが好き」。実際の身長関係から言っても常時乃絵は眞一郎を「見上げる」事が多いのですが、その割に眞一郎にとっての乃絵の印象も、「見下ろす」より「見上げる」に支配されているのは、この1話の演出だけを観てもわかる通りです。つまり、眞一郎と乃絵はともに見上げあう、高めあう関係という事。横に並んで歩いていく関係性は、映像では強調されません。その事が、既に演出として存在しています。この2人の目線の関係が、物語が秋から冬へ、そして春へと進む中、どう動いていくか。ここも是非注目して欲しいと思います。

    ※勿論、そうではないケースもいくつか存在します。小屋での会話では、後半一瞬話が通じかけた(眞一郎が「頭が軽いから飛べそう」と皮肉を言うまでの短い間)時のみ。ティッシュニワトリの時は、乃絵が眞一郎を思い切り褒めて「いい子いい子」した後、ニワトリ小屋にたどり着く(雷轟丸の死という悲劇が待ち受けている)までの、穏やかな会話シーンでのみ。これらの時だけ、2人は特別な高低差なく会話しています。しかし、いずれも一時的なもので長続きはしません。

     最初に書いた通り(お互いに相手の領域に踏み込んでくる事はあっても、の部分)肉体の比呂美は肉体のみに留まるわけではなく、精神の乃絵も精神世界のみにあるわけではない。比呂美の感情に感じ入る事もあれば、乃絵の肉体性にドギマギする事もある。けれども、1話での示唆というのは強いもので…それは、物語を強く意識した妥協のない作りならば殊更に。そのあたりをセリフや展開に限らず、映像からも注目して観る事で、また違った味わいが「とるてあ」から得られることと思います。